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風のつばさ、記憶のうた

 目次

 人は、歴史をつくるために、歴史に足を踏み入れる。
 ウルグ・グリッツェンは生き物の——魔獣すらの気配もない、古びて朽ち果てようとしている神殿の中を、ほとんど無表情に歩いていた。ウルグの靴音ばかりが壁に反響し、その進む彼の歩みだけを神殿の奥まで伝えている。
 これは、ウルグ・グリッツェンが〝人は誰しも内に獣が棲んでいる〟ことを知った日、それより前の日の話である。




 うるさいほどに静かな神殿の中を進んでは、時折立ち止まる。
 壁に手を触れた状態で立ち止まり、眉間に皺を寄せ何やらぶつぶつと呟いているウルグは、上着のポケットに入っている小さな手帳を取り出し、ぱらぱらと頁を捲った。それは、神殿の壁に彫られた古代語——最早失われた前時代の言葉——を解読するためである。
 ウルグは難しい顔のまま、壁の文字と自分の手帳を見比べた。
(……夜に歌う男は……歌った……あの亡骸を悼め……かわたれに沈んだ……誰そ彼よ……彼は誰か……?)
 所々掠れて読めない古代語を何とか解読すると、叙事詩なのか叙情詩なのか——というより、最早詩という解釈が正しいのかも分からないそれに、ウルグは溜め息を吐いて軽く額を押さえた。
 早急に煙草を吸いたい欲に駆られて仕方がなかった彼だが、煙草は今現在姫さまに取り上げられている。更に此処は神殿内ということもあり、何かに引火でもしたら困るのはこちらの方だった。
 手持ちには得意の毒消し、銀薄荷のタブレットのみ。
 ウルグはそれを一粒口の中に放り込むと、その瞬間に奥歯で噛み砕き、長く息を吐いた。
(何故、前時代の人間というものはこんな回りくどい書き方しかできない……? ほんとうに後世の人間に伝える気があるのか、これは……)
 錬金術というものも、こういった建造物ごと修復できるのなら話は簡単なのだが。前時代がどうだったかは分からないが、今の時代の錬金術師は建物を直すというような大それた力を持ってはいない。
 ウルグ・グリッツェンも例に漏れず、彼のような比較的力のあると言える錬金術師さえ、何かを元にそれに近いものを創り出す、ということならともかく、修復するとなると中々一筋縄ではいかないのだった。
 今まで手をつけたもので一等苦だったのが古びた前時代の本の修復だった。
 技術もそうだが、まず、手間と時間のかかりようが尋常ではない。修復しようとしているものに記されている知識の量が多ければ多いほど、錬金術で必要な素材や工程も大幅に増えてくるのだった。
 そも、修復というものは何かを創り出す錬金術の範疇ではない。
 ウルグはかぶりを振って歩を進めた。
 神殿の奥地へと進んでいくと、あちこちが崩れては欠けてしまっている祭壇らしきものの前で、何やら見覚えのある影の姿をウルグは見た。
 相手が気が付くようにわざと大きく靴音を鳴らして一歩進めば、影がこちらを振り返る。無造作に束ねられた髪が振り返った拍子に揺れ、どこか尻尾のようにも見えた。
 突然背後から現れたウルグに、相手はさして驚いた様子もなく軽く笑って片手を上げる。ウルグも微かに口角を上げて頷いた。
「……ハイク」
「ああ。奇遇だな、ウルグ。調査か?」
「概ねそんなところだな。お前は? 今日は宝探しか、調査か、どちらだ?」
「いんや、まぁ、両方ってとこかねぇ」
 ハイクと呼ばれた青年はひらひらと手を振った。
 トレジャーハンターであるこの青年とは一度、いや二度だったか三度だったか、それともそれ以上だったかは忘れたが、成り行きで共に遺跡調査をしたことがある。
 かの者の名は、ハイク・ルドラ。
 こいつは一見すると楽天家に見える。
 が、しかし、トレジャーハンターである彼のその勘或いは洞察力といったものは一目置くところがあり、言動こそ軽く聞こえがちだがその実それより遥かに聡い男なのだろうと、何度か彼と行動を共にしたことのあるウルグは心の中だけでそう思っている。
 つまるところ、ウルグはかなり彼を買っているのだった。
 音を愛し、歌を愛し、翼を持つが如く跳ね踊っては浪漫を愛するトレジャーハンター。
 たとえるとするならばこの青年は、さながら心に青空を飼っているような男だ。
 しかし元々心の内を話すことが苦手なウルグである、もちろんその考えは己の腹の中ばかりに留めた。彼はその代わりの言葉を紡ぐべく口を開く。
「こちらはさして収穫もないが、そっちはどうだ」
「大してないな。昔の建築技術はすごいってことが分かったくらいで」
「ああ。まあ、今の技術でここまでやろうとするなら、それは途方もないことだろうな。前時代の技術力には果てがなさそうだ、強欲と言い換えてもいい」
「どうだかな。その〝途方もないこと〟を前時代の連中はそのままでやってのけちまってたのかもしれないぜ」
