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天然パーマと私

私は天然パーマである。
天然パーマ歴約43年である。
今年で54歳になる。

生まれたときは天然パーマではなかった。
生まれて、しばらくの期間は直毛だった。
どれぐらいの間ストレートヘアだったか、というとおよそ10年である。

幼稚園の頃は豊田本町のポール・マッカートニーとの異名をとっていたほどのサラサラぶり。サラサラでおかっぱ。まるで女の子だった。

私は、周囲の大人たちの「あらかわいい、女の子みたいね」という評価が嫌でたまらなかった。ほんらい性格的に猛々しいのに。もともとの名前は武蔵だったのに。蟹江の民男おじさんが強権発動して博通みたいな弱っちい名前に変えちゃっただけなのに。

だいたい「ひろみち」ってあなた。当時、中性的な魅力で売り出していた郷ひろみ“ち”がくっついた名前だなんて。ちなみに郷ひろみと私は誕生日が一日違いである。

さらにちなむと郷ひろみの本名は原武裕美。イニシャルはH.Hだ。私のイニシャルがH.Hと判明した小5の時に「うわー、ハヤカワってエッチエッチじゃん、エロ!どエロ!」と囃し立ててきた女子を校舎裏に呼びつけて「いいかよく聞けお前が結婚したいらしい郷ひろみも本名のイニシャルはH.Hだお前は郷ひろみのこともエロと呼ぶかどエロと呼ぶのかおおん?」と恫喝したことも甘酸っぱい想い出である。

とにかく私は郷ひろみに親近感を抱いているのである。

あれ?そういう話だっけ。
違う違う、そうじゃない。

それは急にやってきた

風になびくサラサラヘアですくすくと育ってきた私だったが、小学校5年生のある日、いきなり髪の毛がクリクリとカールしはじめた。ちなみにカールはチーズ味がいちばん好き。次点はカレー味。うすあじだけが意味がわからなかった。子供のお菓子に和風だしを効かせる必要はあるのだろうか。

ただ、その頃はまだ「くせっ毛」という程度のもので、正式に天然パーマと認定されたのは中学入学後である。

私の通う中学校は学区内の2つの小学校から構成されていた。私が在校していた小学校は比較的おっとりしていた羊たちの集団。しかしもうひとつの小学校はとにかく柄が悪いことで評判だった。

なにせ小学校にして「腐ったミカンの方程式」が成立する“金八”先取りの早熟ぶり。文字通りなめんなよの世界なのだ。

中学校生活がはじまると私はすぐに、不良小学校側のヤンキーたちから目をつけられた。その理由が「髪の毛」である。お前パーマかけてなにイキっとるんだ、というわけだ。

違う違うこれくせ毛だよと必死に抵抗を試みるも、教室後ろのロッカーの上に羽交い締めにされた挙げ句落とされる、という文字通り暴力教室なリンチを喰らった。胸の中央部が肉離れを起こし、40年経ったいまでも季節の変わり目にはジクジクと疼痛に苛まれる。

私はグレた。グレタ・トゥーンベリだ。こうなりゃ行くとこ行ってやる。すっかり天パーという蔑称にふさわしく育ったカーリングヘアをリーゼントにし、サイドを紫のヘアカラーで染めた。マンションの非常階段でボンタンに履き替え、校舎裏でマイルドセブンを吸った。

一ミリも勉強をしなかったが親戚に大学教授がいたおかげで附属高校に裏口から入ることができた。当然のことながら高校でも一ミリも勉強をしていない。私が高校で何をやっていたかについてはこちらのnoteが詳しいので参照してほしい。

つまり天然パーマは人を道から外すだけの“the dark side of the Force”を秘めている、ということがいいたいのである。

そして髪の毛ニクロム線へ…

辛い失恋から逃げるように東京へやってきた私。最初に借りたアパートは築30年風呂トイレなしの6畳一間2万4000円である。これは天パーにはキツい環境だ。高校時代にすっかり朝シャンの習慣が身についた私は苦悩した。

当時の私はコピー学校やアルバイトで結構あちこちに出没していたのだが、どこへ行っても「すごい頭だね」「モジャモジャ」などと言われた。いまならSPY×FAMILYのフランキーみたいだろ?みたいな軽口でかわせるのだがなにしろ多感な思春期、しかもSPY×FAMILYが連載開始するにはあと32年待たねばならぬ。

そんな私の目の前に救世主があらわれた。歩いて1分のところに「コインシャワー」なるものが誕生したのだ。私は狂喜乱舞した。そしてコインシャワーを使い倒した。コインシャワーと私の初めての出会いはこちらのnoteに詳しいのでぜひ参照いただきたい。

1年後。私はコピー学校に通ってさえいれば黙ってても自動的に仕事の口を用意してくれるものとばかり思っていたのだが、どうやらそうではないらしいことがわかった。

あわてて就職活動中の大学生に混じって受けた目黒の広告代理店にたまたま私と同じ苗字の役員がいた。そのおかげかどうかわからないが、採用枠がなかったにも関わらずぬるっと潜り込むことができた。

そこにはコピーライターになるために100社以上アタックしたが全て不採用だった、という男がいた。だいたい100社も断られている時点で何から問題があるはずなのによくそんなヤツ採用するなこの会社。と思ったがよく考えるとそういう会社だから私も採用されたのだった。

その男は私に会うなりこう言った。

「髪の毛ニクロム線」

また、こうも言った。

「スチールウール頭」

世の中にはいきなり喧嘩を売ってくる人種がいるのだなあ、この世はでっかい宝島というのもまんざら嘘でもなさそうだ、と私は思った。

しかしのちにそれは悪口ではなく、関西出身である男にとって一流のユーモアだったことが分かった。一流のユーモアがこれでは、そりゃ100社も落ちるよ。私は静かに納得した。

やがて白く、そして薄く

と、まあ若い頃は流行りのヘアスタイルができないとか、フルフェイスのメットを被ると外した時にえらいことになるとか、いろいろと悩ましいタネを蒔いてくれた私の天パーだったが、流石にこの歳になるとどうでもいいというか。

いや、どうでもよくないか。

いまでも梅雨の季節はまとまりが悪く、あっちこっちに毛がはねる。相性の良い整髪料を見つけるのもひと苦労だったりする。

それに加えて最近はめっきり白いものが目立つようになってきた。さらに毛自体が細くなり、全体的に薄くなりつつある。もう少し優しい言い方をすればハゲつつあるのだ。

ちなみに広告会社を100社落ちた関西人とスタートを切った私の社会人生活は、いつどんな環境にも関西人がいた。ひどい時は出自が関西という会社に勤めていたこともある。その経験からわかったのはどうやら関西人はおしなべて口が悪い、ということだ。

いま所属している会社の専務も関西人だ。ある社内イベントの集合写真を撮る時、専務は私の後ろに回ったのだが、みんながカメラに視線を向けている中ぼそっと呟いた。

「フッ、ハゲ散らかしてますなあ…」

「なんだと!?」と振り返って睨みつけた瞬間にシャッターが切られた。

50歳を過ぎてもグレることがあるかもしれない。天命を知ってなお、グレタ・トゥーンベリになろうか。すっかり薄くなった頭頂部を撫でながら今日もそんなことを考えるのである。

(そういえば中学の頃「鳥の巣」というあだ名を頂戴したこともあったな…)

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