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機械に意識は宿るのか?『意識はなぜ生まれたか』試し読み

4/16(土)発売の白揚社新刊『意識はなぜ生まれたか——その起源から人工意識まで』より、冒頭部分の試し読みをお届けします。

著者はプリンストン大学で神経科学ラボを率いるマイケル・グラツィアーノ教授。神経科学分野の第一人者です。
著者の提唱する「注意スキーマ理論」では、意識の謎に工学的アプローチから迫ります。ブライアン・グリーンの最新刊『時間の終わりまで』や、ジェフ・ホーキンスの『脳は世界をどう見ているのか』にも取り上げられている、近年注目を集める主要な意識理論の一つです。

本書はそんな「注意スキーマ理論」を初めて一般向けに解説したものです。著者は、この理論を基にすれば機械に意識をもたせること、つまり人工意識をつくることは可能であるどころか避けられない、と言います。そして、その先に待つ未来はSFに描かれるようなディストピアではなく、現実世界と仮想世界(メタバース)が融け合った、多元世界(マルチバース)になるとも——。

お届けするのは、本書の冒頭部分となる第1章の全文です。

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0235意識はなぜ生まれたか

会話するぬいぐるみ


 息子は三歳。お気に入りのゾウのぬいぐるみが私の腹話術で会話した。それぐらいの年齢だと、初心者レベルの腹話術でも十分で、息子は大喜びだった。数年のうちに私の腕は上達し、今度は私がその錯覚のふしぎな力に圧倒されるようになった。腹話術は、隠れたスピーカーのように人形から声が出てくるだけではなかった。まだ名人とは言えない私にも奇妙なことが起こり始めた。人形が性格をもつようになり、意識もあるかのように感じられ出したのだ。私たちの脳には、人形にも心があると思ってしまうようなしくみがあるのは間違いない。しかし、そのしくみは腹話術のために進化したのではない。社会的動物である私たちヒトは、つねにこのしくみを他者に対して用いている。私はだれかと話す時、その人の思考や感情や意識を自動的に感じとっている。もちろん、その人の心を直接知覚しているわけではない。私の脳は、心の簡易モデルを作ってその人に投影し、息子が人形に感じたのと同じようにその人を感じているのだ。
 このプロセスは人間以外にも適用される。私たちはペットのイヌやネコにも意識があるように思うし、自分が育てている植物に意識があると言う人もいる。古代の人々は木々や川が感覚をもつと信じていた。子どももお気に入りのおもちゃに心を感じとる。そう言えば、私もこの間コンピュータに腹を立てたっけ。だから、ここで言っているのは、なにかに心があるかどうかを頭で考えたり、その心のうちを理詰めで推測したりする(もちろん、時にはそうすることもあるが)といったことではない。私が言っているのは、あるものから意識のエッセンスが発せられているという、自動的で本能的な直観のことである。それは誤ることも多いが、時には有無を言わせないほどの説得力をもつことがある。
