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騎士

 目次


〈第八章〉
心の瞳




 目の前には、ひとつの朝。
 浅い眠りを、長い年月の間くり返してきたレースラインは、今までの自身が取り落としていたそれを取り戻すかのように、明くる日も、明くる日も、ただ昏々と眠り続けた。
 けれども或る朝、彼女は自分の中で小さく響いた声に、うっすらとその瞼を開ける。彼女は窓から差し込んでいたまばゆい朝陽に思わずもう一度目を瞑ると、しかしその後に大音声で鳴り響いた朝告げの鐘に驚いて、跳ね起きるようにその身を起こそうとした。
「う、わ」
 しかし彼女は、寝台に突こうとした両腕に上手く力が入らないことを自覚する。それと共に、少しだけ浮き上がった身体を、目が覚めたときと同じように寝台へ仰向けに倒れた。それからレースラインは、ちらりと自身の右腕を見て、そうして小さく笑う。
「ああ……」
 ——自身が突こうと思って力を入れていた両腕の片方は、もう空っぽだったのだ。
 見えない腕に力を入れたところで、どうして起き上がることができようか。
 レースラインは寝惚けている自分を心の中で少しだけ笑いながら、自身の左腕にぐ、と力を込め、後はほとんど腹筋の力ばかりで寝台の上に身を起こした。それからその勢いで寝台から起き上がり、自室の床へと足を着けると、そうして、ぐるりと部屋の中を見渡す。
 視線をやった先の壁には、騎士の剣や自身の軍刀が、いつもとなんら変わらずに立て掛けられていた。ただ、剣の隣に在るはずの、隊長——率いる者の証である赤のマントは、しかしまるっきり空っぽで、その色を失った壁の一角は、少しばかりの寂しさを漂わせていた。
「まあ、当たり前、か……」
 小さく溜め息を吐き出しそうになったレースラインは、自身を深い眠りから目覚めさせた声が再び耳の中で響いたのを感じて、その重たい息を思わず喉の奥へと押し込めた。
 ——守ってください、隊長。
 それは、ミシオンの声だった。
 血など絡んでいない、ミシオンの声。いいや、記憶に在るミシオンの声をかたどった、自分の声だった。
 だが、それでもそれは、ミシオンの言葉だった。穏やかで素朴、しかしひたむきな意志の在る、カイメンの瞳に宿るそれにも似た真っ直ぐな、けれどもただ一人の、たった一人の、シュトルツ・ミシオンの言葉だった。
 ——守ってください、隊長。あなたの、たいせつなものを。
「そう、か……」
 レースラインは彩りのなくなった壁から目を離すと、少しだけその白い睫毛を伏せて、窓から差し込んでは床に零れる、太陽の光を見たようだった。
「そうだな……」
 彼女は自分にだけ聞こえるほどの声でそう呟くと、部屋に一つだけ備えられている窓の前まで歩いていって、そこから見える、騎士の詰め所の裏庭へと視線をやった。
 庭師と、それを手伝う騎士の見習いより更に見習いが整えている裏庭には、実際に自分たちが世話になっている薬木や薬草をはじめとする、様々な植物が植えられている。レースラインが視線を向けた先には、白い野いばらが、朝の風に揺られてほのかに揺れ動いていた。野いばらの煎汁は、腫れに効く。
 レースラインは窓硝子の前に立ち、左手で窓枠の下側に力を込めると、押し上げるようにしてその窓を開いた。
 ふわり、と水気を含んだ朝の風が部屋に入り込んできて、レースラインの長く、真っ白な髪の毛をゆったりと揺らす。
 一体自分は、幾つの朝を、昼を、夕を、夜を、眠るばかりで過ごしたのか。あの戦場で自分が失くしたもの、そして、失くし、再び手にしたもののことを想いながら、レースラインはその淡い水色の瞳で、それでも何も変わらない太陽の光を受けた。
 窓から少し身を乗り出して、彼女はこんにちの空の色を見やる。
