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生態系について考えるには「人間中心の視点を捨てる」ことが大切『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』試し読み

自然をコントロールしようとするとき、われわれ人間はたいてい、自分たちを自然の外部にあるものと見ている。そして、自分たちはもはや動物ではないかのように語る。他の生き物から切り離され、全く異なるルールに従って生きる孤高の種であるかのように語る。これはとんだ思い違いである。

『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』序章より

1月31日刊行『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』から試し読みをお届けします。

『家は生態系 あなたは20万種の生き物と暮らしている』の著者ロブ・ダン最新作です! 今回、ロブ・ダンがテーマにしたのは、人類の未来です。

生態学者である著者が、人類の未来を予測する上で利用したのは生き物たちを統べる「生物界の法則」です。なぜ、生物界の法則で人類の未来を予測できるのかというと、テクノロジーや科学がいかに進歩しようとも、私たちは生物界の法則から逃れられないから。害虫や病原体との戦いから、農業の危機、気候が変動する世界での住環境など、本書で挙げられるさまざまな事例から、それは明らかです。

しかし、生物界の法則を受け入れれば、つまりヒトを一つの生物種と見なせば(著者に言わせると「シロアリの腸内にすむ微生物やサイの胃の中で暮らすハエと何ら変わらないと認めること」で)、私たちは自らの運命を見通す力を手にすることができます。そして、生物界の法則によって未来を知り、対策を練ることができるのです。

前著『家は生態系』で、一般的な家屋に20万種もの生物がすみつき複雑な生態系をつくっていることに初めてスポットライトを当てたロブ・ダンが、生物界の法則というユニークな視点から気候変動や生物多様性、食糧供給などの問題の本質をあぶりだし、未来への提言をおこないます。

それでは、本書の序章をお楽しみください。

『ヒトという種の未来について生物界の法則が教えてくれること』

試し読み(序章より)

人vs川

 子どもの頃、私は川の話を聞きながら大きくなった。その話の中で、人々はいつも川に立ち向かっていた。その話の中で、勝利するのはいつも川のほうだった。

 子どもの頃、私にとっての川と言えば、ミシシッピ川とその支流だった。私はミシガン州で生まれ育ったが、父方の祖父の一家はミシシッピ州のグリーンビルという町の出身だった。祖父の子ども時代のグリーンビルは、その昔、氾濫原だった場所に位置しており、堤防を築くことで、町をミシシッピ川の氾濫から守っていた。ミシシッピ川は船を呑み込むこともあった。幼い少年を呑み込むのはしょっちゅうだった。そして、祖父が九歳くらいのとき、川はグリーンビルの町全体を呑み込んだ。家々は川下へと流されていった。ウシたちは増水した川にさらわれた拍子に、ロープで絞め殺された。溺死者は何百人にも及んだ。この洪水の後、町が元の状態に戻ることは決してなかった。

 一九二七年のミシシッピ大洪水のような災害が起きると、人間はどうしても、なぜそれが起きたのかを説明したくなるようだった。その説明は、語る人によってまちまちだった。ミシシッピ川を挟んだ西隣のアーカンソー州の「紳士ども」のせいだという主張もあった。川の氾濫を防いでいるミシシッピ州側の堤防が決壊すれば、水はミシシッピ州側へと溢れ出して、アーカンソー州は被害を免れる。この大洪水のときがまさにそうだった。それゆえ、(何の証拠もなしに)アーカンソーの紳士の一団が船で川を渡ってきて、ダイナマイトを使って堤防を爆破し、グリーンビルを水浸しにしたのだと言いだす者もいた。あるいは、お怒りになった神が、罰として洪水を引き起こしたのだという説明もあった。

 グリーンビルの洪水について最も真実に近いのは、川をコントロールしようとする人間の企てこそがその原因である、という説明だ。土手を越えて蛇行し、地表に新たな流路を刻んでいくのが、川本来の性質だ。しかし、曲がりくねって流れる川は、今も昔も、川の近くに築かれた町にとってはもちろん、家々にとっても都合が悪い。そのような川は、今も昔も、川沿いに造られた大きな港にとっては都合が悪い。ミシシッピ大洪水という結果に至るまでの期間、川沿いで生活する人々は、途方もない金をかけて、川の蛇行を防ぐための堤防を築いていった。それまで、時間と物理法則と偶然が支配していたその川筋は、人工的に造られるものとなった。よく言われていたのが、川を「手なずけ」て、「コントロール」し、「文明化」することによって、都市の成長と富の蓄積が可能になったということだ。川を手なずけるための管理は、誇りをもって、そして時に傲慢さをもって実施されていった。その傲慢さは、人間には自然を人間の都合に合わせて曲げる能力がある、という思い込みからくるものだった。

