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 目次

エピローグ
〈鐘〉



「……ほんとうにいいんだな。二度は訊かんぞ」
 渓流を表す絵が描かれた掛け看板の下で、うねる黒髪の間から覗く青い瞳が、そう問うた。
 視線の先には、すらりとした体格の青年が、穏やかな空気を纏って立っている。
「——はい」
 問われた青年は、真っ直ぐなまなざしを以って、目の前に立つ長身の男へとそう答えを返す。そんな青年の目を、深く青い目が見返した。青年の褪せた緑の中に何か光るものを見出したのか、男の目が、笑いはせずとも微かに細められる。
 青年は困ったように笑って、少しばかり頬を掻いた。
「そもそも、宮廷召喚師なんて、僕にはちょっと荷が重すぎますよ。それに僕は、此処で守りたいものが在る」
 言って、彼は自身の心臓の上に手を置いた。
「此処でしか、守れないものが在るんです」
 その言葉を聞いた男が、目に掛かる前髪を鬱陶しそうに払い、その唇からほんの少しだけ息を吐いた。もしかすると、笑ったのかもしれない。
 夜の色を身に宿す男は、その青い帳で、青年の背後に立つ小さな酒場を見やった。そうして再び青年の方へと視線を映すと、片方の口角だけを皮肉っぽく上げ、それから今度は分かり易く目を細める。
「……まあ、それもそうだな。俺は、人のすることにどうこう言う趣味はない」
 日が暮れはじめる、ほんの数歩手前の光が、道外れに建つ酒場に注いだ。それを受けて、酒場の窓がまばゆく光る。同じ陽光を受けた青年の、金色交じりの淡い水色の髪が、海の白のようにきらきらと輝いた。
 癖っぽい髪を、しかし右耳の前は短く、左耳の後ろでは長くきっちりと三つ編みにしている青年とは対照的に、伸ばしっぱなしのうねる黒髪を、首筋の辺りで赤茶色の髪帯を用い、雑に一つに纏めている男のそれは、陽光を浴びても尚、夜の深さを増したばかりのようだった。
 青年は太陽の沈む方角を眺め、訪れようとしている今日の黄昏を想う。
 男もそれにつられるようにして、夕暮れの光が差し出されている方を見やった。
 建物の多すぎるこの街では、自然の色よりも人が営み続ける姿の方がよく見える。それでも尚、色付く自然が見えないわけではなかった。遠くから今日の終わりを告げる太陽が歌を歌い、この街の銀灰色の地面を橙の色に染め上げている。
 ふと、青年が男の方へと顔を向けた。
 日が沈む方を眺める男の横顔、その少し下で、彼のポーラー・タイに填め込まれた強い色の翡翠が、陽を吸い込んで輝いている。そこから何故か風を感じた。それと共に、その吹かず、触れられない風の往き先を知っているかのように、男が片手を髪帯へと滑らせたのを、青年は見逃さなかった。結ばれる赤茶色から青年は、いつか過ぎ去った、黄昏の色を想い出す。
 ややあって、見えない風を追うように、男の瞳が青年の方を向いた。
 そして瞬間、風が吹く。
 風を受けた男の黒髪が舞い上がり、それと同時に、彼の纏う真っ白なローブも翻っていた。夕暮れに吹く風は陽を宿して微かに暖かく、そして微かに夜の冷たさも混じっている。男の瞳はその一瞬に何を見たのか、青年には彼の青い目に瞬きの間だけ、翠を纏った銀の光が宿って見えた。
 一瞬だけ吹き荒れた春の嵐が治まると、男は青年の褪せた緑を揺るぎなく見やり、笑顔には見えなくとも、しかし確かに笑ったようだった。
「精々守れよ、失せ物探し」
「あ——ありがとうございます」
 男は、青年の返事を聞くと、今度はどこか不敵に鼻を鳴らし、そうしてその唇をついと持ち上げる。
「——ではな。もう会うこともないだろうが」
「……いいえ」
 月の光をそのまま纏ったかのようなローブを翻し、青年に背を向け一歩を踏み出していた男が、彼が発した否定の一言によって立ち止まる。思わず顔だけで青年の方を振り返れば、彼は腰に差していた短杖を取り上げて、こちらに向けて軽くそれを振った。
「あんたが何かを失くしたときは、きっと僕が見付けてやるよ」