 地に伏せた処から見上げたときよりは低く、それでも高い空には、遠くとおく、此処からでは種類も分からない鳥が群れを成して、いずこかへと翔けている。どうやら、彼らは東から飛んできているようだった。日の昇る場所から、陽が高く大地を照らす場所へ、きっと彼らは飛んでゆくのだろう。
 ふと、自身の髪が黒かった頃、山でたいせつな者たちと共に暮らしていた頃の景色が、レースラインの瞳に浮かんで、彼女の心臓がどくり、と鳴った。
 ——山から見上げる空は、きっと今よりも近い存在だった。
 鳥も、青の中を翔けるその姿を見かけるたび、里の鷹匠の真似をして、指で笛を下手くそに鳴らしてみたりもした。里の仲間たちから、母から、父から、祖母から、祖父から、この世界に息づくものたちのことを、たくさん教わった。静かな森の中では、その名を知っている草花たちが、自らこちらへその存在を伝えてくるようだと、そんな風に思い、また、大樹に触れれば、その遥かな時の流れを感じ、まるで老人と対話をしているようだと思ったりもした。
 自分は獣を殺す人間ではなく、獣と戯れ、時には狩り、自分たちの糧とする、狩人だった。
 目の前を過ぎゆく蛍のように、淡い光を放って流れていく記憶に、自身の鼓動がとく、とゆっくりになったのを彼女は感じた。そして、それに続くように透明な棘が、レースラインの心臓を鈍い痛みを以って一つ、二つ、と突き刺さっていく。
「……うん」
 それはきっと、寂しさだった。
 故郷を想う、小さな寂しさ。帰りたいと、そう思ってしまう、弱い自分の寂しさだった。
「それでも……私は、もう往くよ。母さま、父さま、お祖母さま、お祖父さま——みんな」
 城壁に囲まれている此処からでは見えるはずもないが、レースラインはかつて自分が生まれ、そして育った山——そこに息づいていた里と、自分の家の在った方角を見やり、そう言った。
 それから今度は、自身の部下が多く眠っている、城下町の教会墓地が在る方角へと身体を向けると、彼女は一度その睫毛を伏せて瞼を閉じる。
「——往こう」
 それから瞼を開けた彼女の瞳は、自身の陽光を受けて輝く白を、痛みを伴う、そのまばゆい光を宿していた。




 目が合えば、彼はその黄昏色をした瞳を、ほんの少しばかり細めていた。
 鎖帷子と鷹獅子のタバードを纏い、医師の制止も聞かずに騎士の詰め所を抜け出て、そうしてレースラインが一直線に向かったのは、騎士の頂に立つ者の元だった。その逸る思いに、心臓の痛みも、受けた傷の痛みも、切り落とした腕の痛みも、自身の中に巡る血の熱に覆い隠されて、今ばかりは何処かへと吹き飛んでいた。
 ——けれども、片腕を失った自分を覆い隠そうとは、たとえ隊長のマントが有ったとしても、彼女は考えなかっただろう。
 戦う者の衣を纏い、姿勢を正しては頤を上げ、その睫毛を伏せることなく真っ直ぐに前を見据えて歩く隻腕の騎士に、その白く光る髪に、その青い閃光のような視線に、その覚悟を固めた佇まいに、彼女とほとんど交流のない者よりは、普段から彼女に見慣れ、皮肉すらも言う者ほどひどく驚いて、歩を進めるレースラインに、一歩退いてはその道を譲っていた。
 そのようにして自身の歩を緩めることなく進んだレースラインは、両開きの赤茶色をした扉の前で、一度その足を止める。それから、その前に立っていた見張りの騎士に取り次いでもらい、王室騎士団長の執務室の扉を開けたレースラインの瞳に映ったのは、そうして微笑む自身の師の姿だった。
 ——いつも通りだった。
 すべて、いつも通りだった。扉を開けたときに小さく微笑むその仕草も、口角の上げ方も、目の細め方も、背後の窓から差し込む陽に照らされ、逆光の中に立つその姿も、考えの読めない獣のような光を宿す、獅子のような金茶色の瞳も、すべて、そのすべてが。
 レースラインはそんな師の様子に、安心と落胆のような思いをほんの少しずつ混ぜたような笑みを浮かべると、姿勢を正してトゥールムの瞳を見た。