 腹話術について考えるうちに、私は、私自身がもつ意識も、他者に意識があると感じるこれらの例も、出所は同じなのではないかと思うようになった。それらには次のような統一的説明が適用できるかもしれない。すなわち、私たちは自動的に心のモデルを作り、それを自分自身や他者に投影している。意識があるという謎めいた直観、すなわち私に、あなたに、このペットやあそこの物体に意識が宿っているという確信は、これらの単純化された、しかし有用なモデル――世界を理解するために脳が構成する情報の集合――にもとづいているのかもしれない。
 これは会話するぬいぐるみから得た重要な洞察だった。その洞察は、私を意識という研究テーマに向かわせることにもなった。
 それまでの二〇年間、私は、脳がどのように身体のまわりの空間をモニターしているか、どのように空間内での身体の複雑な動きを制御しているかを研究していた。これは神経科学の伝統的なテーマのひとつである。神経科学におけるこの基本的なバックグラウンドが、意識の理論の構築に役立つことになった。二〇一〇年に、私は同僚らとともに、神経科学や心理学、進化学の研究にもとづき、さらに工学的な視点も採り入れて、注意スキーマ理論と呼ぶものを構想し始めた。この新しい理論は、意識の科学的研究における大きな変化の一端をなしている。この理論は、物質である脳がどのようにして意識という非物質的特性を生み出すのかという、いわゆる意識の「ハードプロブレム」を解くものではない。代わりに、なぜ人はそもそもハードプロブレムがあると思ってしまうのか、なぜこの誤った直観が私たちの深いところに組み込まれていて、変えることができないのか、なぜそれが脳のはたらきに有利なのか、あるいはもしかすると必要ですらあるのかを説明する。
 私ははじめ、この注意スキーマ理論を社会的相互作用の観点だけから考えていた。しかしこの理論は、脳のより一般的な特性、すなわちモデルにもとづく知識に依拠している。脳が作り上げるこの内的モデルは、高次の思考や言語が関与することなく、ぶくぶくいう湧水の気泡のように、たえず自動的に生まれ変化し続ける豊かな情報の集合である。この内的モデルは、モニターすべき重要な項目――外的な対象のことも、自己の側面のこともある――を表象している。これらの表象は、現実のものを描いた印象主義やキュビズムの絵のように、単純化され、歪められているが、私たちはその内容を伝える時、あたかも文字通りの現実であるかのように、それを説明する。それは私たちのなかに組み込まれており、そう報告するしかない。まわりの世界についての直観的理解と自分自身についての理解は、つねに歪められ単純化されているが、それはこれらの内的モデルにもとづいているのだ。
 この理論では、自分自身についての直観、つまり意識が「機械のなかの幽霊」とも呼ばれる非物質的な内的エッセンスであるという直観は、特定の内的モデルから生じると考える。私はこれを「注意スキーマ」と呼んでいる(そう呼ぶ理由については第3章で述べる)。この注意スキーマは、脳がどのように情報をとらえて深く処理するのかについての単純化された記述である。この記述は、脳が自身の内的能力を理解してモニターするための効率的な方法である。こうした内的モデルは、他者の行動をモニターし予測するのにも使われる。
 この注意スキーマにもとづくアプローチは、時に意識を軽く見たり過小評価しているように聞こえるかもしれない。しかしそうではない。私たちが意識をもつことを教えるこの内的モデルは、深く、豊かで、連続していて、そしておそらく必要不可欠である。知覚も、思考も、行為も、社会的相互作用も、私たちのするほぼすべてのことは、この内的モデルがなければうまく機能しない。

