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寂しさのひとかけら

 目次

 東からやってきた柔らかい光が、持て余している両の手のひらを淡く照らす。
 店の椅子に座りながら、丹はぼんやりと時計が時を刻む音を聴いていた。
 ――時計、というと、一人の人を想い出す。
 それは自分の母、何の前触れもなく、丹が十五のときに家から出ていってしまった母のことだった。
 母は時計職人だ、おそらく今もそうだろう。丹の母も、丹と同じように不思議な力をもっている。やはりそれは、丹のように手のひらの中の力で、母は指先ひとつで小さなものを浮かせることができた。その力を生かして母は恐ろしい速さで部品を狂いなく組み立て、時計を造り上げてみせた。まるでどこにどのピースがはまるのかを知っているジグソーパズルを、短い時間で完成させるかのように。
 そんな母に憧れ、丹も時計職人になるつもりでいたのだ。十五のとき、母が出ていったあの日までは。
 最近まで、母が出ていったのは父の放浪癖のせいだと思っていた。だが、父は自分が生まれてからずっとあの調子だ。人生は旅だ、とか何とか言って、いつもあちらこちらを歩き回っている。今、父が何処を旅しているのかは知らない。倉庫にある大量の――最早数える気も起きない――土産類の数からして、父は母と結婚する前から放浪癖があるのだろう。では、何故母は家から出ていってしまったのか。
 もしや、自分のせいなのか。丹は何度もそう考えた。今も時々考えてしまう。だとしたら、何が悪かったのか。自分は気付かない内に母を傷付けてしまっていただろうか。ああ、まただ。またこんな詮もないことを。丹はランタンの灯を点けた。
 ランタンの火が小さく揺らめくのと同時に、店の扉が控えめな鈴の音を鳴らして開いた。開店時間はまだ遠いこんな早朝に、もしや何か困りごとだろうか、と丹が顔を上げた瞬間、彼の辰砂の瞳と、烏のように深い黒がかち合う。目を見開き立ち上がった丹に、ランタンの炎がまた揺れた。
「――母さん……!」
 来客は、今しがた考えを巡らせていた自分の母だった。数年ぶりかの母の姿、それに何と声をかければいいのか分からず立ち尽くす丹に、母はまるで少し旅行に行って帰って来たかのような態度で丹へ声をかけた。
「あら、丹。久しぶりね。何呆けた顔してるの、おばかさんに見えるわよ」
「何ってそりゃ……いや、母さん、今――親父はいないけど……?」
「でしょうね。だから来たのよ」
 疑問の色が丹の瞳に浮かぶ。それに目敏く気が付いた母は、瞳と同じ黒色を湛えた長い髪をかき上げて笑った。
「あなたに会いに来たのよ、丹」
 その声は、壁を感じるほどに優しい色を纏っていた。丹は母から見えない位置で、手の甲に爪を立てる。
「嘘、だろ?」
「やだ、ひどいわねえ。もっと喜んでくれてもいいのに」
 そう言った母が、会いに来たという言動とは裏腹に、何かを探すかのようにきょろきょろと視線を店中に彷徨わせた。自分に会いに来てくれたのか、それとも自分のランタンを買いに来てくれたのか、そのどちらかかと丹は思っていたが、母の姿を見てみるとどうやらそのどちらでもないらしい。内心溜め息を吐きながら、丹は言った。
「……母さん、何を探してるんだ?」
 それには答えずに、母は腕を組みながら店の一角、何も置かれていない壁の前まで進み、そこで丹へ振り返って聞いた。
「此処に大きな鏡が在ったでしょう?――捨てた?」
「鏡――いや、裏に仕舞ってあるよ」
 その言葉を発すると同時に、丹の心がじくりと痛んだ。
 大きな鏡、それは確かに此処にあった鏡だ。仕舞ってある、というのもほんとうだ。だが、その理由、仕舞った理由が丹の心臓をきつく握った。
 天井に届くほどに大きく、そして古い鏡。それは骨董屋だった頃の〈永刻堂〉の特徴だった。父と母も、その大きな鏡が仲を深めるきっかけになったらしい。以前――母が出ていくより前だ――酔った父が楽しそうにそう話すのを聞いた。だから、だ。だからその鏡は、自分の目の届かないところに仕舞ったのだ。そして、鏡を仕舞ったのは父ではない、自分だった。ほとんど家に帰られない父と、去っていった母、そのどちらをもなるべく想い出したくないと思う、自分。母の造った時計も、同じような理由で目の届かないところに仕舞ってある。父のため込んでいる骨董を売り払っているのもまた然り。
 母が首を振って溜め息を吐いた。
「何だ、鏡を見に来たのに」
「え――何で」
