見出し画像

「何が起こるか」ではなく、「必ず何かは起こる」というマインド

わたしの知り合いに、マヤ暦に詳しいRさんという人がいる。
初めての妊娠中に知り合って、彼女の波乱万丈な人生(4人の子どもを生み育て、その間離婚もして、お母さん引退宣言もしつつ、常に新しいことにチャレンジしている)に勇気をもらったり、毎回刺激を受けている。

彼女が発する言葉には、受け売りではないホンモノの生活者としての実感がこもっている。わたしだったら二度と立ち直れないようなこと、人生を呪いたくなるようなことも、咀嚼し、呑み込んで(ビールとともに)笑っている。
そんな彼女と久しぶりにオンラインで話して、いろいろ気づいたことがあったので覚書。


星読みやさまざまな占いが好きな人は、みんな「この先に何が起こるか」を知りたいと願う。
昔から国の統治や、民族の存続に使われてきたのも、その「先を見通す力」をみんなが必要としていたから。
だから当然、マヤ暦もそうやって未来予測に使うことができるんじゃ、と思っていたが、Rさんはこう言った。

未曾有の震災や人災、そういうことが起こるのか、起こらないのか、先を読もうとするのではなく、必ずなにかは起こる。季節と同じで、必ず冬は来るのだから、冬が来ることを恐れたり、逃げようとしても意味はない。

その通り!なんだけど、平穏な日常を送っているとつい忘れがち。
今日と同じ明日が来ることを、無意識に信じ込んでしまっている。
そうではなく、明日、何が起こるかわからない。いまを生きるしかない。
そうやって生きている方が、この世の摂理としては合っているのだろう。

以前、東京オリンピックをやるかやらないか、で大騒ぎになっていた時期に、彼女の口から
やる、やらないじゃなく、ある人にとってはオリンピックはある、他の人にとってはオリンピックはないことになる
と謎めいた予言(?)を聞いて、どういうことだろう?と首をひねっていたが、実際2021年に行われた東京オリンピックは、「本当にやってたの?」と疑いたくなる幻のような記憶となっている(わたしにとっては)。

「何が起きたか」ではなく、出来事に対して「どう受け取ったのか」がその出来事を決定づける、ということだろう。


ちょうど2024年7月8日が、マヤ暦で元旦にあたる、ということで、今年の後半〜2025年にかけての流れ、について聞いてみた。
いわゆる2025年問題とか、巷で耳にする暗い未来予測の話が何回か出たけれど、Rさんにしてみれば
今までも起きていた、そしてこれからも起きる変化の一部」に過ぎない。
地球規模、宇宙規模でいったら、そんなの当たり前の変化でしかない。
その流れに抗って生きようとしても、ちっぽけな人間のちからでどうこうなるものではない。

それならば、来たるべき変化にどう対処していったらいいの?
と重ねて聞くと
楽しんでやる
と答えが返ってきた。


冬は毎年くる。
特に北国では、毎日の雪かきだとか、車の事故だとか、家から一歩も出られない吹雪の日だとか、そんなマイナスなイメージばかり浮かぶ。
それも捉え方によっては、1年でもっとも楽しみな季節となる。
現に、北海道で冬を越して2年目くらいに「冬が怖い」と、お盆のあたりから鬱々としていたわたしが、いまは「雪が溶けるの残念」と思うまで、冬に親しんでいる。

何が起きても、それを当然と思って
うろたえず、癇癪を起こさず、へこたれず
その時できることを、楽しんでやる。

そのマインドを育むのは
わたしの場合「今を大事にすること」かな。
やりたいことを先延ばしせず、自分に言い訳を作らず
本音の部分で生きるしかないかな、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?