 本書では、「意識」「主観的アウェアネス(気づき)」「主観的体験」ということばをほぼ同義で用いるが、ほかの研究者は必ずしもそうした用い方をしていない。とりわけ「意識」という用語は、多様な使われ方をすることで悪名高い。ここでは、「意識」がなにを意味するかを説明する前に、まずなにを意味しないかを明確にしておこう。意識は時に、自分が何者かを知ること、これまでの人生で自分がなにをしてきたかを理解することとされる。また自分のまわりの世界を処理して、それにもとづいて知的な判断を下す能力とみなされることもある。しかし、私の言う意識はこのどれでもない。
 内的体験の代表的な例は、「意識の流れ」と呼ばれる、つねに変化し続ける万華鏡のような心の中身だろう。よく知られているように、ジェイムズ・ジョイスが一九二二年に発表した小説『ユリシーズ』のなかでとらえようとしたのは、頭のなかのこの喧噪である。ジョイスは、めまぐるしく変化する光景や音や触感を、味や匂いを、湧き上がってくる最近の出来事や遠い過去の思い出を、進行中の内なる対話を、そして葛藤する感情や空想をこと細かに綴った。その内容の部はスキャンダラス過ぎたため、最初この小説は発禁処分になった(ちなみに、アメリカでは「合衆国vs.ユリシーズ」裁判として一九三三年に判決が出たが、その判決は現代の猥褻の法的定義を与えた)。しかしこれも、「意識」と言う時に私が意味するものではない。こうした意識の流れは明確に定義されているわけではなく、ジョイスのこの一冊でさえ、科学的な研究の手に余る。
 代わりに、いろいろなものが入ったバケツを想像してみよう。ジョイスがやったみたいに、入っているものを列挙してみることもできるが、もっと基本的な問いかけをすることもできる。このバケツはいったいなんだろう? 中身のことはひとまず気にしないでおこう。バケツはなにでできているのだろう? どこから来たのだろう? 私たちはどのようにしてなにかを意識するようになるのだろう? 意識はたんに私たちのなかにある情報なのではない。というのは、脳には膨大な量の情報があるが、一時に意識できるのはほんのわずかな情報に限られるからである。その限られた情報になにかが起こらないかぎり、私たちはそれを意識しない。なにがそれを起こすのだろう? 現在の哲学者や科学者は、この具体的な疑問に関心を寄せている。「意識」という用語は、意識される内容よりは、「意識する」という行為を意味している。
 哲学においては、はじめは意識の流れのなかの内容に焦点があてられていたが、しだいに関心は意識するという行為に移ってきた。私は、この変化がこの半世紀におけるコンピュータ技術の発展と関係があると思っている。情報技術が発展するにつれて、心のなかの情報内容はふしぎなものではなくなったが、一方で、その内容を意識するという行為、そうした意識体験をするという行為のほうがはるか遠くにあって解き難く感じられるようになった。例をいくつか挙げてみよう。
 デジカメをコンピュータにつないで、取り込んだ視覚情報を処理するシステムを作ることは可能である。コンピュータは、色、形、大きさを抽出し、映っているものがなにかを特定できる。人間の脳もこれと似たようなことをしている。違いは、人間の場合には、なにを見ているかという主観的体験があることだ。見ているものが赤いという情報を記録するだけでなく、赤さの体験もしている。見るとは、なにかを感じることだ。現在のコンピュータは画像の処理はできるが、どうすればコンピュータにその情報を意識させられるかという問題は、まだ工学的には解決されていない。
 次に、より個人に関わる例として、これまで自分が体験してきたこと、つまり自伝的記憶を考えてみよう。たえず湧き上がってくる思い出は、ジョイス風の意識の流れの典型的な例だ。しかし、記憶を貯蔵し検索する機械を作ることはできる。あらゆるコンピュータがその機能をもっており、科学者は、脳のなかに記憶がどのように貯蔵されているかについて、詳しくはわからないにしても、一般原理は知っている。記憶は謎でもなんでもない。記憶も意識を引き起こすものではない。この場合も、意識のなかにあるもの――ここでは記憶――は、それを意識する行為と同じではない。
 最後の例は意思決定である。人間の意識における謎を挙げるとするなら、意思決定の能力も候補になるに違いない。私たちは情報を取り込み、処理し、評価し、次にすることを選択する。しかしこの場合も、意識は意思決定の本質的な部分ではない。コンピュータはみな決定を行なう。ある意味で、これはコンピュータの定義そのものである。コンピュータも情報を取り込み、処理し、その情報を使って、多くの動作のなかからひとつを選択する。一日数万回にもおよぶ人間の脳が行なう決定のほとんどは、主観的体験なしに自動的に起こる。自分が意思決定をしていると気づくのはほんの少数の例に限られ、私たちはそれを意図とか選択とか自由意志と呼んでいる。しかし、意思決定の能力そのものは意識を必要としない。
 こうした例やほかの多くの例にもとづいて、そしてコンピュータ技術の進歩――とくに工学分野では意識の内容についての理解が急速に進みつつある――にともなって、意識の内容と意識する行為が明確に区別されるようになった。私の関心は後者に、意識するという行為のほうにある。どのようにして私たちはなにかについての主観的体験をもつようになるのだろうか?
 焦点の当て方が狭過ぎると思う人もいるかもしれない。私はよく次のように聞かれる。記憶はどうか? 意識的選択は? 自己理解は? 意図や信念は? これらは意識にとって必須ではないのか? もちろん、みな重要な問題であり、人間の意識のバケツのなかにある重要な品目だということは認めよう。しかし、根本的な謎ではない。それらは情報処理の問題であって、どうすればそれらを人工的に作れるかという原理は、少なくとも想像することができる。根本的な謎はバケツそれ自体だ。意識とはなんだろう? なにからできているのだろう? ものごとは意識のなかにどのように入り、入ることでなにを獲得するのだろう? そして脳のなかで意識にたどり着くものは、どうしてそんなに少ないのだろう?
 学者たちはこれまで、意識のようにとらえどころのないものは、科学的に解明することなどできないと考えてきた。しかし最新の研究から、私は、視覚情報処理、記憶、意思決定など、その内容を構成する具体的な項目と同様に、意識も理解することができるし、構築することも可能だと確信するようになった。