 彼の持つ杖の軸を取り囲む鈴たちが涼しげな音を立て、その頂に在る鐘もまた、耳に心地よい響きを奏でている。それを聴きながら、男はやはりどこか意地の悪そうな笑みを口元に浮かべ、しかしその深い青は青年に向けたまま、低く落ち着いた声で言い放った。
「失くさない」
「うん、それがいちばん大事なことだと思う」
 笑って、青年は鈴の杖を高く掲げた。
「——じゃあ、また!」
 青年の言葉が発せられるときには、もう顔を前に向けて歩き出していた男だったが、しかし青年の澄んだ声を聴いて、ふと想い出したようにその足を止める。
「そうだ」
 言いながら、男は再び青年の方を振り返る。青年が掲げていた手を引っ込めて、不思議そうな色をその表情に浮かべた。
「その節は世話になったな。礼を言う」
「え?」
「——姫さまの、失せ物探し」
 そう言った男の声色の、なんて優しげなことだろう。男は誰が見てもそう取れるように微笑み、そしてそのまま青年に背を向けた。
 柔らかな風が吹く。
 先ほど吹いたものとは違ってそれは、朝に吹いては目を覚まさせるような冷たさと香りをもち、微かに銀色すらも纏っていたかもしれない。
 男はその風の向かう方へと、静かな夜と熱く燃える月光を纏ったまま歩いて往く。彼はもう、振り返らなかった。
 ふと、青年は空を見上げる。
 先ほどまでの青空が、微かな橙と桃に染まっていた。きっと地平では、太陽が辺りも巻き込んで、赤くあかく輝いていることだろう。
 それはまるで、今日を精一杯生きたことの証明のようだ。明日のために眠る太陽の心音のようだ。
 見上げた空には、月が淡い輪郭を保って浮かんでいる。
 青年は視線を降ろし、その顔を通りの方へと向けた。こちらへと近付いてくる足音が聴こえてきたからだった。しかし、その響きはどこかおぼつかなく聴こえる。
 それから間もなく、青年の瞳にまだ年端もいかない小さな少女の姿を映った。泣いているのだろう、しゃくり上げながら小さな足でふらふらと石畳を歩く少女は、両手でその目を擦り続けている。
「ねえ、きみ——」
 そう青年が声をかけようとした瞬間、少女の足がもつれ、彼女は痛ましくも両腕から石畳に倒れ込んだ。
 青年は慌てて少女の元へと駆け寄り、彼女が起き上がるのを手伝う。起き上がり、石畳に両膝を突いたまま顔を上げた少女の目は、泣き腫らして真っ赤になっていた。
「だいじょうぶ? ああ、血が出てるね。早く消毒しなきゃ……」
 言えば、しかし少女は小さくかぶりを振った。その様子に疑問を覚え、擦り剥いた少女の腕ばかりを見ていた青年は、そこから視線を外し彼女の方を見る。
 銀色の髪に真っ黒な瞳。どこか見憶えがあるような気がするその色よりも青年の目を捉えたのは、少女が纏う、どこまでも黒い帽子に、衣装——喪服だった。
 少女がまた首を振る。
 何度も何度も頭を左右に振って、青年の片手を小さな手のひらで掴み、もう片手の指先で、青年の持つ鈴の杖を示した。それから少女は青年の片手から手を離すと、何も持っていない彼のもう片方の手に触れ、それを開かせる。そして彼女は、そこに何かを指先でたどたどしく書いた。
「〝母〟——お母さん……?」
 青年が手のひらに書かれた文字を読み上げると、少女は彼に向かって頷いた。そんな少女のどこか期待の滲んだまなざしに、青年は少しだけ哀しそうにも、寂しそうにも見える表情で微笑むと、彼女に向かって小さくかぶりを振る。
「……ごめんね。それはできないんだ。僕には、きみをお母さんに会わせてあげることができない。僕だけじゃない。他の誰にも、それはできないんだ。それだけは」
 少女の黒い目に、くっきりと落胆の色が浮かび、それが透明な雫となって彼女の瞳から零れ落ちた。青年はそれを指先で拭うと、少女の小さな両肩に触れ、頭を柔らかく撫でた後、その背中をゆっくりと叩く。そうして彼は、自分と小さな少女の心音がゆっくりと鳴るのを、心の底で聴いていた。
「悲しい、寂しいね……苦しいだろ、すっごく……。よく、頑張ったね……」
 そんな青年の、どこか泣き出しそうな目を、少女がその丸い瞳で見上げる。そうしてまた青年の片手を取ると、そこに彼女は〝声〟、そして続いて〝ぬいぐるみ〟と書き込んだ。青年は顔を上げる。
「声——声を失くしたのかい?」
