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戦術の向こう側
日本人大好き戦術論。
このチームのこの守備はこういったシステムに基づいて、ディフェンス陣が連動しているから、失点が少ない。
しかも、我々には守護神がいる。
中盤でも、早い段階でプレスをかけて、ボールを奪い、前線へ供給するのことができるからトランジションが素晴らしい。
両ウイングを高めに配置して、2人のスピードとドリブル、そしてクロスが得点に繋がるような工夫が巧い。
まぁ、こんな感じ文字の羅列が分析と評された記事として、たくさん並ぶ。
文章だけに。
専門用語とされるものは、
"サッカーの本質"を知ろうとしないものには、とても高尚な言葉であり、自身が専門的知識を有した位の高い人間と錯覚することができる。
偉そうな言葉を紡げば、さも、知っている感を出すことができる。
それらの理論や戦略は、
"サッカーに本来必要なもの"を最優先としていない"素晴らしき賢者様"たちにとっては、自らの存在価値を他人よりも上に立ったと勘違いする為の自己満足に必要なモノなのだ。
知ってるサッカーチームを使ってゲームをして、このチームつええーーー!したい若い世代(おこづかいで試合の放送料を払えない子供)にはうってつけの資料なのだ。
自慢するためのツールである。
ゆうて、高校生くらいにならおこづかいで放送料払えそう"だぞーん"、と思うが……
さて、本題に入ろう。
戦術は必要だ。
だが、その戦術論だけで、無敗優勝したチーム、全勝で優勝したチームが過去にいただろうか?
現代サッカーにおいては、夢のまた夢だと思う。
この戦術は完璧だと言われる理論ですら、全てで勝利をすることはできない。
"ビデオゲームで君が選んでいたチーム、君の夢の一部だったチーム"
自分がビデオゲームで操作したチームでしか、全て勝つことが出来ないモノだと思う。
マドリーは戦術的システムというものは、苦手である。
カペッロ、モウリーニョ、ラファエルなんとかさん、ポゼッションおぢさん。
逆に選手に活かし、自由を与えた監督は、選手からもマドリディスタからも愛される。
デルボスケ、カルロ、ジダン。
彼らが該当すると思う。
マドリーは、ディステファノが選手の時代から、彼ら選手が自分達で考えてプレーしていた。
時が流れ、キンタ・デ・ブイトレの時代は、下部組織時代の仲間達が、トップチームで開花し、華麗なパスワークを武器に、自分達の才能も付与し、リーガ5連覇を成し遂げた。
デルボスケが率いた第一次銀河系軍団は、監督が必要ないと"錯覚"することほどにスーパースター達が各々発想をプレーに与え、そして、試合に魔法をかけ、マドリディスタを熱狂させた。
指揮官のマネジメントがそうさせたとは、外野は誰も気づかなかったが……
故に、彼は本当の魔法使いかもしれない。
カルロは12年の呪いを打ち破り、歓喜のデシマをもたらした。
だが、スロースターターという弊害の為に、プレーのスタイルの基盤が組上がるのが遅れ、タイトル数が想像よりも少なくて残念だった。
しかし、彼もまたマドリーでは争いが無い、人身掌握に長けた人物であった。
ジダン。
彼の評価はまだ、終わりを知らない。
前人未到のCL3連覇は1つの指標として評価されるとは思う。
しかし、ジダンとってはそれだけでは無いのだ。
何故なら、現指揮官である。
チームはまだ、発展途上なのだから。
彼の選手起用に疑問を感じことはある。
それで、負けることもある。
戦略に不備はあるだろう。
だが、ジダンはプレースタイルの基本に、局面や場面によって、修正し、立て直すことができる指揮官だと思う。
システムで固めた戦術で選手の自由を奪っても長続きしないことを知っているのだと思う。
オプションとして採用する。
誰かのアイデアを拝借する。
指揮官が戦術的に、やりたいサッカーを押しつけられるより、選手達に勝つための発想と自由と、少しの"知識"を与えられた方がマドリーはチームとして機能する。
何故ならジダンは、選手としてデルボスケと、アシスタントコーチとしてカルロと共にマドリーで過ごしてきたのだから。
彼は、どこまでもマドリディスタなのだ。
そう、クラシコでなんとしてでも勝つために、ゴールポストに頭にぶつけてでもダイビングヘッドで先制点をもぎとる男なのだ。
そんな普段の優雅なプレーとはかけ離れた、泥臭い執念と気迫がジダンには備わっている。
"ドン・フロレンティーム"
メガクラック達が自由にプレーすれば、魔法のような試合をすることができる。
フロレンティーノ・ペレス会長の理想の監督であり、戦術はジダンなのだから。
そして彼が"スーパースター達"に愛され、マドリディスタにも愛される、そのカリスマは、そんなマドリディスモに惹き付けられているからなのかもしれない。
サッカーの本質とは、戦術ではないのだ。
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