 私はこれまでも何度か意識について書いてきたが、今回は一般の読者に向けて書いている。本書では、生物学的な脳と人工的な機械の両方に適用可能な意識についての科学的理論を、できるだけ平易に解説したいと思う。
 第2章から第5章では進化をあつかう。脳を作り上げる細胞であるニューロンが六億年ほど前に出現したところから始めて、神経システムの複雑さの進化について述べる。そのなかでは部分的に注意スキーマ理論についても言及するが、この理論そのものについては第6章で紹介する。
 第7章では、注意スキーマ理論がほかの理論とどう関係するのかを論じる。注意スキーマ理論は、半ダースほどある意識についての主要な科学的理論のひとつと位置づけられる。私の印象では、これらの理論は必ずしも互いに対立するものではない。私は、どれに軍配があがるかを、手をこまねいて待つべきではないと思う。これらの理論は確かに違ってはいるし、賛成できないものも多くあるが、いくつかの理論には奇妙な、隠れたつながりがある。そしてすべての理論が重要な洞察を与えてくれる。私には、見解の一致の兆し――それぞれのアイデアがつながったものと言ったほうがよいかもしれない――が見え始めているように思える。
 第8章と第9章では、意識に関するテクノロジーがなにをもたらすかについて述べる。私たちの知識と技術は意識を作れるまでになりつつあり、それが実現した暁には、新しいテクノロジーが私たちの文明を大きく変えてしまう可能性もある。機械に意識をもたせることは最初のステップに過ぎない。もし意識を作り出すことが技術的に可能なら、あるデバイスから別のデバイスに心を移すことも、原理的には可能ということになる。その道のりははるか遠いにせよ、理論的には、ヒトの脳から心に関係するデータを読みとることも、その心を人工的なプラットフォームに移すことも可能なはずである。新しいテクノロジーは、心が限りなく生き続けることを可能にし、生身の人間の行けない環境を探索することを(それこそ恒星間の移動も)可能にするかもしれない。行く手を阻む物理法則はない。そのための装置や機械がまだ発明されていないだけのことである。
 もし意識が科学的・工学的観点から理解できるのなら、この話題はもはや哲学的な議論にとどまらない。それは急を要する現実の問題になる。本書では、意識の利用がどのようなテクノロジーの未来を導きうるのかも考えてみよう。その未来は明るいかもしれないし、あるいは見るからに恐ろしいものかもしれない。いずれにしても、いま確実に言えるのは、意識が科学的に解明され、意識を人工的に作ることができる時代が、すぐそこまで来ているということである。

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本書の紹介ページ

【目次】
1 会話するぬいぐるみ
2 カブトガニとタコ
3 カエルの視蓋
4 大脳皮質と意識
5 社会的意識
6 意識はどこにあるのか?――ヨーダとダース・ヴェイダー
7 さまざまな意識理論と注意スキーマ理論
8 意識をもつ機械
9 心のアップロード
付録 視覚的意識の作り方

【著訳者紹介】
マイケル・グラツィアーノ
プリンストン大学神経科学・心理学教授。同大学の神経科学ラボを率いる。神経科学に関する本を執筆するほか、ニューヨーク・タイムズ紙、アトランティック誌などに寄稿する。プリンストン在住。趣味は執筆、作曲、腹話術。
鈴木光太郎
東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。元新潟大学教授。専門は実験心理学。著書に『ヒトの心はどう進化したのか』(筑摩書房)、訳書に『アナログ・ブレイン』、『もうひとつの視覚』(以上、新曜社)、『ヒトはなぜ自殺するのか』(化学同人)等多数。


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