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1989年の大鳥前商栄会

くち(くち)づけの(づけの)あとは~♪

この文字列を目にした瞬間、本田美奈子さんの艶めかしい歌声が脳内再生されたあなたはきっといい人です。名曲ですね、1986年のマリリン。まあゆっくり一曲聴いていってくださいな。年の瀬ですし。

https://www.youtube.com/watch?v=XKCaVpwAnEg

バンドサウンドにエレクトリックサウンドが融合しはじめた頃の歌謡曲は本当に名曲が多い。「マリリン」もテクノチックなドンカマやシーケンサーをバックに、上モノはディストーションギターだったりソウルフルな女声コーラスだったり。このあたりの折衷が得も言われぬ味わいとなって…

ってそんなことが書きたいわけではありません。2021年を締めくくる今回は1989年の大鳥前商栄会についてのうろ覚えなぐり書きです。

大鳥前商栄会は目黒川のたもとから山手通りまでの間に並ぶ商店街。目黒駅から権之助坂を下った先にひしめく50店舗ほどのお店で構成されています。ぼくは20歳から22歳まで、この商店街のまん中に建つ雑居ビルで働いていました。社会人デビューをここで果たしたわけです。

まだ感性が完成していない頃。いろんな見るもの聞くことがビンビンと心を揺らす時期です。おかげでいまだに当時のことを鮮明に憶えています。

昔、かわいがってくれた先輩に呼び出されるとたいてい、当時の話をぼくがプレイバックしてみんな感涙する、という流れになります。

そうはいってもぼくも初期高齢者の仲間入り。固有名詞がめっきり思い出せないお年頃になりました。そろそろどこかに記憶の欠片を置いておきたい!と思い、仕事が納まる気配のない中、こうして筆をとっておる次第です。

あと一応縛りな。飲食店縛りにするわ。キリがないからな。

ここであげるお店はとっくになくなったものもあれば、いまだに営業を続けているお店もある。かもしれません。どうせ誰の何の役にも立たないnoteですので、そのあたりはぬるっとお許しくださいまし。

ではさっそく思い出していきましょう!

中華料理『天津』

ぼくの会社の制作部は21時を超える残業の場合、この天津から出前を取っていいというルールがありました。生まれも育ちも個人商店だったぼくは、会社って素晴らしいな、と思ったものです。

だいたい20時半になるとデザイナーのボスから「おいてるお(ぼくのあだ名)出前取れよ」と指令が下ります。ぼくは諸先輩方のデスクを回って注文を取ります。この時の経験がのちの居酒屋勤務時代に活きてくるんだから人生って本当に面白いですね。

電話するとおかみさんの甲高い声の「テンシンデース!」が聞けます。「あ、すみません◎◎企画ですけど…」というと「ア、ハイ…」と急にテンションが下がるところも見逃せません。

味は…チャーハンが薄味だったりやたら濃かったりするものですからその味付けで「今日は当たり」「今日はハズレ」と盛り上がっていたのを覚えています。

そば『朝日屋』

天津同様に出前が取れるお店でした。そば屋さんですが当然カツ丼やカレーライスもあります。でもなぜかカツカレーはありませんでした。そこでデザイナーのボスがぼくに指令を下します。

「おいてるお!朝日屋に電話してカツ丼のカツとカレーでカツカレーをつくってくれって頼め」

先輩の、とりわけデザインのボスの言うことは絶対です。ぼくは「美味しくないよ」「やめたほうがいいよ」という朝日屋のおばちゃんの制止を振り切って、なんとかつくってもらうことに。

おかもちからカツ丼のカツが乗ったカレーライスが出てきた時は感動してちょっと泣きました。バカですね。

そのカツカレーの味は…

とんかつ『ポーク亭』

当時、制作部は大鳥前商栄会にある「丸栄ビル」と「大塚ビル」にそれぞれ何室か借りていました。もうひとつ「高田ビル」にもオフィスがあり、そこは営業部が入っていました。

ポーク亭はその高田ビルの2階にあったとんかつ屋さんです。よく営業のひとと昼前に打ち合わせすると「じゃあ続きはポーク亭で」という流れになりました。

しかし当時のぼくはとんかつよりも世界でいちばん旨いのはしょうが焼きだと頭から信じ込んでいたので、ついぞとんかつ一派を味わうことなくポーク亭と別れたのでありました。

え?しょうが焼きの味?あんなもんどこで食べても一緒でしょ?(否!大森「お食事まるやま」と駒場東大前「菱田屋」の豚生姜焼きは別世界の味わいです!ぜひお試しあれ)