 ミシシッピ川は、何百万年も前から、毎年のように、土手から溢れ出しては、流域の平野を水浸しにしてきた。そして、あちこちへと移動しながら曲がりくねって流れることによって、動植物の新たな生息地を生み出し、さらには新たな土地を造り出すこともあった。アミタヴ・ゴーシュが『大いなる錯乱――気候変動と〈思考しえぬもの〉』(以文社)の中でベンガル・デルタについて述べているように、「沈泥(シルト)を含んだ水の流れは凄まじく、通常は想像を絶するほどの時間がかかる地質学的プロセスが、週ごと月ごとに捉えられるスピードで進んでいきそうに思えるほどだった」。

 樹木類は、洪水や川筋の移動をうまく利用するように進化していった。草本類も同様だった。魚類は、溢れるほど豊かな水を頼りに、自然の循環の中で生と死を繰り返していった。ミシシッピ川沿いに暮らすアメリカ先住民は、こうしたサイクルに合わせて農耕、狩猟採集、儀式を営み、必要に応じて、浸水を免れる高台に集落を作った。自然界の生き物もアメリカ先住民も、川と折合いをつけ、避けようのない季節変動を巧みに利用することによって、これに対処していた。

 ところが、初期の工業化を支えたミシシッピ川沿いの大規模商業輸送には、辛抱強く自然と向き合ったり、川の季節変化や流路変動に煩わされたりしている余裕はなかった。アメリカの工業化の初期には、船が定期的に運航されること、そして、船荷の最終目的地の町が川に近接していることが必須条件だった。工業化によって、川は、予測の範囲内にとどまるだけでなく、一定不変であることが求められるようになったのである。

 川を一定不変にしようとする企ては、川を人間の支配領域内に組み込もうとする企てでもあった。川の土手が、あたかも、流れる水の方向を変えたり、流速を遅くしたり速くしたり、さらには流れを止めることさえ可能なパイプであるかのような語られ方をするようになった。そんなふうに川を見るようになった結果、さまざまなことが起きていた。その結果、祖父の家は洪水に流されてしまった。川はやはり、人間の手には負えるものではなかったのだ。今でもそれは変わらない。

 当時よりさらに高度な管理がなされている現在でも、ミシシッピ川はしょっちゅう、船や、少年や、農地を呑み込んでいる。町を水浸しにされると、われわれはどうしたものかと驚いて戸惑う。しかし、このような洪水は、今後、気候変動の影響を受けてますますひどくなっていくだろう。

 自然から逃れ、自然と闘い、自然を支配しようとする人間の企てなど、自然はすべて呑み込んでしまうのだということを、川による強奪行為は思い出させてくれる。ミシシッピ川は、人間の力など到底及ばないという点において、人間もその一部を成す生命の川の流れとよく似ている。ミシシッピ川をコントロールしようとする企ては、自然全般を、とりわけ生命をコントロールしようとする企てを象徴するものだ。

自然界の未来を予測する法則

 未来を思い描くとき、われわれはたいてい、テクノロジーの生態系におさまっている自分たちを、ロボットや各種装置やバーチャルリアリティから成る生態系におさまっている自分たちを想像する。未来は、輝けるテクノロジーの世界だ。未来は、デジタル化されたイチとゼロの世界、電気エネルギーと目に見えないネットワーク接続に支配された世界だ。自動化や人工知能に依存する未来の危うさについては、これまで数多くの書物が指摘してきた。未来の世界がどんなものかを考えるとき、自然はただの付け足しにすぎず、たとえば、開かない窓の向こうに置かれた遺伝子組換え植物の鉢植えだったりする。未来を描いたものの中には、遠く離れた農場(世話するのはロボット)や屋内菜園の生物を別にすると、ヒト以外の生物はほとんど出てこない。