「やあ、レン。しばらくは呼び出さないでほしいのではなかったかな」
 その目は、逆光の中で殊更金色を放っているように見える。この元々大人びた顔つきだったという男は、三十を半ば過ぎても全く衰えを感じさせない顔を少し歪めて、からかうように喉の奥だけで笑った。
「……この薄情者め、という顔をしているぞ」
「は、失礼ながらほんとうのことかと」
「うん、確かに失礼だな。わが弟子は相変わらず手厳しい」
 執務机に背を軽く預けて、トゥールムは溜め息混じりにまた笑ったようだった。それから彼はふと笑みを潜めると、真っ直ぐに自分を見据えているレースラインの瞳を、そうして彼もまた見返した。
「——それで、なんの用だ?」
 問われて、レースラインは正した姿勢を更に正し、トゥールムに向かって騎士の敬礼をする。右腕を心の臓に、左腕を背に回す、騎士の常だ。
 しかし、平常の癖で左腕を背に回す動作をしたところで、彼女は胸に押し当てるための右手がもう存在しないことに気が付き、一瞬だけはたとする。けれどもその動揺を悟られないよう、レースラインは自身の視線を、トゥールムの瞳から外さなかった。
「——トゥールム騎士長に申し上げます!」
 朗とした声でそう発し、レースラインは背に回している左腕の拳に力を込めた。
 トゥールムはレースラインの声を聞いて、口元は結んだまま、しかしその目をほんの少しばかり細めると、彼女に向かってその足を一歩進める。
「よろしい、話せ」
「は」
 レースラインは、音を立てずに息を吸った。
「——我々はこれまで、多くの魔獣を殺して参りました。あまりにも、多くの魔獣を。今度の、魔獣——変異した〝ハリヤマ〟の大群による襲撃を受けて、我々は変わらねばならないと、そうわたくしは確信致しました。ただ魔獣を殺すだけでは、根本的な解決にはならないと」
「何が言いたい?」
 剣を振り下ろし、魔獣の紅水晶を砕くことばかりに執心していた、かのレースラインからのこの切り出しを、しかしトゥールムも予想できなかったのだろう。彼は自身の獅子目を微かに見開いては、その顔から笑みを完全に失して、レースラインの強い瞳を見返した。
「人が、獣が、しかし魔獣と成るのは、〝借りものの力〟の暴走だと、昔騎士長は、わたくしに仰いました」
 騎士見習いの頃、自分に目をかけてくれていたトゥールムが自分に与え、しかし自分は興味がないと目を背けた知識のことを、彼女は記憶の奥深くから掘り起こして、今、此処で見つめ合った。
「借りものの力というのは、呼びかける心の力、魂に宿る意志の力。心で呼べば、この世界に在るたった一つが、自分へ力を貸し与えてくれる——それが、借りものの力。しかし、激しい嘆きの感情に理性を失い、その解き放たれた心によって呼ばれたものから貸し与えられる力は、我々の脆い身体にはあまりに重すぎる。そして、その強大な力に耐えきれなくなって、身体という器は力に呑まれる……そうして起こるのが、魔獣化」
 その記憶と向き合って初めて、レースラインは、自分が知ることに興味がないわけではなかったことを悟った。
「確かに、魔獣の多くは正気を失い、身体という心の器も、本来在るべきではない姿に変形させられています。……けれども、正気を失ったものが、身体を歪められたものが、しかし心まで失していると——はたして、そう言い切れるでしょうか」
 自分は、怖かっただけだ。怖かっただけなのだ、新しい何かを知ることが、得ることが、向き合うことが。ああ、ほんとうに、彼の言う通りだった。カイメンには——真っ直ぐなまなざしを、常にこちらへ投げかけてくるあの騎士の少年には、自分のすべてを見透かされていたのだ。わたしは、そうだった。そうだったのだ。〝騎士という名を盾に、ただ魔獣を殺したいだけの自分〟を盾に、重りに、枷に、そこから先に進むのが怖いだけだったのだ。ほんとうに、そうだった!
