本と自然のある日常

今日は「Think like a monk」という本について紹介します。(https://www.amazon.co.jp/-/en/Jay-Shetty/dp/1982134488/ref=nodl_)
理由は一つ、生きることが辛い、何のために生きているか分からないと思う人たちに少しでもヒントになればと思ったからです。私自身、仕事の燃え尽きと、父の死が重なり、一時人生に迷った時、仏教を初めとする東洋哲学に救われた経験があり、これが何かの助けになればと思います。

著者はイギリス生まれのインド人Jay Shetty。大学時代に参加したとあるセミナーで聞いたお坊さんの話に深い感銘を受け、大学卒業後、インドのヒンドゥ教寺院でお坊さんになったという経歴の持ち主です。現在は世界でNo. 1 Health and Wellness Podcastのホストで、彼が作った動画は500億回も閲覧されたと言われています(すごい!)。

この本で、彼はまず普通の人の心がMonkey mind (お猿さんの心)だとすると、お坊さんの心はMonk mindで、この2つには歴然とした差があると言います。 Monkey Mindが自己中心で、気まぐれで、一時的な快楽を求め、恐怖や怒り、不安に左右されやすいのに対して、Monk Mindは本当の使命、ビジョン、ゴールにコミットし、問題の本質に焦点を当て、規律と自制心を持って解決策を探すとしています。彼は更にこのMonk mindを、Let go(手放す)、Grow (成長する)、Give(与える)という3つに分けて説明をしています。

Let go (手放す)

良い人生を送るためにはまず、自分は誰で、どんな人生の目的を持っているか、つまり自分のアイデンティティを明確にしないといけない。アイデンティティは、ほこりで覆われた鏡のようなもので、鏡を見ても、自分が誰か、何を大切にしているか見えない。 ほこりを取り除くことは楽しいことではないが、ほこりがなくなったとき、私たちは初めて自分の本当の姿を見ることができる。 ほこり(非本質的なもの)を取り除かない限り、本当に重要なものを見失う。寺院では簡素な服に、簡単な食事、狭い寝床が全て、唯一の音楽は読経の音と鐘、映画やテレビは見ない、そして限られたニュースと電子メールしか確認しない。 静けさ、沈黙の中で、外の騒音と自身の声の違いに気づくためだ。

多くの人は、自分の身分や名誉、所有物が自分のアイデンティティを定義すると思っているが、自分の外側にあるもので自分を定義してしまうと、それを失うことにより、自分のアイデンティティまでを失うことになる。また、自分の外側にあるものは無限に多く、それを追い求めることで欲求不満や不安、失望感を感じやすくなる。外側のものは内部の空白を埋めることはできない。よってMonk mindは、自分と自分の身の周りの物を分離(detach)し、何を達成するかではなく、自分が誰か、どのように生きたいかを考えるようにしている。分離とは、何も所有していないということではなく、何も自分を所有してはならないということである。大事な家族を含むすべてが一時的に借りられているものだと認識することである。

ネガティブな感情(不平不満、嫉妬、批判など)は精神の癌である。だが、そのような考え、感情、アイデアを完全に一掃することはできない、人間である以上、これらの感情はつきもの。肝心なのは、これらの感情に対しての意識の向け方と対処法である。Monk mindは自分の考えを浄化するために、Spot(気づき)、Stop(一時停止)、Swap(修正)のプロセスを踏む。 最初に自分の感情や問題に気づき、次にそこから一歩後退し、客観的に自分の感情を見つめながら、その感情が何であり、どこから来ているのかを感じ、最後に自分の行動を修正し、その感情に対処する新しい方法に切り替える。

ある大学の研究で、大学生のグループに1日15分ずつ4日間、人生で最もトラウマ的な体験について書かせたところ、98%の生徒から、この体験はとても価値がある、もう一度やりたいとの反応があり、また彼らの健康状態も大きく改善された。 研究者たちは、書くことによって、最悪の経験から離れて、客観的にその経験を見ることで、自分の物語を書き直し、ハッピーエンドを想起できたという。

恐れや不安な気持ちは、私たちに注意を向けさせようとしているシグナル。 泣いている赤ちゃんの声を聞いて抱きしめるのと同じように、これらが求めているシグナルに注意を向け、対処することが大事。煙警報を聞いたときに、状況をすばやく把握し、対処する代わりに、煙探知器のバッテリーを取り外すような行為はしないだろう。それと同じく、恐れを無視、否定、放棄すると大きなトラブルや事態につながりかねない。よって、自分が何を恐れているかを理解し、その恐れを、自分の価値観に沿った決定を下すのに役立つツールとして利用できる。

ある長老が孫に話した: 人生のすべての選択は、私たちの中の2匹のオオカミの間の戦いである。 1つは、怒り、嫉妬、貪欲、恐れ、嘘、不安、自我を表し、もう1つは、平和、愛、思いやり、優しさ、謙虚さ、そして積極性を表し、彼らは常に覇権を争っている。 「どのオオカミが勝つの?」 孫が尋ねる。 「あなたが養うもの」と長老が答える。 「しかし、どのように養うの?」 「私たちが読んだり聞いたりすることによって、私たちが誰と時間を過ごすかによって、私たちが私たちの時間で何をするかによって、私たちがエネルギーと注意を集中する場所によって養うんだよ」。