 われわれは、人間だけが生き物の主役であるような未来を思い描いている。全体として見ると、われわれは生物界を単純化して、人間にとって都合のいい方向に向けようとしている。生物界を人間の力の及ぶ範囲内に抑え込んで、見えなくしてしまおうとさえしている。言ってみれば、人間の文明とその他の生き物との間に、堤防を築いているのである。しかし、堤防の構築は失策でしかない。なぜなら、生き物を寄せつけずにおくことはそもそも不可能であって、そんなことを試みれば、自らが禍を受けるはめになるからである。自然界で人間が占める位置に照らしても、また、自然界のルールや、人間と他の生物の関係のルールに照らしても、それは失策と言える。

 学校では自然界の法則をいくつか教わる。重力の法則や、慣性の法則、エントロピーの法則などである。しかし、自然界の法則はこれだけにとどまらない。ライターのジョナサン・ワイナーが述べているように、チャールズ・ダーウィンをはじめとする生物学者たちは、「ニュートンの運動法則と同じように、単純で普遍的な地上の運動法則」を、つまり、細胞、身体、生態系、そして頭脳の運動法則を発見した。これから訪れる未来を理解しようとするならば、まず何よりも、こうした生物界の諸法則をしっかりと認識する必要がある。本書は、生物界の諸法則と、そこから導き出される自然界の未来の姿について述べた本だ。

 生物学的な自然界の諸法則のなかで、私が常々研究しているのが生態学の諸法則である。最も役立つ生態学の法則(および、生物地理学、マクロ生態学、進化生物学といった関連分野の法則)は、物理学の法則と同様に、普遍性をもっている。こうした生物学的な自然界の法則は、物理学の法則と同様に、未来を予測する際に利用できる。ただし、これらの法則は、物理学者たちが指摘するとおり、物理法則に比べて適用範囲が狭い。なぜなら、生命が存在することがわかっている、宇宙のほんの片隅にしか当てはまらないからだ。しかし、人間に関わる物語にはすべて生物が絡んでいるとすれば、こうした法則は、われわれ人間が遭遇するどんな世界にも普遍的に適用される。

 生物学的な自然界のルールを、本書のように「法則」と呼ぶか、「規則性」と呼ぶか、それとももっと別の言葉を使うかといったことに捕らわれてしまいがちだ。しかし、そのような議論は科学哲学者に任せるとしよう。こうした言葉の日常的用法に合わせて、私はこれを「法則」と呼ぶことにする。これらは「ジャングルの法則」である。もっと正確に言えば、密林、大草原、湿原、そして(家もまた生きているので)寝室と浴室の法則である。結局のところ、私の最大の関心は、こうした法則を知っておけば、人類が武器を振り回し、石炭を燃やして、全速力で体当たりしようとしている未来について理解するのに役立つということなのだ。

 自然界の法則のほとんどは、生態学者なら誰でもよく知っている。そのほとんどは、一〇〇年以上前から研究されるようになり、この数十年の間に、統計学、数理モデル、実験法、そして遺伝学の進歩とともに精巧で洗練されたものになってきた。これらの法則は、生態学者には直感的にわかっていることなので、生態学者は敢えて口にしたりはしない。「もちろんそのとおり。そんなこと誰でも知っている。わざわざ言うまでもなかろう」

 しかし、こうした法則は、もしあなたがこの数十年間それについて考えたり語ったりしてきた生態学者でないとしたら、なかなか直感的にわかるものではない。そして、さらに重要なこととして、未来について考える際に、こうした法則からは、必ずと言っていいほど、生態学者さえも驚くような結論や結果が導き出される。つまり、われわれが日常生活において下す意思決定の多くとは相容れないのだ。

 最も確固たる生物学の法則の一つは、自然選択の法則である。自然選択とは、チャールズ・ダーウィンが端的に示した生物進化の仕組みだ。ダーウィンは「自然選択」という言葉を用いて、自然環境によって世代ごとに一部の個体だけが「選り分け」られていく現象を表した。自然は、生存と繁殖の可能性を下げる形質をもった個体を選んで、それを冷遇する。自然は、生存と繁殖の可能性を高める形質をもった個体を選んで、それを優遇する。有利になった個体は、自らの遺伝子とその遺伝子がコードする形質を、次の世代へと伝えていく。