「我々は、知っていかなくてはなりません。ただ斬り捨てるばかりでなく、その魔獣が何故、たそがれに呑まれたのかを、何故、人を襲ったのかを——何故、我々はその魔獣を殺さねばならなかったのかを、我々は知らなければならない」
 レースラインは、今は青い閃光を宿すその勿忘草色の瞳を、揺れることなくトゥールムに向け続けた。また、トゥールムもその視線をレースラインから逸らすことなく、音もなく鳴り響く彼女の青い雷を、自身の獅子目で受け止め続ける。
「我々、〝世回り〟は……」
 そう言いかけて、レースラインはもう自分の元に、世回り第十三小隊の長である証——心の臓に巡る血の如くに赤々い、かのマントが存在しないことを唐突に思い出すと、一瞬だけ言葉を詰まらせた。我々……
「——世回りは、やり方を変えていかねばなりません」
 彼女は、今まで当たり前にそこに在った自身の存在を、もう受け入れたように世回りの騎士団から外すと、騎士の微笑みにも似て一歩引いた声色で、トゥールムへとそう告げた。
「……騎士はもっと、この國のことを知らなければならない。知らなければならないのです。自分たちが守るべき、この國のことを、もっと」
 そこで初めて、レースラインはその白い睫毛を伏せた。そんな彼女の様子に、トゥールムは少しだけ困ったように息を吐くと、それからその逆光の中で金色に見える目を細めて、一歩、彼女の元へと歩み寄った。
「それで、お前は?」
「……私?」
「お前は、どうしたい? お前の為すべきを成せる場所は、一体何処だ?」
「私、は……」
 そう意地悪く微笑むトゥールムの問いに、レースラインの喉では言葉が外に出ていくのを躊躇っていた。
「……おっと、来るぞ」
 騎士の敬礼もいつしか忘れて、自身の中に渦巻く言葉とやり合っているレースラインに、トゥールムはどこか面白そうにそう告げる。それとほとんど同時に、執務室の扉が左右に勢いよく開いて、その先から見張りの制止も聞こえていないのだろうか、カイメンが必死の形相で部屋の中へと飛び込んできた。
「カイメン……」
 切り揃えられた短い黒髪に、真っ直ぐなまなざしをこちらへ向けてくる、澄みきって光を宿した、強い茶の瞳。その姿を随分久しぶりに見た気がして、レースラインは懐かしさと安心と、少しばかり嬉しさを滲ませた視線を、思わずこの騎士の少年へ、首だけで振り返りながら送ってみせた。
「……隊長……」
 上がった息の整え方も忘れて、カイメンは掠れた声でそう言った。そんなカイメンの両手には、真っ赤に色付いたマントが握られており、それを視界に映したレースラインはすべてを察して、ふっと穏やかに微笑む。
 そんな彼女の笑みにも気付かず、カイメンはただレースラインの勿忘草色を見つめ、震える足を一歩、レースラインの方へと踏み出した。
 一歩、
 また一歩。
 一人で歩くことを今まさに覚えた子どものように、今にもつんのめりそうになりながら、ふらつく足で近付いてくるカイメンに、レースラインは彼が倒れないか少々不安になって、全身を使って振り返ろうとする。
 けれども、それより先にカイメンがレースラインの背に追い付いて、
「——ゼーローゼ、隊長……!」
 と、彼女の背中に両の手でしがみ付いた。
 その声色にはっとしたレースラインは、思わず視線を前のトゥールムへと向ける。トゥールムは音も立てずに笑みを零すと、その目を穏やかに細めて小さくかぶりを振った。振り返ってやるな。
