歌の練習
小さいころから「他人は他人、自分は自分」みたいな教育を施されてきたわけですが、それでも果たしてみんなはいったいどうやっているんだろう、と思い悩むことがいくつかあります。
そのひとつが、みんな歌の練習をどうやっているんだろう
ということです。
みんな、ふだん、どうやってんの?歌の練習。
いまここで
(おまえはなんのはなしをしているのだ?)
と、思ってしまったあなた。さようならです。いつか時の輪のつながるところで逢いましょう。
ふつうに生きてれば唄いたい歌の一曲や二曲、出てきませんか?
ぼくはあります。
高校生ぐらいの頃だと安全地帯の『恋の予感』とか『真夜中すぎの恋』とか。あと陽水の『風のエレジー』。さんざんスナックで唄ったな。
居酒屋の店長時代にはフィリピンパブにハマって、やたらタレントにウケる歌を。徳永英明の『レイニーブルー』とか中西保志の『最後の雨』とか。鉄板ですね。
西新宿でネクタイを鉢巻きにマイクを奪い合っていた時は古いところで野猿やユニコーン、はたまたリップ、ミスチルにSMAPなんかも得意としていましたね。何回シャウトしたことか、ダイナマイトなハニーでもいいんじゃない。
しかし、もう最近ではすっかりカラオケ行かなくなったじゃないですか。
前職の後半ぐらいから頻度は落ちていったんですけど10年前に渋谷のベンチャーに転職してからはまるで行かなくなった。
なぜか。
いまヤングは飲んだあとカラオケではなくダーツにいくんですよ。
ぼくはそこそこロートルなのでダーツはやんない。ビリヤードかボウリングだったら誘われたら考える。でもダーツはやりません。
なのでグッと減っているんです、カラオケとの接点が。
それはつまり、歌の練習の場が極端になくなるということです。
はじめてカラオケでリクエストして、唄ってみたけど出来があまりよくなくて、でもその歌を上手く唄えるようになりたくて。ボックスに行くたびに練習を重ねる。
次第に社内でこのナンバーをリクエストしたら右に出るものは…というポジションを獲得し、事あるごとに唄うことに。気づけば十八番となり、カラオケ大会のオーラスを飾るところまで昇格する。
そのうち顔見知りではない、初対面の人前でも披露するようになり、出張先の岐阜のスナックあたりで「上手いですね、さすが東京の人!もしかして音楽関係?」といった評価がもらえるようになれば一丁上がり。
気のおけない職場の仲間たちとのカラオケは、その歌が自分のものになりそうかどうかテストの場であると同時に腕を(正確には喉を)磨く鍛錬の場でもあるのです。
しかしそれが奪われたいま、翼の折れたエンジェルおじさん(おばさんも)たちは、ああ、どこで唄の練習をしたらいいのだろうか。
♪♪♪
たとえばお風呂場で。シャワーを浴びて(いまこの字面だけでNO. NEW YORKを想起したあなたはだいぶイッてます)気分良く唄う。
うむ、悪くない。
だけどせっかくのリラックスタイムなのに歌詞を必死に思い出したり、キーがあってるかどうか気にしたり、ハイトーンボイスのために力んだりするのはいかがなものか。
特に血圧高めの診断を下されたばかりの中学校教頭内山田ひろし(仮名)の場合、40℃前後のお湯に浸かりながらの裏声は血管に少なからず負担をかけそう。
たとえば通勤時に歩きながら。イヤモニから流れるオケにあわせて口ずさむ。いまぐらいの季節なら清々しい薫風を浴びながら唄う。
うむ、悪くない。
だけど野原をたったひとりで通勤しているわけじゃない以上、周囲の目ってものがあるだろう。これから会社だよちくしょう、というダウナーなメンタルの集団の中ひとりシャウトというのもいかがなものか。
あと普通に考えて恥ずかしいわな。よほどの強心臓でもなければ大きな声は出せないだろう。となると口をパクパクさせながら唄うわけで。金魚みたいでみっともいいもんじゃないよね。
たとえばクルマの中。運転しながらカーステでお目当ての曲を流して、大声で唄う。誰にも迷惑かけてないし、眠気防止にもなる。
うむ、悪くない。
ただ、クルマで歌ってるとすごく上手く唄えている気になるんだけど、そのつもりでマイクを握るとあれ?おっかしいなあ、ってなことになりがち。これは知り合いのスタイリストもおんなじこと言ってたので最低でもn=2は保証されている。
自信満々でスナックで初披露、のはずが、困惑しつつ苦笑いとともにキーを上げたり下げたりするのはいかがなものか。
♪♪♪
と、いうように中高年のおじさん(おばさんも)は悩ましい日々を送っているとおもうんです。
いまぼくは藤井風の『ガーデン』という歌をとても唄いたい気分です。めっちゃしっかり唄い上げられるような気がしている。脳内では自信満々に朗々と唄っているぼくなのですが、だけどいかんせん答えあわせの場がない。
第三者から「カラオケに誘われる」というのは千載一遇のチャンスのようですが、そういうときにはじめてのナンバーをぶつける胆力はもちあわせていない。むしろほしいぐらいだ。
もし、万が一『ガーデン』が『ガデーン』ぐらいガチョーンな出来だったらどうするのよ。一生その同席者たちから「クソ音痴」の烙印を押されちまうじゃないかよ。年老いてからのジャイアンリサイタルはそこそこ痛々しいぞ。
うーん、でも唄いたい。ガーデン果てるまで。
この気持ちをどこにぶつけたらいいんだろうか。
みんないったい歌の練習をどうしているのか。
中高年の自涜とともに追求していきたいテーマのひとつである。
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