パン『丸栄パン』

ぼくが所属するコピーライターチームはなんと贅沢にチーム専用の個室を与えられていました。丸栄ビルの5階の二間です。エレベーターがないので階段で昇り降りします。

当時の制作本部長は体重80キロを超えていたので一度顔を出した時に脂汗をかきながら「やばい、心臓がやばい…」といいつつ気絶しかけていました。やっぱ制作本部長ともなるとストレスで太るんスネ、とか言ってました。

まさかその10年後に自分も制作本部長なる職に就くことになるとは。これだから人生は不思議大好きゴーゴーゴーですよね。

そんなことより、その丸栄ビルの1階に店を構えていたのが『丸栄パン』です。どうですか、このけれんみのない店名。弊社の若手社員はみな遅刻寸前にも関わらず丸栄パンでパックの飲み物とサンドイッチや惣菜パンを買ってからタイムカードを押していました。

ある時代のリクルートや学生援護会のメディアに掲載された求人広告クリエイティブの一定数は丸栄パンのおかげで作られていた、といったらたぶん言い過ぎだと思います。

レストラン『SUN族』

うわ、ふとみたらもう2300文字ぐらいいってんじゃん。もういい加減にして仕事納めよう。

全女、すなわち全日本女子プロレスがかつて栄華を極めていたとき。ジムや興行の運営資金確保と若手レスラーの働き口確保の両面から本社脇でレストランを経営していました。

それが『SUN族』です。

SUN族は洋食だか和食だかわからないけど旨い料理を安い価格で提供してくれたので、ぼくは先輩が「てるお、今日のお昼はSUN族いこうぜ」と声をかけてくれるとそれだけで午前中仕事が手につきませんでした。バカですね。

通いはじめて2年目には店内に防音ブースが設置され、夜はカラオケパーティが開けるお店にバージョンアップ。なにをかくそうぼくの送別会はSUN族でした。

ちなみにネームプレートに「エリカ」と書かれたやたら体格のいいウェイトレスの動きがよくて、ぼくらはよくエリカちゃんエリカちゃんと構っていたのですが、デビュー間もないアジャコングでした。裏拳くらわなくてヨカッタ…

ステーキ『ビーエム』

正確には大鳥前商栄会ではなく、だいぶ歩くんですが、経営陣役員諸氏が心から愛していたステーキ屋さん、それが『ビーエム』です。表記は『B&M』なんですけど、なんかみんなビーエムビーエム言うので、まあいいかなと。

ただですね、ぼくはここ一回しか行ったことないです。先輩もキャリアが上の人から誘われたときだけだったみたい。その理由は「高い」から。

もちろんいまなら適正価格じゃん、って感じなんですが、なんせ当時の求人広告代理店制作部のヤングたちです。バブルの恩恵が目の前でフォークボールのように落ちるわけ。

ぼくの初任給が11万円で、でも12月の頭にボーナスだといって10万円もらえて、その月の給料日にまた11万円振り込まれてるのを知ったぼくは「サラリーマンってウマミしかないじゃないか…」とホクホクしていました。世間知らずにも保土ヶ谷バイパスですね。

それでもやっぱりステーキは高嶺の花。社長室長につれていってもらったときは緊張のあまり(高級肉ということでね)どんな味だったかもよくわからないというていたらくぶり。

もっとちゃんと味わっておけばよかったです。

カラオケスナック『ロペ』『ロペⅡ』

これでもかってぐらいどうでもいい話が続いております。自分でも反省しておりますこれで終わります。

東京ではじめてカラオケスナックに行ったのが、同社の御用達だった目黒川近くの『ロペ』と『ロペⅡ』です。ちなみにロペⅡのほうは地下にあったことから『地下ロペ』と呼ばれていました。

地元名古屋では高校時代に『かがり火』というベタなカラオケスナックに入り浸っていたのですが、ロペはかがり火に比べると格段のスタイリッシュさです。

かかる曲も「銀恋」とか「星降る街角」ではなく「翼の折れたエンジェル」「It'sBAD」「ゴーゴーヘブン(大沢誉志幸のほう)」などのカジュアル歌謡曲ばかり。

ぼくは地下ロペで、デザイナーの先輩のえみこさんがボディコンシャスなスーツを着て歌う「笑顔の行方」でドリカムを知りました。変わったコード展開の曲だなあ、でもなんか響くなあ。そんなふうに思いながら味のしない水割りを呑んでいたのが昨日のことのようです。

■ ■ ■

秋山晶さんの名コピーに「遠い日のような、今日。」というものがあります。ジャックダニエルの広告です。秋山さんは「遠い日のような、今日。を英訳すると“イエスタディ”だ」とすさまじく痺れることをおっしゃっています。

2021年も終わります。この一年が「遠い日のような、今日。」になるのも、もうすぐです。そんなタイミングだからこそ、もっとずっと遠い日のことに想いを馳せてみるのもまた一興ではないか。そんなふうに思いました。

それではみなさま、よいお年を。

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