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生まれた時はみんなパーフェクト!

先日、友だちの赤ちゃんを見にいきました。

生後3ヶ月。まだ寝返りも打てない身体で、必死になにかを訴えたり、存在をアピールしてくる。もう、なにをやってもやらなくても、存在自体が愛おしい、そういう年頃。

それ見てて、思いました。
『あー、人って生まれた時のこの状態、最強じゃん』って。

赤ちゃんがなんにもできない、というのは嘘で、その愛らしさや泣き声で、周囲の人間を見事に操ってますよね。この能力は、人間以外にも有効らしく、同居してるペットや、話によると野生動物までもが、赤ちゃんには特別なシンパシーを感じるらしいです。


ところで、この能力は成長するにつれ、だんだん失われる・・・と思われています。いわゆる「知恵がつく」年頃から、まわりの人間たちとの駆け引き(ダダをこねる、怒る、嘘をつく、など)を覚え、「純粋なる自分の要求」をエネルギーとしてそのまま出すことから遠ざかる。

うちの娘は、2、3歳頃から「触れあいたい」「安心したい」という欲求を違う形で表現するようになりました。親の私がそばにいない時は、自分の耳たぶを触ったり、一人で本を読むなど、何かに集中しようとする。

息子は、「できなくて悲しい」→「完璧にやりたい」という欲求が外側に向くと「怒る」、内側に向くと「黙り込む」という形で現れます。

私自身の幼少期は、めっちゃ「怖がり」で、その裏にある「安心・安全」のニーズはとても強いものでしたが、同時に「無力」と感じてしまうため、その欲求を押し隠してました。

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ほらね、この頃からすでに、自分の欲求を「見ない」ように「感じない」ように努力してきてる。大人になるにつれ、その努力は成果を結び、あんなに必要としてた大切なニーズを、見事に忘れるようになるんです。

その結果、「あなたは怖いもの知らずだね」
なんて評価を受けたりしちゃう。そのうち自分もそれを信じてしまう。

それは、正反対の「安心・安全」を感じないようにしているからこその「怖いもの知らず」です。
だから、少しでも「安心」を思い出させる他の要素(たとえば「無防備」とか「優しさ」とか)に出会うと、やっぱり慌てちゃって、必要以上に否定しようとする。

くやしい時に素直にくやしい、さみしい時に素直にさみしい、必要な時に「これが必要」って言えたら、どんなに楽になるだろう、と思います。


私が幼い頃よくやっていたのは、お気に入りのぬいぐるみにありのままの感情を聞いてもらうことでした。
自分の話をし終わったら、今度はぬいぐるみ側の役になって、「うんうん、そうなんだね」と相づちを打ったりして、「お人形ごっこ」で遊んでいるつもりが、自己共感のワークを知らずにやってたんですね!

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大人になってからも、ペットがいる人なんかは無意識にペットに話を「聞いて」もらってるでしょう?そしてペットから返事をもらったようにして、自分の「言ってほしいこと」を勝手にセリフにしちゃう。「そうか〜。みーちゃんもそう思うのねぇ」なんて。


赤ちゃんの時は、自分の欲求に優劣なんてつけませんよね。
そして「ケアされたい」「承認してほしい」「スキンシップが必要」など、次々と欲求を表現していきます。しかも言葉を使わずに、エネルギーとして周りに伝えている。そんな、誰もができていたことが、成長につれてできなくなるって不思議ですよねえ。

せめてトイレやお風呂でひとりになった時くらい「自分には◯◯が必要だ〜!」って口に出してみて、そのあとヨシヨシ、って自分を撫でてあげたいですね。





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