Monk mindは、美しい花を植えるだけで、それが一人でに育ち、綺麗な庭になるとは思わない。 私たちは自分たちの人生の庭師でなければならず、善意の種を植え、それらを見守り、邪魔になる雑草を取り除く必要がある。

Grow(成長)

私たちはすべてを行うことができないし、すべてを行う必要もない、私にできないことはそれができる他の人への贈り物である。よって自分の弱点に焦点を合わせるのではなく、自分の強みに傾注し、それを生活の中心にする方法を探すべきである。

朝は夕方によって定義される。毎朝が1日の始まりのように扱われるが、日々は一周しているもの。私たちは朝にアラームを設定するのではなく、前夜にアラームを設定する。したがって、意図的に朝に目覚めたい場合は、健康的で安らかな夜のルーティンを確立することから始める必要がある。

あなたがしなければならない決定の数を制限しなさい。朝何を着ようか、何を食べようか、何時に出かけようかと些細な決定をするために朝の時間を使うのは、大きなエネルギーの浪費。(服や食事などの)パターンを決め、前夜に決定を下すと、朝に有利なスタートを切ることができ、1日を通して焦点を絞った決定を下すことができる。瞑想や読書など、新しい習慣を日常生活に取り入れたいときは、自由な時間がある時にやろうとしてはならない。毎日同じ時間にスロットインするか、新しい習慣をすでに習慣になっている何かにくっつける。ルーティンの確立と創造性の追求は矛盾すると思われるかもしれないが、お馴染みのことを正確に行うことから発見の可能性が生み出される(守破離に似ている)。


自己批判は自己肯定に変える。 「私は退屈している、私は遅い、私はXXXができない」と自己批判を聞いたとき、「私はXXXに取り組んでいる、私は改善している、私はXXならできる」と自分自身に言いかけ、自分が進歩していることに気付く。

私たちは、愛する人には決して言わないことを自分自身には平気で言う。他の人に見せるのと同じ愛と敬意を持って自分を扱おう。 「私は価値がない」と言う代わりに、「私は価値がないと感じるが、私が自分に対して好きな点は何だろう?」と聞いてみる。


謙遜は塩のようなもの。人は塩分が多すぎるか、足りない場合にのみ、塩分に気づき、塩気が丁度よく美味しい時は塩分には気づかない。塩は謙虚で、何かがうまくいかないときは責任を取るが、うまくいく時は姿を潜める。

ロンドンのとある寺院のクラスで、僧侶の何人かが、私たちが行っている行に対して笑い、大声で話していた。 授業の後、私は先生になぜ彼らの行動を注意しなかったのか尋ねた。すると先生は「あなたは彼らが今日どのように行動したかを見ていたが、私は彼らがどこまで改善したかを見ていたのよ。」 誰かがあなたにひどく当たる時、その瞬間だけでなく、その人の経験の全体像を見るようにしよう。

Give(与える)

レッドウッドの木は高さで有名である。 生き残るために深い根を持っていると思われるかもしれないが、彼らの根は浅い。 その代わり、根が広く広がっている。 レッドウッドは果樹園で最もよく育つ木だが、根を織り交ぜて、強いものと弱いものが一緒になって自然の力に耐えるようにしているようだ。

私たちがエネルギー、愛、憎しみ、怒り、優しさを人に与える時、それはいつも何らかの方法で自分に戻ってくる。愛は円のようなもので、あなたが与える愛が何であれ、それは常にあなたに戻って来る。 問題は私たちの期待の持ち方にある。私たちは、自分が受け取る愛は、自分がそれを与えた人から来るものだと思う。 しかし、それは必ずしも同じ人から来るとは限らない。同様に、私たちは、私たちを愛している人に対して、同じ愛を返していないかもしれない。

重要なのは、一緒に過ごす時間の長さではなく、質である。 私たちは時間とエネルギーを混同する。 あなたは誰かと丸一日過ごすが、彼らに10分のエネルギーしか与えていないかもしれない。私は家族と過ごす時間があまりないが、家族と一緒にいる時は100%そこにいる。 Monk mindは瞑想の後、あなたにどれくらいの時間瞑想したか尋ねない、彼らはあなたがどれだけ深く行ったかを尋ねる。

自分が苦労している時、無私無欲について考えるのは難しいと思われがちだが、無私無欲は心の平和と有意義な人生に導く最も確実な道である。無私無欲は自己を癒してくれる近道である。

私たちは自然の一部であるが、自然を注意深く観察すると、常に誰かに役立っている。太陽は熱と光を提供し、木は酸素と日陰を与え、水は喉の渇きを癒す。自然と一体になる唯一の方法は奉仕すること。寺院での儀式の一つに、手にできるだけ多くの水をすくい取り、それを川に戻すというのがある。私たちが何も所有していないことを思い出させる儀式である。私たちが誰かに奉仕する時、それは自分自身のものを与えるのではなく、すでに地球上にあった何かを取り、地球に還元しているだけである。


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