ポイニクスで在らずとも
上空では柔らかな風が吹いている。
イリスの回り道は依然続き、彼女は世界樹から見て北西に位置している〈ルナール〉から西南西に位置する〈クローリク〉へと熱気球に乗って移動していた。
〈ルナール〉に滞在していた行商人が売っていた菓子の一つに見覚えがあったイリスは、思わずその菓子を買い上げて、気球の中で紙袋に入ったそれらの中の一つをかじっている。
隣ではアインベルが熱気球の球皮の内側で炎の色に発光している、薬草園の機械人形に填め込まれていたものよりは数倍大きな竜核を興味津々といった表情で眺めていた。
「アインベル、竜核に興味があるの?」
「うん? そうだね……竜核にっていうよりは気球の方に興味があるかな」
イリスの方へと一度顔を向けてアインベルはそう言うと、それから頭上へと再び視線を戻した。
彼らの頭上には自分たちが乗っている長方形の吊り籠の四方から伸びた金属製の台枠が、大きな竜核が球皮に向けて上部に填め込まれた台座を守るようにして囲っている。台座には翼や風、そして炎を彷彿とさせる紋様が美しく彫り込まれていた。
「台座もそうだけど、この気球のエンベロープに描かれた紋様全部、これは魔術師の言葉だよ。古代語と紋様が織り交ざって一つの絵みたいになってるけど、いやこれは間違いなくまじない言葉だ。たぶん魔術師たちはエンベロープに描かれたこのまじない言葉をすべて声にして魔術と成らせ、そしてこの竜核に火を灯すんだろうね」
「……前から思っていたけれど……やっぱりあなたって天才なのね、アインベル」
「ばか言わないでよ、ねえさん。術を生業にしてる人間ならこれくらいは誰にでも解るって」
何やら神妙な面持ちで的外れなことを言ったイリスの方を、アインベルは呆れたように笑いながら見やった。
それからイリスの手にしている紙袋からひょいっと一つ焼き菓子を抜き取ると、どこか雲丹を平べったくしたような形をしているそれを一口かじって、今度は柔らかな表情でイリスに向かって微笑む。
その優しげな緑の瞳に浮かんだ光は、宝を見付けてちかりと煌めくイリスのそれにも似ていたが、しかしアインベルの瞳に浮かんだ光は宝を見付けた狩人のものというよりは、人の想いを見付けた失せ物探しの瞳に柔らかく浮かぶ光、それそのものだった。
「このまじない言葉を全部間違えないで言い切る魔術師たちもすごいけど、エンベロープにこんな量の紋様を描いた人や竜核の土台に紋様を彫った人も同じくらいすごいよね。こういうのを職人技って言うんだろうなぁ……」
「そうね。……魔術師たちの言葉がまじない言葉を声にする、ということなら……熱気球職人たちの言葉はきっと、エンベロープに土台に、紋様を、まじない言葉を描き彫ることなんだと思う。それがきっと、彼らの言葉」
「ねえさんは時々難しいことを言うよね……でも、分かるよ。何となくだけど分かる」
「だいじょうぶ、アインは天才だから」
何がだよと再び呆れて肩をすくめるアインベルに、イリスは息ばかりを洩らして笑った。
それから彼女は吊り籠の中で視線を巡らせると、遥か遠くに巨大な緑がそびえているのを目に留めて、空の中を柔らかく吹いてくる風を感じる。この風は世界樹の在る方角から吹いてきていた。
頬を撫でて去っていく風の感触は柔らかく、優しい。
だがそれはどこか、この地に在るものすべてに対してまったくの無関心な風とも取れる。
今、此処に吹いている風は寂しい。
寂しげな、黄昏の風だった。
「……ねえさん」
「ん……?」
「〈星の墜ちた地〉の在り処、分かったんだね」
アインベルが発する確信めいた声に彼の方を向いてイリスは頷くと、それから再び風の吹いてくる方角を見やり、一度の瞬きの間だけその睫毛を伏せる。
紙袋を腕に抱えては手袋をつけていない両の手のひらを見つめ、その手が守れなかったもの、守りたかったものの熱、その重みを感じてイリスは両手の中にきつく爪を立てた。
そうして視線をアインベルの方に戻すと、彼女の鮮紅は彼の穏やかに細められた老竹色と目が合う。
