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アイヌの歴史14『平安時代の蝦夷』

 770年、宇漢迷公宇屈波宇逃還事件という朝廷に服属していた蝦夷の族長が突如、朝廷の支配地の外に逃げ、軍を率いて桃生城を襲うなどと脅迫を行う事態が発生した。

大伴駿河麻呂

 これは当時、東北全土を影響下に置いていた道嶋嶋足により穏便に納められたと思われるが、その四年後には実際に陸奥国沿岸部の蝦夷による桃生城襲撃事件が発生、大伴駿河麻呂が天皇に進軍を訴え許可され、鎮圧が行われるが、大伴は何故か進軍の中止を訴え、天皇がこれを許可せず、大伴は遠山村征討作戦で反乱の拠点を落とした。

 2年後には陸奥国軍二万人、出羽国郡四千人の軍勢が蝦夷の討伐に乗り出し、陸奥の捕虜は九州の太宰府、出羽の捕虜は四国の讃岐へと輸送され、2267人が功績を讃えられ叙位を受け、その中には蝦夷の人物もいた。

 しかしこれらの事件は後に三十八年騒乱と呼ばれる東北の乱世の発端となった。

 780年、朝廷の支配下でない胆沢の蝦夷が大崎平野を襲撃、朝廷は胆沢の支配を目的とした覚鱉城の造営が開始、この工事のために付近の伊治城に訪れた按察使、大領、陸奥介などの重役が率いる俘囚軍に対し、かつて反乱鎮圧の功績で最も高い叙位を受けた栗原郡の族長の蝦夷である伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が理由は不明だが襲撃を仕掛けた。

多賀城

 陸奥の首都的な役割を持っていた多賀城も攻め落とし、出羽の中心地である出羽柵(秋田城)の一時放棄や、一部の城柵の孤立なども発生、東北は混乱状態となり、朝廷はすぐに藤原継縄を征夷大将軍、大伴真綱を鎮守府将軍、阿倍家麻呂を出羽鎮狄将軍に任命するなど、討伐軍を編成、関東の軍人が数万単位で動員され、戦争が開始した。

アテルイ像

 その後軍の責任者は藤原小黒麻呂になり、結局、反乱の首謀者を一人も捕らえられず、大規模な反乱軍の中で捕まえられた70人程度を死刑にして遠征は終了、そこからゴタゴタし788年に紀古佐美らにより胆沢への遠征が行われるが巣伏の戦いでアテルイに敗北した。

 792年には地方の軍事力として健児が設置されており、これは蝦夷の騎兵に朝廷の歩兵が対応できなかったために行われた改革だったと思われる。

坂上田村麻呂

 794年、再挑戦として大伴弟麻呂率いる朝廷軍が進軍、そこで副将の一人だった坂上田村麻呂が大きな活躍を見せたとされ、801年に坂上田村麻呂率いる4万人の軍勢が遠征に出発、資料が欠損しているため詳しい事は不明だが、岩手県沿岸部の閉伊地方まで到達し、多くの蝦夷を捕虜として捕らえ胆沢を占領したとされる。

 その後、胆沢に胆沢城を造営、胆沢のアテルイとモレの二人の族長が降伏し、坂上は二人をそのまま朝廷の勢力下に入れようとしたが、朝廷は許可せず大阪で処刑された。

志波城

 翌年、坂上は日本最北で規模も最大級の志波城を建造、これに伴い出羽国でも払田柵が建設された。

文室綿麻呂

 805年には藤原緒嗣と菅野真道による討議(徳政相論)の結果、新たな都の造営とともにもう一度行われる予定だった蝦夷征討が停止し、それ以降、出羽と陸奥では現地の人々を中心にして運営を行う方式がとられ、811年には文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)により爾薩体と閉伊を征討した。

 その後、文屋は大幅な軍の縮小を行い、蝦夷との戦いが終結したと宣言、八百十二年には戦争の過程で各地に移住させられた蝦夷達の教育が国司により行われるという仕組みが始まり、多くの俘囚達を俘囚や蝦夷などと呼ぶ事が禁じられたが、津軽と渡島の蝦夷は蝦夷と呼ばれ続けていた。

鴻臚館遺跡

 平安時代には全国に散った蝦夷達は頻繁に、朝廷や国司に訴えても問題が解決されない場合に反乱を起こしている一方、防人などの軍事力としての利用も行われるようになり、海外貿易の拠点である鴻臚館などを防衛し、各地で海賊などの犯罪組織を取り締まった。

 837年には東北で暴動が発生、家を捨てて逃げる者が続出、これに兵員の増員、民の負担軽減、そして現地の蝦夷の領主を東北支配に登用し始め、これにより現地の氏族達の台頭が始まった。

藤原清衡
赤=平氏、青・緑=源氏、黄=奥州藤原氏
頼朝

 11世紀には阿倍氏が陸奥中部で、清原氏が出羽国北部で台頭、しかし前九年の役で清原氏が阿倍氏を併合、その後の後三年の役で清原氏は内部分裂に源氏が介入した事で滅亡し、当主の継承争いをしていた清原清衡(藤原清衡)が東北のほぼ全土を制圧し奥州藤原氏政権を築いた。

 この阿倍氏、清原氏、奥州藤原氏は全て蝦夷の系譜であるとされるが、源平合戦で平氏を滅ぼした源頼朝が建国した武士が主体となった関東の政権、鎌倉幕府の軍により奥州藤原氏は制圧され、関東からやってきた武士達により、東北は支配され、以降、蝦夷の血統を名乗る人々は現れなくなった。

毛越寺の歴代当主三人

 また、蝦夷の血統を名乗り東北を支配した奥州藤原氏の歴代当主三人がミイラとして残っており、ネズミの齧り跡があったので自然にできたものだという説と、男性機の切除や汚物の漏れなどが無かった事から人工物であるとする説があり、普通に考えてネズミが噛んでミイラになる理由は無いため人工的に加工されたと思われる。

 ただミイラの加工は、基本的に日本では行われておらず周辺で行うのは樺太アイヌのみで、古代アイヌがミイラ処理を行なっていて、奥州藤原氏に受け継がれていたのでは無いかという説もあるが不明である。

トルコのトルコ人
トルコ系民族の源流に近い東部のトルコ系民族キルギス人

 また、骨の検査の結果、奥州藤原氏はアイヌではなく完全に日本人であると断定されたとされるが、言語や文化が東アジアの遊牧民由来であるトルコ人が現在、白人であるように、そもそも文化面と外見はそこまで関係がない。

 そして、当時のアイヌは縄文系の見た目の要素が強いわけだが、日本人にも縄文系の血は入っており、また、アイヌも日本人と混血している部分があるためアイヌと日本人の判別は不可能と思われ、また、白人の骨を黒人の骨と断定したグリマルディ人の例、アメリカ先住民の骨を白人の骨を断定したケネウィック人の例など、そもそも、骨の形だけで人種などを判断するのは難しい。

 ちなみに鎌倉時代以降、東北の人々の事を蝦夷と呼ぶ事は一切なくなり、蝦夷と呼ばれるのは、北海道の住民、つまり現在のアイヌのみとなった。

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