 ダーウィンは、自然選択をゆっくりと進んでいくプロセスだと考えていた。今日のわれわれは、それが極めて迅速に起こりうることを知っている。これまですでに非常に多くの生物種において、自然選択による進化がリアルタイムで観察されている。それは何ら驚くことではない。むしろ驚くべきは、たとえば、ある生物種を殺そうとするたびに、この単純な法則がもたらす結果が日常生活にどっと流れ込んでくるという、川の流れにも似た、どうにも避けられない現実である。

 われわれは、抗生物質、殺虫剤、除草剤、その他の薬剤を用いて生物を殺そうとする。こうしたことを、家庭でも、病院でも、裏庭でも、農地でも、場合によっては森林でも行なっている。そのときわれわれは、ミシシッピ川の堤防を築いた人々と同じように、支配力を行使しようとしている。それによってどんなことが起きてくるかは予測が可能だ。

 最近、ハーバード大学のマイケル・ベイムらが、いくつもの帯状の区画(カラム)に分割された「メガプレート」を作成して実験を行なった。第十章で、このメガプレートとそのカラムについて取り上げる。これは、極めて重要な意味をもつプレートなのだ。ベイムはこのメガプレートに、微生物の栄養源と棲み処になる寒天培地を充塡した。メガプレート両端の一番外側のカラムには、培地以外何も含まれていない。そこから内側に向かうにつれて、各カラムに含まれる抗生物質の濃度が徐々に高まっていく。ベイムはこのメガプレートの両端に細菌を植え付けて、その細菌が抗生物質に対する耐性を進化させるかどうかをテストしたのだ。

 この細菌はもともと、抗生物質に対する耐性を与える遺伝子をもっていなかった。つまり、ヒツジのごとく無防備なままで、メガプレートに投入されたのだ。寒天培地が、「ヒツジ」である細菌の牧場だとしたら、抗生物質はオオカミだった。この実験は、抗生物質を使って体内の病原菌をコントロールする方法を模していた。除草剤を使って芝生の雑草をコントロールする方法を模していた。自然が生活の場に流れ込んでくるたびに、それを食い止めようとするわれわれのやり方を模していた。

 それで、どんなことが起きたのだろうか? 自然選択の法則から予測されるのは、突然変異によって個体間に遺伝的差異が現れうる限り、細菌はいずれ、抗生物質に対する耐性を進化させるだろうということだ。とはいえ、それには何年も、あるいはもっと長い時間がかかるかもしれない。あまり長い時間がかかると、抗生物質を含んだカラム、つまりオオカミだらけのカラムへと広がる能力が得られる前に、細菌の栄養分が尽きてしまうかもしれない。

 しかし実際には、長い時間などかからなかった。かかったのは一〇日ないし一二日だった。

 ベイムはこの実験を、何度も、繰り返し実施した。そのたびに同じ現象が繰り返された。一番目のカラムが細菌で満たされると、増殖速度がいったん低下したが、ほどなく、ある系統が最低濃度の抗生物質に対する耐性を進化させ、続いて、多くの系統もこうした耐性を進化させた。やがて、最低濃度のカラムがそれらの系統で満たされると、再び、増殖速度がいったん低下したが、ほどなく、別の一系統が、次に高い濃度の抗生物質に対する耐性を進化させ、またもや続いて、多くの系統がこうした耐性を進化させた。このような現象が次々と起きていって、ついに、いくつかの系統が最高濃度の抗生物質に対する耐性を進化させるに至り、まるで堤防を越えて溢れる水のごとく、最終カラムへと流れ込んでいったのである。

 ベイムの実験を早回しで見ると、ぞっとするほど恐ろしい。その反面、美しくもある。その恐怖の源は、無防備だった細菌が耐性をつけ、人間の手に負えなくなっていくスピードにある。その美の源は、自然選択の法則に基づく、実験結果の予測可能性にある。このような予測性は、次の二つのことを可能にしてくれる。まず、細菌にせよ、トコジラミにせよ、何か他のグループの生物にせよ、どのような場合に耐性進化が起こりそうかを予想することができるようになる。また、耐性進化が起こりにくくなるように、生命の川の流れを管理することができるようになる。自然選択の法則を理解することこそが、人間が健康で幸福に暮らすために、ありていに言えば、人類が生き残っていくために、極めて重要な鍵となるのである。