 自分の身体の一部であるというのに、自分から最も遠い場所に在るその背から、カイメンの絞り出すような、或いは押し殺すような声が聴こえてくる。彼のその声に、レースラインは自分の心臓がまた、鈍い痛みに突き刺されたのを感じた。
 しがみ付くカイメンの両手、その爪が、タバード越しに自分の鎖帷子へ突き立っている。そこに痛みなど感じるはずもないのに、どうしてだろう。今はそれが、右腕を切り落としたときと同じくらいに痛かった。
 ただの両手が、ただの爪が、ただの嗚咽がこんなに痛いのは、それがカイメンから与えられる痛みだからだろうか。
「……今、初めて右腕が惜しいと思ったよ」
 レースラインは、眉間に皺を寄せてそう言った。それは笑い声にも聴こえ、また、涙声にも聴こえる。
 彼女は、少しだけ視線を上へ向けると、何かが零れ落ちないようにその目を見開いて、言葉を発するための空気をほんの少しだけ吸い込み、半ば無理やりにその唇に弧を描かせた。
「——これじゃあ、おまえを振りほどくことすらできやしない……」
 せり上がってくるものを堪えながら、レースラインは心の中で少しばかり笑った。
 ——人は何故、泣くことを我慢するのだろう。皆が皆、好きなときに、好きなように泣けたらいいものを! 自分の心と身体だというのに、しかし自分の好きなようにできないとは、まったく可笑しなことじゃあないか。
 零さまいと噛み締めていたレースラインの唇から、じわりと血が滲む。彼女がそうして口に含んだ血は、しかし、涙と同じ味がしていた。
「……トゥールム騎士長」
 掠れた声で呟いて、ふと、カイメンがレースラインの背から離れた。
 乱暴に拭った赤い目で、少年はトゥールムの方を向き、何か意志を固めたように、ほとんど睨むようにして騎士の頂に立つ者の目を見据える。
「わたくしは、このマントを受け取れません。わたくしはまだ、ゼーローゼ隊長の意志を聞いていない。それを聞かぬまま、このマントを羽織ることなど——この赤の重みを背負うことなど、今の自分にできるはずがない。……それを許してもらえぬなら、わたくしは、騎士をも辞める所存です」
 カイメンの茶色をした瞳は、窓から差し込む朝陽によって、トゥールムとはまた別の金に輝いていた。獅子の金色と、金の星がかち合う。
 そうしてカイメンの言葉を受け取り、それをそのまま問いとするように、トゥールムはその視線を、驚いたように立ち尽くしているレースラインの瞳へと向けた。
「私は……」
 レースラインはその視線を一度落として、床に幾つもの円を描いている陽だまりを見やった。
 ——守ってください、隊長。あなたの、たいせつなものを。
 ミシオンの言葉が心の臓で響き渡って、レースラインの鼓動が、痛みを伴うほどに強く鳴った。
 ——隊長、約束、ですよ。
 彼女は、その顔を上げる。長く白い髪が、銀のように淡く光って、微かに揺れたようだった。
 レースラインの纏うその気配に、カイメンは彼女の一歩後ろへと下がると、そこから先、彼は息をするのも忘れていた。彼女の言葉を聴くために、辺りの音が消えている。
 レースラインはその睫毛を上げると、光を受けたその淡い水色に、しかし剣戟にも似た、きんと青い閃光を宿して、トゥールムの瞳を真正面から揺らがずに見据えた。
「——私は、騎士になりたい。今更言っても、遅いでしょうが……」
 その凛とした響きに、トゥールムは隠すこともできずに、にっとその口角を上げた。それから彼はどこかわざとらしく溜め息を吐くと、今更、と言って寂しげに微笑んだ自らの弟子を見やり、ふっと微笑む。