 祭壇を見上げる彼に倣うようにして、ウルグもこの神殿をぐるりと見渡してみた。
 朽ちかけているとはいえ、祭壇に凝らされている草花と鳥の意匠は見事なものであり、壁一面の彫刻も見る者が見れば息を飲むだろう美しさであった。
 ウルグは目と目の間を押さえる。青い夜の瞳の奥が乾きに痛んだ。
(俺は今、何を見ていた……?)
 最早何を見ても探してしまうのだった、黄昏への手がかりを。
 昔の自分がどうだったかは覚えていない。今までの人生のほとんどを錬金術と黄昏の真理への探究に費やしてきたのだった。或いは、その錬金術ですらも黄昏の真実を掴むための道具でしかないのかもしれない。
 いや、それ以前にこんな自分だ、美しいものを美しいと感じる心など元よりもってはいないのではないか……
「そういや、ウルグ」
 深みに嵌まりそうになった思考を、青年の吹く風のような声が吹き消した。ウルグは彼の方を振り返る。
「ルーミは?……ついてきてないぞ、迷子なんじゃないか?」
「……ああ、今日は〈スクイラル〉に置いてきた。あそこは工房都市だ、剣の整備には持ってこいだろう。ついて来られてあちこち跳ね回られてはかなわんからな」
「……心配性」
 どこかからかうように言う彼を横目に、ウルグは長く息を吐いて天井を見上げ、それを見るともなく見ながら銀薄荷のタブレットを口に含み、ぼりぼりと噛み砕いた。
「煙草もなし? こりゃ驚いた!」
 芝居がかっているような、或いは歌うような口調で彼はそう言うと、笑いながら再び祭壇の方へ視線をやった。歌いに踊るを好むこの男のこういった態度にはもう慣れている。
 ウルグも同じように視線をそちらに持っていくと、二人は祭壇近くに落ちている〝何か〟にほとんど同時に気が付いた。
 顔を見合わせて目だけで頷き合うと、青年の鋼玉に似た瞳がちかりと閃く。
 彼は素早くその〝何か〟を拾い上げ、ぱらっと頁を捲った。
 どうやら手記のようである。
 ウルグがそんな彼に続く。ハイク、と名を呼べば彼は心得たように視線を手記の上に滑らせて、そこに書かれている一節を読み上げた。
「……〝今日はおそらく、酉の月五日であろう。此処までどうにか生き延びることができたが、しかし、最早これ以上は叶わない。私たちは此処で最期を待とう。戦火が近い。朝も夜も、空が鳴いている。妻と子が、私より先に逝かないことを祈るばかりだ……〟——まともに読めるのは、ここまでだな……」
 そう言って顔を上げた彼の手元をウルグが覗き込むと、それはやはり、前時代の言葉で書かれた手記だった。彼が開いている頁のほとんどは劣化しており、確かに今しがた読み上げた部分しかまともに読むことができなさそうである。
 ウルグは彼が読み上げた一節を頭の中で咀嚼し、今まで調べ上げた様々な事柄との関連性、辻褄合わせをすることに思考を奪われていたが、目の前のこの、心に青空を飼っているだろう青年は少しばかり違ったらしい。
 彼は手記を眺めて少しだけ微笑むと、その文章にウルグとは違った何かを見たのだろう、瞳の鋼玉に穏やかな哀しみと寂しさを浮かべると、そっとその手記の表紙を閉じた。
「……ウルグ」
「ああ。どうした、何か解ったのか?」
 青年は少しばかり笑ってかぶりを振る。
「いや……なあ、ウルグ、この手記——此処に置いていかないか」
 俯き、顎に手を当てて考え込んでいたウルグはその言葉に顔を上げ、彼の方を見た。
「此処に?」
「此処に。これは、此処に在るべきものだと思う」
「……」
 目が合う。
 ウルグはその夜の瞳で、彼の鋼玉の瞳の先に在る青空、そしてその奥に彼が目に映した手記の戦火と鳴り響く空を見たのだった。
 ウルグは静かに溜め息を吐くと、微かに口角を上げて片手で軽く追い払うような仕草をとる。
「この神殿の先客はお前だ。それを先に見付けたのも、拾ったのも、読んだのもな。……好きにすればいい」
「——ありがとう」
「……礼を言われる筋合いはないな」
「ウルグ、お礼に一曲歌おうか?」
「いらん。後にしろ、後に」
 それから二人がすっかり神殿を出ていった後、まるで此処で果てた者の最期の呼吸だというように、神殿の中を強い一陣の風が駆け抜けていった。
 手記の表紙が風によって再び開かれ、そして再び風によって閉じられる。
 強い風により神殿の一角が崩れ落ちた。
 この神殿の、終わりが近付いている。
 此処にあるべきだと彼が置いた手記は、この神殿が朽ち果てそのすべてが崩れ落ちる最後の瞬間まで、彼ら以外の誰の目に留まることもなく、そして触れられることもなく、永い時の中で最期のときをただ静かに、静かに待ったのだった。


20160830 
シリーズ:『たそがれの國
※ハイクさん(@hiroooose)をお借りしました!

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