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光のたてがみ

 目次

 扉を叩こうとした手を引っ込める。
 ここ三十分はこれの繰り返しだった。
 硬質な白の石壁に漆喰でできた両開きの扉、その中心には鐘の形をした銀色のドア・ノッカーが付いている。扉のすぐ上には歯車の模様が意匠として凝らされている〝時計店〈トキツゲウサギ〉〟の看板が堂々と胸を張ってこちらを見据えていた。此処は、町の大通りから少し外れたところに在る時計店の前である。
 その前で立ち竦んでいるのは一人の青年。強く握って汗すら滲んでいる、己の震える右手をもう片方の手で握って、青年――丹はその辰砂の瞳を強く瞑った。
(やっぱり……無理、だ)
 重たい息を地面の上に落としてから、かぶりを振って目の前の扉に背を向けようとしたそのとき、上着の裾を小さなものに引かれるような感覚が丹の視線を彼の斜め後ろに引っ張った。
「おにいちゃん!」
 その正体は鳥の子色の髪をもつ、小さな少女だった。明るい声で丹に声をかけた少女を丹はぱちぱち瞬きをして見つめ、それから驚いた声を上げる。
「……ミモザ!」
「せいかい、おにいちゃん!」
 丹の手を取ってぴょんぴょん跳ねる少女がまるで兎のようだったので、丹は思わず小さく笑みを零した。陽に照らされると金糸にも見えるミモザの柔らかな髪を優しく撫でると、丹はミモザと視線を合わせるようにしゃがんで問いかける。
「何してるんだ、こんなとこでさ?」
 ミモザは楽しげに笑い声を上げて、丹の両手をぶんぶんと上下に降った。丹は頭の上に疑問符を浮かべながらも、思わずつられ笑いをする。ミモザの笑い声は飛び立って歌う金糸雀のようだ。自由な鳥の歌に共鳴するように、ミモザの髪が金糸よりも柔らかな光を纏って煌めいて見えた。
「それはこっちのせりふってやつよ、おにいちゃん。おにいちゃんこそ、ここで何してるの?」
「あ、こら、質問に質問で返すなよ」
「だめだめ!……あんまりつまんないことを言う男の子は、女の子にもてないのよ!」
「うっ……」
 おれはそんなにもつまらないことを言っているだろうか、とつい先日の失恋を思い出して微妙な気持ちになりつつも、丹は軽く笑ってミモザの頭をぽんぽんと叩いた。それから自分に半ば呆れるように溜め息を吐き、叩こうとしていたが先ほどついにそれを諦めかけそうになった漆喰の扉を指差した。ミモザが首を傾げる。
「……時計屋さん?」
「うん。母さんにちょっと……用が、あって」
「ここの時計屋さん、おにいちゃんのおかあさんがやってるの?」
「ああ」
「じゃ、早く入りなよ」
「あ――ああ……」
 そう声をかけても何故か此処から動こうとしない丹に、ミモザが再び首を傾げる。それから何かを思い付いたように両手を合わせた。ミモザは両腕を組み、さも知ったげにうんうんと頷いている。大人ぶったその仕草がどうにも自身の純粋な子どもっぽさを引き立てるミモザなのだった。その姿を微笑ましく思いながらも、今度は丹が首を傾げた。
「わかった! おにいちゃん、おかあさんと〝けんか〟してるんだね! だからお店に入るのが怖いんでしょ?……わかる、わかる。わたしもねぇ、たまぁに、おかあさんと〝けんか〟するもん。おかあさんっていつも優しいけど、そういうときはとっても怖い! だから、おにいちゃんも今、おかあさんがすっごく怖くて……力が――あっ、勇気! そう、勇気が出ないんだよね?……勇気って言葉のつかい方、合ってるよね」
 まるで心臓の形を言い当てられたような気持ちで、丹は、何も言えずに目の前の少女を見つめた。そうして押し黙っていると、丹は臆病な自分のことがどんどん情けなくなり、重たいものが頭に乗っかってしまったように俯く。ミモザが楽しげな鳥の笑い声を上げて、丹の肩を叩いた。
「勇気が出ないときはね、おにいちゃん。だれかから、勇気を借りればいいんだよ」
「えっ?」
「うん、だいじょうぶ!」
 ミモザはそう言うと、丹の両手を強く握った。丹が顔を上げると、ミモザの鳥の子色の髪が柔らかな白に煌めいている。丹は思わず瞬き、目を擦ったがどうやら目の錯覚ではないらしい。手を伸ばしてミモザの髪に触れると、指先に光を感じた。髪が白色に煌めいている、というよりはミモザの髪には今、光そのものが乗っているのだった。周りを見渡すと、ミモザの髪だけではなかった。ミモザの頬にも、手のひらにも、丹の腕にだって白い光の粒が乗っている。目の痛むような眩しさはないその光たちに、丹が驚いて瞬きばかりを繰り返していれば、ミモザはその光たちを自分の腕の中にかき集め、それからその光の塊を丹の胸へと押し付けた。その圧力に光の塊は柔らかな煌めきと共に弾け飛び、しばらく丹の周りを漂うと、蛍のようにいつの間にだかいなくなっていった。
「おにいちゃんの真似!」
「……俺……の?」
「おにいちゃんがくれたランプドーム、こんな感じだったでしょ?――光が、きらきら、ふわふわ……って」
「あ――」
「わたし、光を集める力があるんだ。あのね、これは、あのときのお返しだよ。わたし、あのとき……おかあさんと〝けんか〟してたから……えっと、弟が生まれてね、おかあさんがあんまりかわいがるから……それで……あ、あやまろうとしてたんだけどやっぱりだめで、お家、とび出しちゃって……で、でもね!――あのとき、わたし、おにいちゃんに勇気をもらったんだ。だからちゃんと、仲直り、できたよ。……おにいちゃん、勇気、出た?」
 丹は震える手をミモザに伸ばし、そして乱暴にぐしゃぐしゃとミモザの頭を撫でた。ミモザを見つめる丹の辰砂の瞳に薄く水が張ったと思えば、それはすぐに涙の粒として瞳の外へ零れ出て、幾つも幾つも丹の頬を伝った。丹が泣いたことにびっくりしたミモザが、今度は丹の頭を小さな手のひらで撫でる。
「おにいちゃん……勇気、出なかった?」
 不安そうにこちらを覗き込むミモザに、丹は手首を瞼に押し付けて涙を拭うと、少しばかり赤くなった瞳を細めて楽しげに笑った。
「いや……ばっちり、だ!」
「あったかい星、おにいちゃんにも降った?」
「たくさん、たくさん、降った。……ありがとう、ミモザ」
「よかった!……じゃあ、がんばって、おにいちゃん! でもね、だいじょうぶだよ。だって、とびらの向こうにいるのは、おにいちゃんのおかあさんなんだもん!」
 そう言って再び丹の両手を強く握ると、ミモザは大きく手を振りながら陽に照らされた金の糸を揺らして大通りの方へと歩いていった。それを見届けると丹は意を決したように立ち上がり、叩けなかった漆喰の扉の前に再び身体を向けた。
 片手を胸の辺りに当て、光の塊を想い浮かべながら大きく深呼吸をして、瞼を閉じる。心臓がどくどくとうるさく、身体中の血という血が逆流するようだった。それでも丹は瞼を開けると、その辰砂に柔らかくも強い光を宿して、銀の鐘のドア・ノッカーに力を込めて指をかける。

 ――そして、今、彼は扉を叩いた。


20160817 
シリーズ:『手のひらのかがり火

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