「私は、いつかお前が死ぬと思っていた。お前の戦い方は、いつか自分の身を亡ぼすと。それでもお前は戦った。何があっても戦いを望み、何があっても戦ったから、私はお前を此処に置いていた。長い間、ずっと、お前を弟子として此処に置いていた。どうせ戦いを望むなら、野へ放していたずらにその命を散らせるくらいなら、その才が役立つ場所で戦わせようと、私はそう思ってきたわけだ。いつまでか。それは、お前がいつか死ぬまでと、そう——な。私は少々、気の触れた人間なのでね」
 言いながら、トゥールムはかぶりを振った。
「しかし今回、一つだけ気が付いたことが在る。片腕を失い、ひたすら眠り続けるお前を見て、ふと気付いた。——私は、お前に死んでほしくないのだと」
「……言いたいことは多々ありますが、それは追い追い。私も今回、やっと気が付きましたよ。自分は、死にたくないのだということに」
 互いに冗談めかしてそう言い合い、しかしふと、レースラインはその顔から笑みを消して、どこか泣き出しそうな顔でトゥールムの顔を見た。
「——生きたい、のだと」
 その言葉に頷いたトゥールムは、逆光の中で輝く金の瞳でレースラインを捉え、それから満足げに喉の奥ばかりで笑った。
「私がそう簡単に、お前を——お前たちを手放すと思うか?」
 ちらりとカイメンにも向けた黄金の視線を、トゥールムはレースラインの瞳に戻す。
 そこで彼はレースラインの水色の中に、金の光を受けて立つ青い薔薇の姿を見付け、その口角をにやりと楽しげに持ち上げた。そんなトゥールムの目は、まるで獲物を見付けた獅子のように、ぎらりと輝いている。
「——レースライン、遅くはない。遅くなどない——遅くなど!」
 トゥールムの言葉が心の臓に鳴り響いて、レースラインは思わず、その場に片膝を突いた。
「レースライン、お前の意志はどこにある!」
「——は」
 騎士の道の果てに立つ者からの問いに、レースラインはこうべを垂れる。
 それから彼女は、今わの際のミシオンがしたのと同じように、その左腕を動かして、心の臓に近い方の拳を、自身の胸に強く、強く、押し当てた。
「それは、ここに。——この、胸の中に」
 そう片膝を突いては朝陽を受ける彼女の両肩に、カイメンが率いる者の証である、黄昏にも燃え立つ赤のマントを羽織らせた。
 それから彼はまたレースラインの一歩後ろに下がり、そして、彼女と同じように、朝陽の昇る方に向かって片膝を突き、そのこうべを垂れる。右の拳は地面に、鼓動により近い左の拳は、心の臓の上に。これがのちに、レースライン率いる十三番小隊の常となることなど、今は知る由もなく。
 太陽の光が、窓から強く差し込んだ。
 そんな中、王の在らせられる方角——日の昇る東へ向かって跪くレースラインは、まるでこれから佩剣の儀を行うかのようにも見えた。
 白い髪は彼女の意志を宿すかのように、白にも銀にも見える色で、光を受けながら淡く輝いていた。こうべを垂れていても、彼女の睫毛は伏せることなく、その閃光を宿した水色は今確かに、自身が歩むべき道の先を見据えている。彼女の心臓が、強く、鼓動していた。
 そして、そんなレースラインの左肩に、頷いたトゥールムが載せたのは、しかし、剣ではなかった。
 それは、手のひらだった。
 ——まだ、誰のものでもない、銀色の手のひらだった。


20171207 
シリーズ:『たそがれの國』〈失せ物探し〉

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