 少女は頷く。
「……お母さんを、亡くして?」
 少女はまた頷いた。
「そう、か……」
 青年はそう呟くと、少女の前に膝を突いていたその身体を立ち上がらせて、それから少女に向かって手を伸ばす。少女もまたその手を取って、頼りなくも立ち上がった。それを支え、見届けると、青年は膝を少しだけ折って、少女へと自身の目線を合わせる。
「僕の名前は、アインベル・ゼィン・アウディオ。失せ物探しの召喚師だ」
 言うと、彼は柔らかく微笑んだ。
 沈みゆく太陽が届けるその金の光を背負って、アインベルは片手に持つ短杖を長くし、そこに術師の空気を纏う。思えばこの長杖も、伸びた身長により随分と短くなったものだと心のどこかで感じながら、青年はその石突で地面を軽く叩いた。澄んだ鈴の音が辺りに響く。
「さて——じゃ、まずはぬいぐるみから……だね。うん、だいじょうぶ」
 アインベルは少女の目を真っ直ぐに見つめ、頷いた。
「見付けるよ、全部」
 術師らしい自信と、彼特有の真っ直ぐな純真さの両方をその目に宿して、アインベルは少女に笑いかけた。そうして少女の手を取ると、自身の背後に在る酒場を彼女に示す。
「僕がきみのぬいぐるみを探している間、中で手当てをしてもらうといい。それに、もうすぐ夕方の演奏会なんだ。今日はみんないるんだよ——そう、僕の友だち。ね、聴いてみて、みんなの音楽。きっと、一緒に歌いたくなるから」
 少女は酒場の入り口である白木の扉を見つめた後、その近くに在る硝子窓へと視線を映し、そこに色付いている様々な色を——酒場の中で笑い合う人々がつくり出す、虹の色を見たようだった。
 ふと、調律のためなのか、それとも特に意味のない、ただ鳴らしたいだけのものなのか、酒場の中から、軽快で気まぐれにも聴こえる調べが流れてくる。この調子だと、ただ鳴らしたいだけだろう。その楽の音を聴いて、アインベルが洩らすように笑った。
 そんな彼の様子を視界に映して、少女がアインベルの方を見て頷く。それを見たアインベルの顔がぱっと輝き、心から嬉しそうな笑みが広がった。
「あ、そうだ——」
 言いかけて、しかしアインベルの視線が、少女を見付けたときのように通りへと向いた。
 蹄の音が聴こえる。
 それも、数人分だった。アインベルは何かに思い至って、またその顔を嬉しそうにほころばせると、これからすぐにその姿を現すだろうその人たちに向かって、片手を高く掲げ、そして振る。少女もつられて、アインベルの見ている方へと視線をやった。
 葦毛に乗った人物が先頭に、こちらへと近付いてくる。馬が歩を進めるたびに小気味よい音が響き、それに呼応するように、馬上では朝焼けのような色をした赤のマントと、兜の尾羽、そして海の色よりも真っ白な長い髪が、ゆったりと揺れていた。その人の銀色の手が、陽の光を浴びながらこちらへと軽く手を振った。
 それを見やると、アインベルはまた笑みを明るくして、隣に立っている少女の方へと柔らかく視線をやった。
「ねえ、きみの名前は?」
 そう問われた少女が、その唇から声もなく発したのは、いにしえの言葉で〝誕生〟、〝詩〟、すべてのはじまりを謳う言葉だった。
 その名前にアインベルは少しだけ驚いた表情をしたのち、しかしすぐにその顔に懐かしさと喜びの色を浮かべ、少女の名前をそっと、心から響かせるようにして呼んだ。バース。アインベルの口から発せられたそれはまるで、遠い再会を喜ぶような響きをもっていた。
 ふと、降り注ぐ光の色が強くなった。
 それと同時に、今日の黄昏を告げる鐘が街の中に鳴り響く。
 太陽と月の間に訪れるその微かな時間は、暖かく、そしてやさしい。
 その時間の中で沈み、また浮かんでいく二つの光に照らされながら、アインベルは少女に柔らかく笑いかけ、そうしてゆっくりとその手のひらを伸ばした。
「——見付けよう、一緒に」
 黄昏の光を浴びる彼の手の中で、しゃん、と鈴の音が鳴った。

 
 

20180311
シリーズ:『たそがれの國』〈失せ物探し〉了

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