 生物学的な自然界の法則として、自然選択の法則と同じくらい重要な意味をもつものがまだ他にもある。種数─ 面積関係の法則は、ある島や地域にどれだけの種数の生物が生息するかを、その面積の関数として示すものだ。この法則を利用すれば、いつどこで種が絶滅するかだけでなく、いつどこで新種が出現するかをも予測することができる。回廊(コリドー)の法則は、将来、気候変動に伴って、どんな種が、どのように移動するはめになるかを教えてくれる。回避(エスケープ)の法則は、害虫や寄生体を回避できた種が、いかにして繁栄に至るのかを説明してくれる。回避という視点から捉えると、人類が他の種に比べてかなりの成功を収めることができたのはなぜか、他の種に比べて異常なほど多くの個体数を達成できたのはなぜかが見えてくる。さらに、この法則に基づいて考えると、今後、害虫や寄生体などからの回避が見込めなくなったときに直面する、いくつかの問題が見えてくる。将来、気候変動が進んだとき、人類も含めて、それぞれの種が生息可能な場所はどこか、人類がうまく生きていかれそうな場所はどこかは、ニッチの法則によって決まってくる。

 以上のような生物界の諸法則は、どれもみな、人間が注意を払うか否かにかかわらず、人間に重大な影響をもたらす。そして多くの場合、それに注意を払わずにいると、厄介な事態を引き起こす。たとえば、コリドーの法則に注意を払わずにいると、うっかり(有益な種や全く無害な種ではなく)有害な種が将来はびこる手助けをしてしまう。種数─ 面積関係の法則に注意を払わずにいると、ロンドンの地下鉄内で出現した新種の蚊のような有害な種を進化させてしまう。エスケープの法則に注意を払わずにいると、人体や作物がせっかく寄生体や害虫を免れている状況をみすみす無駄にしてしまう。まだまだ挙げていけばきりがない。逆に言うと、それらに注意を払えば、つまり、自然界の行く末にそれらがどう影響するかをよく考えれば、人類の存続が許容される世界を創造できる、という点がどれもよく似ている。

 これらの他に、人間の行動の仕方に関する法則もある。人間行動の諸法則は、生物界全般の諸法則よりも適用範囲が狭い上に、整合性に欠けるきらいがある。法則と言わずに、傾向と言ってもいい。しかしそれは、時代や文化を越えて繰り返される傾向であり、未来を読み解く上で欠かせない。なぜなら、人間がどのように行動しがちかを教えてくれるからであり、また、それに逆らって進むには、何を意識すべきかをも教えてくれるからである。

 人間行動の法則の一つは、複雑な生命現象を単純化して支配しようとする傾向である。太古からの強力な川の流れを真っ直ぐにしようとするのも、そうした傾向の現れだ。これから何年かのうちに、生態系は、過去数百万年間に経験したことのないような状況に置かれるだろう。地球上の人口は膨れ上がるだろう。現在すでに、陸地の半分以上が、都市や農地や水処理施設といった、人間が造り出した生態系で覆われている。一方で、人類は今や、地球上の最も重要な生態学的プロセスの多くを、資格も能力もなしに直接的に支配するようになっている。人類は現在、地球上の純一次生産量(植物によって新たに生産されるバイオマスの総量)の半分を食べているのだ。そこに気候変動の問題が加わる。気候条件は、これからの二〇年間に、人類がいまだかつてさらされたことのないものになるだろう。最も楽観的なシナリオに基づいても、二〇八〇年までに、何億もの生物種が生き残りをかけて新たな地域へと、場合によっては新たな大陸へと移動しなければならなくなる。われわれは前例のない規模で自然を造り変えているのだが、たいていの場合、他のことに気をとられて、造り変えていることには気づいていない。

 人間は、自然を造り変えながら、支配力をますます強化しようとする傾向がある。農地をより単一化して産業化を図るとともに、ますます強力な殺生物剤を使用するようになっている。後述するように、こうしたやり方は間違っており、変化しつつある世界では、特に問題が多い。変化しつつある世界では、支配力を強めようとする行動傾向は、二つの多様性の法則にそぐわないからだ。 多様性の法則の一つ目は、鳥類や哺乳類の脳で顕著だ。近年、生態学者たちが、創意に富む知能を用いて新たな課題に取り組むことのできる脳をもつ動物は、変わりやすい環境下で有利になることを明らかにした。こうした動物には、カラス、オウム、および数種の霊長類が含まれる。そのような動物は、環境条件が変化しても、知能を用いてその衝撃を和らげることができる。認知的緩衝の法則と呼ばれる現象である。それまで一貫し、安定していた環境が変わりやすくなると、こうした創意に富む知能をもつ生物種がはびこるようになる。この世界が、カラスの世界になるのである。