イリスは、アインベルの思慮深い緑の中に宿っては彼の優しさとなっている微かな寂しさを感じ取ると、手の中に爪を立てる指先を緩め、その広げた手のひらで自身の心臓の辺りに触れてそれから小さく微笑んだ。
熱気球に差し込む陽光に照らされて煌めく瞳には、寂しさや痛み、そして愛しさや覚悟、その熱の色が虹色の火の粉のように輝いては浮かび上がっていた。
「私の夢の在り処を……お父さんとお母さんの、そのねがいの在り処を、私ははじめから知っていた。ずっと在ったの——ここに」
それからイリスは吊り籠の枠に頬杖をつくと、熱気球の向かう先を見つめながら小さな声で歌を口ずさみはじめた。どこか音程が行ったり来たりしている、静かだが調子外れな歌声。
それはいつか、声だけを持つのだと歌ったハンターが口ずさんだ、とこしえの青き空の歌。
彼女は暮れの気配を宿す風に小さな歌を乗せながら、この歌と同じように、己が歩んできた旅路の上に在ったものの姿を想う。
風を歌っては道を拓く黄昏の黒馬、
その主人の漆黒の瑪瑙と燐葉石の瞳、
夜空のような二匹の魔獣を伴う一人の少女、
赤い月、
遺跡の影——
彼らは、黄昏の獣と共に生きる者。
朝告げの風をその身に纏う少女、
幾多の夜を越えた賢き梟の老錬金術師、
歌の尾羽と踊る影を引き連れる狩人——
彼らは、黄昏に抗い生きる者。
熱を宿して耳を澄ませる優しき老婆、
彼女が見付けた街中の赤い夢百合草、
赤い月の少女が指差した天上に燃える青の聖火、
不器用な弟の稲妻のような励まし、
行ってらっしゃいと微笑んだ母さんのまなざし、
空に舞う花々のまばゆい色彩、
甘すぎる冷やし飴、
澄み渡る少女の呼びかけ、
それに応えたハンターたちの笑い声、
星の降る洞窟、
水晶のような氷の槍、
忘れていた想い出、
薬草園で出会った静かな夜とからくり蜥蜴、
竜核の炎、
この目を開かせた柔らかな鈴の音、
母が瞼に落とした暮れない口付けと、父が呼んだこの虹の名前……
だいじょうぶだ、この旅路は失うばかりではない。
出会ったすべては今も色褪せずに、この胸の中に在る。
在り続ける、他の誰が忘れても、それはここに。
その熱は、ここに。
イリスの歌は続く。
それは静かで調子外れで、そして消えない熱の宿った声。
アインベルはそんな姉の歌を聴きながら、相変わらず下手くそだなぁと顔をくしゃりと歪ませて笑った。
アインベルの笑い声につられてイリスも小さく声を上げて笑い、吹いてくる風をその身体に受けながらこれから歩いて往く旅路のことを想う。
未来は見えない。
未来など何も見えやしないが、しかし、太陽の光を受ける彼女の瞳は、確かに虹の色に強く煌めいていたのだった。
✴
「……ほんとうは、〈ルナール〉から飛空艇に乗った方が目的地には近いの」
「え? じゃあどうして、わざわざ……」
飛空艇を降りて早々に失せ物探しの仕事を見付けたアインベルは、先に行っててと叫びながら町の中を走っていってしまった。
イリスはそんな弟の後ろ姿を口元に笑みを浮かべながら見送り、そうして〈クローリク〉の郊外へと歩を進め、そこに魔獣貸し屋を構えるベラの元を訪ねては、ベラの呼び声でこちらへ駆けてきたヴィアの首元を優しく掻く。
疑問の色を色違いの両目に浮かべるベラの方を見やり、それからイリスは困ったように唸った。
「飛空艇の中は外の空気を感じられなくて息が詰まる……から?」
「なら気球があるだろう? それに空を行った方が、街道を行くよりずっと安全じゃないか」
「今回は弟もいるし街道を外れるなんて真似はしない……と思うから、しっかり準備していけばだいじょうぶよ」
「今回は……って、あんたね……」
瞳の中に少し呆れのようなものが浮かんだベラにイリスは肩をすくめてかぶりを振ると、ちらりとヴィアの黒曜石の瞳の方を一度見やってから再び視線をベラの両目へと戻した。
「分かった、白状する。……一緒に来てほしいの、ヴィアに。昏い道も、この子の風で拓けるように。……あと、これから往く道の上にヴィアがいないのは……少し、寂しいから」