「あの人との想い出だからよ、丹。知っているでしょう?」
 想い出、その言葉に丹は首を傾げた。別れた相手との想い出、そういうものはあまり想い出したくないものではないのだろうか。自分なら、失恋した相手のことはあまり想い出さないようにするが――嫌なことを想い出しそうになった丹は左右に首を振って、咳払いをひとつした。
「……母さんって、さ……親父のこと、まだ好きなのか」
 母はさもありなんといった様子で目を細めた。
「好きよ」
「じゃあ、何で――」
 もしや、母が出ていったのはほんとうに自分のせいだったのだろうか。両の手のひらに嫌な汗を感じながら、丹は母に問い掛ける。しかし、母から返ってきた答えは、彼を更に混乱させるだけの代物だった。
「だから、別れたのよ。あたしたち、一緒にいると幸せになれないらしいから」
 母が、鏡の在った一角から離れ、机に手をついて立ち上がっている丹の前に歩いてきた。戸惑いを隠せない丹の真赭と、揺れぬ母の黒が、扉が開いたときと同じようにかち合う。母の瞳がちかりと輝く。
「分からない?――分からないわよね、丹は子どもだもの」
 その言葉に、自分を巡る血管が燃え立つのを丹は感じた。
「子ども、なのは……!」
 叩き付けようとした言葉は、すべてを音にできずに心臓の奥へ帰っていった。好きだから別れた、だって? 一緒にいると幸せになれない、だって? 子どもだから、おれには分からないだろう、だって? 分かってたまるか、そんなもの。子どもを放り投げてほとんど帰ってこない父と、何も言わずに出ていった母が大人だというのなら、大人など! 子どもなのはどっちだ。子どもなのは、そっちだろう! その思いをすべてぶつけてやりたかった。だが、と丹は長く息を吐いて椅子に座った。そんな風に思う自分も確かに子どもなのだ。店を一つ営んでいるというのに、未だ親に縋ろうとしている自分は、確かに。
「……母さん」
「ええ、何?」
「せっかく来たんだからさ、俺のランタン貰ってってくれよ」
 その言葉を絞り出すのに、丹はひどく緊張した。相手は実の母だというのに。掠れる声と、少し震える手で、机に乗っているランタンを母に差し出した。
 母はそれを受け取ると、着火レバーをひねってランタンに火を灯した。まだ丹の手が入っていない、無垢な炎が赤と橙を纏って立ち上る。
「……兎、にして」
「兎だな、分かった」
 再び自分の手に戻ってきたランタンを開いて、中で小さく燃える火を手のひらに包む。兎、兎、と口の中で呟きながら、丹は火を兎の形に変えていく。そういえば、母さんは垂れ耳の兎が好きだったな。丹は一度立てた兎の耳を右の手のひらで包み、撫でるように兎の耳を垂れた形へ変えた。動物園で垂れ耳の兎を見て、子どもの自分よりはしゃいでいた母のことを想い出して、丹は無意識に口の端で笑う。
「できたよ、母さん。これでいいか?」
 ぴょん、と跳ねる兎の火が入ったランタンを受け取りながら、母は頷く。少女と母が入り混じったような表情を浮かべて、彼女は言った。その声は優しい色をしていたが、先ほどのように不自然なものではなく、壁のない声だった。
「あんたに会いに来たっていうのもあながち嘘じゃあないのよ、丹。……ありがと、ランタン貰っとくわ。兎、かわいいし。――ごめんね、丹」
 それだけ言って母は、足早に店から出ていった。立ち上がった丹が声を掛ける間もなく、扉が鈴の音を鳴らして閉じられる。そのまましばらく呆然としていたが、徐々に自分が戻ってくるのを感じると、丹は溜め息混じりに唸りながら椅子に座り込んだ。
「……また来てくれって、言ってないのに――」
 声に出して思う。母があのまま此処に居たとして、自分はまた来てくれ、と母に告げることができただろうか。きっと、言えなかっただろう。おれは、おれが思っているよりも臆病者だ。
 窓の外を眺めると、もう朝陽は昇りきり、空は澄んだ青を湛えている。いっそ雨でも降ればいいのに、と丹は空になった店を一瞥して、心の中で悪態をついた。
 あの兎が、あの火が、母をまた此処へ運んできてくれたらいい。もし、そうでなくても、あの火が母を照らしてくれれば。あの火がおれの証明だ。子どもみたいな考えだと思う、いいや、それでもいい。どうか、母が、母が自分のことを忘れませんよう。そう願いながら、丹は窓から床に零れ落ちた、小さな金の光を見つめていた。


20160308 
シリーズ:『手のひらのかがり火

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