 多様性の法則の二つ目、多様性-安定性の法則は、より多くの生物種を擁する生態系ほど、時を経ても安定しているというものだ。この法則と生物多様性の価値を理解しておくと、農業を営む上で役に立つ。作物の多様性が高い地域ほど、主要作物の年間収穫量が安定しており、したがって、収量不足に陥る危険性が低くなる。繰り返し強調しておくと、変化に直面したとき、われわれ人間は、得てして自然を単純化しようとし、自然を造り変えてしまおうとさえするが、実際には、自然の多様性を維持していくほうが、持続的成功につながる可能性が高いのである。

 自然をコントロールしようとするとき、われわれ人間はたいてい、自分たちを自然の外部にあるものと見ている。そして、自分たちはもはや動物ではないかのように語る。他の生き物から切り離され、全く異なるルールに従って生きる孤高の種であるかのように語る。これはとんだ思い違いである。われわれは自然の一部であり、しかも自然に密接に依存している。すべての生物種は他の種に依存している、というのが依存の法則だが、人類は、これまでに地球上に現れたどんな生物種にもまして、多数の種に依存して生きているのではないだろうか。

 一方、人類が他の種に依存しているからといって、自然が人類に依存しているわけではない。人類の絶滅後もずっと、生命のルールが変わることはない。実のところ、人類が周囲の世界に加えている最悪の暴行でさえ、一部の種を優遇する結果となっている。生命の壮大なストーリーの瞠目すべき点は、人類が何をしようが結局、それとは無関係に物語は紡がれていく、という事実である。

 最後になったが、人間には、未来の計画の立て方にも関わる重大な傾向──自然に関する無知や、その規模や範囲についての誤解にもつながる傾向──がある。それは、生物界は人間のような種、つまり眼や脳や背骨をもつ種ばかりのように思ってしまう傾向である(これを人間中心視点の法則と呼ぶことにする)。これは、われわれの認識の限界、想像力の限界から生じてくるものだ。この法則から逃れ、旧来の偏見を打破できる日が訪れないとも限らないが、いくつかの理由から、その可能性は低い。

 一〇年前に私は、生物の多様性とまだ発見されていない未知の生物をテーマに、『アリの背中に乗った甲虫を探して――道の生物に憑かれた科学者たち』(ウェッジ)という本を書いた。その中で私は、生物は、われわれが想像するよりもはるかに多様性に富んでおり、いたるところに存在していることを主張した。この本は、私がアーウィンの法則と呼ぶものについて詳しく論じたものだった。

 科学者たちはこれまで何度も、科学の終焉(または終焉が近いこと)や、生命の極とでも言うべき新種の発見を告げてきた。通常、そうすることで、自分こそが最後のピースをはめた人物だと主張するのだ。「とうとう私が成し遂げたので、これで終わった。私が突きとめた事実に注目せよ!」と。しかしこれまで何度も、そのような発表の後で、さらに新たな発見がなされ、生物はそれまで考えられていたよりも遥かに壮大で、研究はまだまだ不十分であることが判明する結果となった。

 アーウィンの法則は、生物のほとんどは、まだ命名されておらず、ましてや研究の対象にもなっていない、という現実を反映している。アーウィンの法則という呼称は、甲虫の専門家のテリー・アーウィンの名をとってつけられたものだ。彼は、パナマの熱帯雨林で行なったただ一つの研究で、生物界の規模や範囲についてのわれわれの認識を一変させた。アーウィンは、生物界についての認識に、コペルニクス的転回とも言える革命をもたらしたのである。地球をはじめとする惑星は、太陽の周りを回っていることに科学者たちが異を唱えなくなったとき、コペルニクス的転回は完結した。生物界は想像しているよりも遥かに壮大で、未知の領域がまだまだ残されていることを忘れなくなったとき、アーウィン的転回は完結するだろう。

