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ジュエリーブランドを始めました

無謀にも一年半前にAtelier HALAKAという
小さなアクセサリーブランドを始めました。
本業はまったく別分野の映像制作、写真撮影です。

新しいことを始めるにあたって勝算があった訳でもなく、インド人に騙されたりタイ人に助けてもらったりしながら、どうやったらより良いブランドに育てられるか日々試行錯誤してます。



バンコクの裏町

バンコクと家具とロックダウン


コロナが始まる数ヶ月前、本業である映像制作、写真撮影関連で起業するためにタイのバンコクへ移住しました。

バンコクは基本とても住みやすくていいところです。個人的には日本よりQOLが高い場所と感じます。温かい気候とマイペンライなタイの人達、季節ごとに溢れるフルーツ、すぐそこにある青いビーチ…。

住むにしてもコンドミニアム(集合住宅)の家賃はリーズナブルだし、プールやジムがあるのが普通で家具や寝具は備え付け。身ひとつで引っ越してもその日から生活することができます。

ただ、良いところがあれば悪いところもあるのは当たり前。いくつも渡り歩いたコンドの調度品はほとんどが某有名家具チェーンのもので一度組み立てたら分解もできなく破棄前提、服もファストファッションか有名ブランドのコピー品…。

バンコクで暮らしはじめて数ヶ月後、コロナによるロックダウンが発令され、年単位で部屋の中に閉じ込められて過ごすことになります。これがとてもキツかった。

家具にしろ服にしろ、その場限りの破棄を前提とした大量生産の商品に囲まれて暮らすというのはとても苦痛でした。
そして、どうしたらこの一見豊かにみえるけど内実は空虚な消費のサイクルから外れることができるのだろうかと考えるきっかけとなったのです。

同時にずっと続けてきた撮影の仕事も新鮮味とモチベーションの欠落を感じ始めました。一期一会と言えば聞こえは良いですが、基本単発のオファーの繰り返しにも疲れ始めて来ていたと思います。

タイで撮影のプロジェクトをもらっても、以前のような集中力をもってテーマや被写体に向かえていないことに気が付き始めます。
色々な場所に行けたり人に会えたりする素晴らしい仕事ではあるはずなのに、いつしかその事自体も楽しめなくなっていたのです。

その後、コロナ後の社会状況や懐具合、家族の事情もあって日本に帰国します。
そして帰国後の生活を考えたとき、バンコクで感じた疑問を元に、一つの考えに行き当たります。

"ただの消費とはちがった形で社会に参加したい、
無名でも小さくてもいい、
一限的ではなく積み重ねていくものをつくりたい"

そして昔やっていたジュエリー製作を再開してブランドとして立ち上げてみようと思い至ったのです。

ジュエリー製作との出会いは、写真を仕事にするずっと前、世界各国を放浪してた時代に遡ります。


プシュカル

若気の至りのインド


若い頃、6年位かけて世界じゅう色々な場所をプラプラしてました。携帯もネットも無い時代、思い起こすとかなり危なっかしい事も多かったです。当時のバックパッカーお約束のインド沈没も1年くらいしてましたね。

インドというのは今も(いい意味で)混沌の極みで刺激的ですが、あの頃はもっと強烈だったような気がします。

死が隠蔽された日本とは違い、生と死のコントラストが生々しくあからさまで、あらゆるものの濃厚さにやられて考えさせられることが多かったような。
これもお約束ですが、世界中から集まってくるヒッピーっぽい価値観にかぶれた若者たち、彼らに混ざって自分もすっかり舞い上がって、インドが世界の中心なんじゃないかとか思ったりしてました。思い返すと若気の至り過ぎて恥ずかしい限りです…。

そして、こんな適当な生活をしている自分が今後結婚することもないだろうし、なんとか日本で頑張って働いても歳取ったら居場所がなかろう。
そうなったらアクセサリーでも作りながらグァテマラ辺りにでも住むか、と当時は漠然と考えていました。
アクセサリーを作ったこともないのに、なぜかそんなことを思っていたんですね。

そんな中、人伝に西の方の街にジュエリー作りを教えてくれる人が居ると聞き、その街”プシュカル”を訪れます。

プシュカルの湖

聖地プシュカルで彫金の師に出会う


プシュカルはインドの西の砂漠地帯にある、小さな湖を中心に出来た小さな街です。
ブラフマーというヒンドゥー教の神様を祀るお寺がインド中で唯一あるのが有名で、ヒンドゥー教徒にとっては聖地の一つになっています。
今では一大観光地となってしまい、凄い数の観光客と(凄まじい数の煩いバイク)ですが、あの頃は静かでのんびりした田舎町でした。

当時から沈没地としても、工芸品の仕入れの場所としてもヨーロピアンのバックパッカーには人気の場所でした。
そんなヒッピー崩れのバックパッカーを相手にシルバージュエリーを作って売っていたのがインド人のハリーでした。彼にジュエリー作りを教えてもらうことになります。

なんだかんだと足掛け半年くらいだったでしょうか?彼の仕事を手伝いながらシルバーの彫金技術を教えてもらいます。
長いインドの歴史がそうさせるのか、職人的な横の繋がりがそうさせるのか、ハリーは昔から伝わる伝統的なデザインを大切にしていてましたね。

自分なりのデザインを提案した際も、
「安易に外のデザインを取り入れて、表面的な違いや差をもって競争するということ自体が浅はかだ」と戒められたことを良く覚えています。

同時にルースやビーズを売っている彼の弟から宝石の事を色々と教えてもらったり、プシュカルから4時間ほどのジャイプールに行って石の仕入れをしたりと、色々な体験をさせてもらいました。

彼らからの教えが自分の今のジュエリー作りの基礎に、そして放浪中に世界中で見てきた遺跡や美術館と人里離れた絶景がクリエーションの素となっています。

昨年再訪したハリーのお店。右のおじさんがハリー

これからのAtelier HALAKA


技術的には元々拙いレベルだったこともあって、今も成長途中です。やればやっただけ技術的に進歩できる、良くなる、と感じています。

コツコツ続けてクオリティを上げることはもちろんですが、コンセプトやデザインの方向性においてまだまだコアになる部分を見つけ出せていないので、装身具の歴史やデザインの勉強はもとより、もっと根源的な部分、例えばシルバーという金属素材自体の魅力をどう引き出すかということや、なぜ色石を使うのかと言う事まで突き詰めて考えていく必要があるかなと思ってます。

始めてみてから日本にはすごい数のブランド、メーカーがあることを知りました。
しっかり勉強されてデザインが確立されたブランドから、一見してインドから仕入れたのを転売しているんだなとわかる業者さんまで、同じジュエリー、アクセサリーブランドと言っても多種多様でクオリティも価格帯もそれぞれです。

その中で自分たちの特徴を研ぎ澄まさせて、お客様が一見してHALAKAの指輪だな、とわかるようなものがいつか作れるようになったらいいなと思っています。

よりクオリティを上げて堂々とアクセサリーではなくジュエリーブランドと言えるようになること。
そして買っていただけるお客様の満足度をより高めて信頼していただけるショップを作ること。
そんなことを目標にしていきたいと考えています。


オンラインショップはこちらから

昨年プシュカルに滞在したときに製作したシリーズ

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