言いながらイリスは痒くもないだろう頬を掻き、いつも首元に在った虹の布で顔を隠せないのはいささか不便だなと思いながら少し笑う。それから一度、彼女はこれから自分が向かう北の方角へと顔を向け、空を仰いだ。
まだ、己の羅針盤である聖火が空で青く輝く時間にはほど遠い。
しかし、このまばらな雲に見え隠れする青の向こうには今もあの炎が燃えているのだ。
その怯えるほどに眩しい輝きが、イリスの瞳には見えずともありありと浮かぶようだった。
イリスは軽く息を吐くと、白昼の向こうに燃える炎から視線を外して、此処から柵を隔ててアニマたちが駆け回っている草原の方を今度は見やる。
そこでは数頭のアニマたちを、ベラの肩ほどまでの大きさを誇る巨大な犬型の魔獣が追いかけていたが、あれはおそらくアニマたちに運動をさせているのだろう。彼が地を蹴るごとに、その爪が大地に痕を付けて土が光に舞い上がっていた。
犬が本来もつ鼻鏡や唇などは魔獣となったときに失われたのだろうか、古く竜と共に存在したと云われる恐鳥がもっていたとされるそれにも似た大きな嘴が、アニマを追う魔獣の鼻鏡や唇代わりに備わっている。陽光に照らされた彼の嘴がちかりと閃いた。
彼のその両目はベラの左目——燐葉石の色によく似ているように見える。
ベラには左の額から左目下にかけて、白っぽいその肌に反するように薄茶色の爪痕が在った。
追いかけられているアニマたちの姿を眺めてイリスは、あの嘴に突っつかれたら痛いだろうななどと可笑しなことをぼんやり思いながら、振り返ってベラの瞳を見る。
片方は黒の瑪瑙、もう片方は傷痕の下に燐葉石。
その強い黒と淡い薄荷色の対比に緩やかな黄昏の気配を感じたイリスは、ああと想いながら微かに目を細めた。
今まで自分が目を閉じていたものが、そこには在る。
ああ、そうか。
そうなのだ。
人は誰もが内に黄昏を宿している。
そこに朝が在るように、そこに昼が在るように、そこに夜が在るように、すべての夜が明け、再び朝が来るように、黄昏もまた、同じようにすべての人の心に在るのだろう。
きっと、そうなのだろう。
他のすべてと、同じように。
イリスは表情を緩めると、当たり前のことを訊くようにベラに問うた。
「——お土産、何がいい?」
「……何だか……いつにも増して呑気じゃないかい、あんた」
「焦るのはやめにしたの。たいせつなものをもう、見失わないように。それに……いちいち焦らなくてもヴィアは速いものね、風よりも!——それで、どうする?」
「それじゃ——あんたの目に任せるよ、ハンター」
「そう?」
ベラの言葉にイリスはにやりとすると、手にしている、星の実という焼き菓子が未だたっぷりと入った紙袋を彼女へと半ば強引に押し付けて、それからどこか悪戯っぽく笑った。
ヴィアはベラの耳飾り、その銅の環の中に揺れている紅色をした水晶へと触れるようにして、彼女の首元に自身の顔を擦り付けている。もしかすると、それがヴィアの行ってきますという言葉だったのかもしれない。イリスは目を細めた。
「なら、期待していいわ。私、目にはちょっと自信がある。それにけっこう運もいい」
「……何だい、これ?」
「美味しいお菓子」
「何だ、あんたの割には随分ざっくりした説明だね」
「美味しいものの前に言葉は無力よ……」
肩をすくめて首を振ったイリスに、何を言ってるんだいと呆れたようにベラは笑った。
それにつられてイリスも小さく声を上げて笑うと、駆けるアニマたちの風が吹くような鳴き声に交じって、遠くから微かに鈴の音が聴こえてきた。彼女はその音を聴き留めると、ベラに向けて再びにやりと唇を歪めて笑う。
それからイリスはひょいとヴィアに跨ると、ヴィアの上で頤を掲げて北の方角を少しの間見つめた。
「——それじゃあ、往ってくる」
しばらくして振り返った彼女の瞳には、虹の色を宿す火の粉がちかりと煌めいては舞っていた。
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