 こうした生物界の法則や、その中で人間が占める位置についての法則は、全体として、未来の自然界やその中で人間が占める場所について考える上で、何が可能で何が不可能かという展望を与えてくれる。生物界の法則を念頭に置かない限り、持続可能な人類の未来はあり得ない。無理にコントロールしようとして失敗し、都市や町がたびたび洪水に見舞われるようなことのない未来──河川の氾濫だけでなく、害虫や寄生体や飢餓の氾濫にも見舞われることのない未来──はあり得ない。こうした法則を無視すれば、何度も失敗を繰り返すことになる。

 残念なのは、抑え込みを図ることが、自然相手の標準的手法になってしまっていることだ。人間には、犠牲を払ってわざわざ自然と闘い、うまくいかないと、復讐する神(またはアーカンソー州の紳士)のせいにする傾向がある。しかし幸いなのは、必ずしもそうする必要はないということ。比較的シンプルな生物界の諸法則に注意を払えば、百年、千年、あるいは百万年先まで生き延びる可能性を格段に高めることができる。

 しかし、それを無視したらどうなるか。そう、人類滅亡後の地球で、生物がどんな道筋をたどるか、実は生態学者も進化生物学者もだいたい予想がついている。

本書の目次

序章
 人vs川
 自然界の未来を予測する法則

第一章 生物界による不意打ち
 人間中心視点の法則
 ヒトを謙虚にさせるアーウィンの法則
 他の生き物との付き合い
 突然の絶縁
 生物界の法則が照らす道

第二章 都会のガラパゴス
 種数‐面積の法則
 都市に浮かぶ島
 新種が出現する条件
 農地で起こる進化
 都市の生物地理学

第三章 うかつにも建造された方舟
 生き物たちのための回廊
 コリドーの法則×ヒト

第四章 人類最後のエスケープ
 移動の大きなメリット
 マラリアにみる二種類のニッチ
 アメリカ大陸に渡った人類とエスケープの法則
 作物もエスケープした
 キャッサバの教訓
 蚊と都市
 気候変動と感染症
 寄生生物に追いつかれる未来

第五章 ヒトのニッチ
 イノベーションの影響
 気候と暴力
 ニッチと経済
 ニッチから外れて暮らす未来

第六章 カラスの知能
 二種類の知能と気候変動
 環境の変動性に苦しむ種
 ヒト集団の知能

第七章 リスク分散のための多様化
 未来の農業のヒントは自然界に
 多様性の効果を実験する
 多様性‐安定性仮説でみた世界の農業

第八章 依存の法則
 帝王切開とミツバチ
 シロアリの腸内細菌
 ヒトの常在菌はどこから来るのか
 新生児の微生物獲得法
 依存している生物の種の継承

第九章 ハンプティダンプティと受粉ロボット
 転げ落ちたら元には戻れない
 塩素消毒の落とし穴
 テクノロジー過信の代償

第十章 進化とともに生きる
 生物の威力
 決壊
 地球を舞台にしたメガプレート実験
 薬剤耐性の現状
 人類の敵とどう戦うか

第十一章 自然界の終焉にはあらず
 保全生物学とアーウィン的転回
 ヒトと極限環境
 未来の気候下で生きるアリ

終章 もはや生きているものはなく
 絶滅の法則
 共絶滅
 人類が消滅するとき
 進化とジャズ
 人類亡き後の生物界

訳者あとがき
原注

著者プロフィール

ロブ・ダン
ノースカロライナ州立大学応用生態学部教授、コペンハーゲン大学進化ホロゲノミクス・センター教授。著書に『家は生態系』(白揚社)、『世界からバナナがなくなるまえに』『心臓の科学史』(以上、青土社)、『わたしたちの体は寄生虫を欲している』(飛鳥新社)、『アリの背中に乗った甲虫を探して』(ウェッジ)がある。ノースカロライナ州ローリー在住。

訳者プロフィール

今西康子
神奈川県生まれ。訳書に『家は生態系』『文化がヒトを進化させた』『蜂と蟻に刺されてみた』『蘇生科学があなたの死に方を変える』(以上、白揚社)、『ミミズの話』『ウイルス・プラネット』(以上、飛鳥新社)、『マインドセット』(草思社)、共訳書に『文化大革命』(人文書院)、『眼の誕生』(草思社)などがある。

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