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雪国にて

関越トンネルというものが開通してから作造はどうも気持ちの置所がひとつに定まらなくなった。土樽村で三反ほどの畑を耕して生計を立てているのだが、雪深い土地柄、冬は上越線に乗って埼玉県の鋳物工場に出稼ぎに行かなければならない。それがトンネル完成と同時に冬場の仕事が次々と地元に生まれたのだ。

その一つが岩原スキー場のリフト運行係である。

地元の農家に求人が回ってきたのは10月のことだった。ちょうどトンネルの開通式が行われ、越後湯沢の公民館に呼ばれて地元議員らと酒を酌み交わしているときだ。作造にとってスキー場でのリフト運行とは何をする仕事なのか皆目見当がつかなかったが、重労働の割に手当が少ない鋳物工場での仕事から解放されるならと、いの一番に手を挙げた。

その冬は豪雪地帯で育った作造ですら堪えるほどのドカ雪だった。おかげでスキー場は12月の声を聞く前からオープンし、4月いっぱい営業を続けることができた。作造はリフトといっても昔みたTバー、あるいは一人乗りのこじんまりしたものを想像していたのだが、時代は流れる。ゲレンデには立派なペアリフトが鎮座ましましていた。

作造の仕事はいたって単純な作業だ。リフト乗り場に立ち、降りてくる無人のリフトのベンチに積もった雪をはたき、乗客を案内するだけである。しかしふだんめったに人と話すことのない作造は戸惑った。なにせ農作物を相手に20年という人生を歩んできた男だ。「どうぞ」のひと言が口からなかなか出ないのである。

いきおい無愛想な接客態度になるのだが、そこは客側ももてなしを期待していないぶん、特に問題にならなかった。代わりに作造には秘かに誇らしく思える作業があった。それが雪をはたく手さばきだ。ふだんの野良仕事が奏功したのか、リフトの座面に対して45度の角度で箒を当てる。するとどんなに水分を含んだぼた雪でも見事に一発で落ちるのだ。

これは同僚のヨッさんからも絶賛された。ヨッさんは越後湯沢の駅近くで土産物屋を営んでいるので、特にスキー場での労役に就く必要もない。しかし夫婦仲があまりよくないらしく少しでも家にいる時間を減らしたいんだ、と休憩時間にこぼしていた。

作造には家族がいない。

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リフトの仕事をはじめて三週間目。さすがに作業にも慣れ、作造の口からも「どうぞ」という案内が無理なく出るようになってきた。なんとなく客の顔を見る余裕もでてきた。すると作造には想像できないほどさまざまな客がここ岩原スキー場には訪れていることがわかった。

いかにもスキー部といった男子学生の集団。ウインタースポーツを楽しみにきました!といった風情のOLたち。家族連れ。若いカップル。属性がよくわからない年配の男女。それまで人と接する機会がほとんどない作造の目には誰も彼もがまぶしく映る。

ある日、作造はある親子とはじめて会話を交わした。ちょうどその親子がリフトに乗ろうとしたときに終点で緊急停止ボタンが押されたのだ。まだ小学校に上がる前と思われる女の子が作造に話しかけてきた。

「おじちゃんなんでここにいるの?」

父親がすかさず「おじちゃんのお仕事をじゃましちゃだめだよ」と諭したが、作造にしては珍しく女の子に話しかける気になった。

「おじちゃんは冬の間だけここにいるんだ」
「なんで?」
「おじちゃんは夏は畑で働いているんだ」
「どこの?」
「山のふもとだよ」
「このへんはぜんぶ雪だよ」
「うん、冬はね。でも夏は畑や野山なんだ」
「ふうん」

あまりのなめらかなやりとりにはじめは怪訝そうな表情だった父親もホッとしたようで、リフトが動き始めると「ありがとうございます」と作造に礼をいいベンチに腰掛けた。それからその日、親子は4回リフトに乗ったのだが、毎回会釈を交わすようになった。

こうなると面白いもので、次の週末も親子の姿を目で追うようになる。次の週末も、その次の週末も。親子と再会できたのは一ヶ月ほど過ぎた日曜日だった。この日は作造のほうから声をかけた。「こんにちは」すっかり作造のことなど忘れていたのか、最初はびっくりしていた女の子だったが、すぐに思い出したようで2回目のリフト乗車の際は「おじちゃんこんにちは」と無邪気な笑顔で挨拶してくれた。

以来、月に一回のペースで親子はやってきた。3回目からは母親らしき女性も一緒だ。3人家族なのだろう。ペアリフトには女の子と母親、父親はその次のリフトに一人で乗るスタイルだ。通常、ペアリフトの場合一人客は他の一人客と一緒に座ってもらうルールだが、作造は気をつかって父親を一人で乗せるようにしていた。

そのことを父親も、また母親も気がついたらしく、シーズン最後の来場時には「お世話になりました」と洋菓子の詰め合わせを贈ってくれた。人から施しを受けたことがなかった作造はあわててリフト係長に報告したが「よかったじゃないか、いただいておきなさい」と言われた。

作造のリフト運行係一年目はそんな感じで過ぎていった。

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それから毎年、一家は岩原スキー場を訪れることになる。作造もいつしか家族と会うことを秘かな楽しみにするようになった。途中、4年ほど父親と女の子だけだった期間があったがその謎はすぐに解けた。ある年、母親が小さな男の子を連れてやってきたからだ。

4人は毎シーズン、月1のペースで来場しては一泊二日でスキーを楽しむ。幼稚園児だった女の子は年を重ねるごとにおませさんになっていき、途中からは弟の面倒をよく見るお姉さんになった。弟もすくすくと育ち、あっという間に小学校に上がるまでになった。

作造と一家の会話は毎年増えていき、すっかり打ち解けた。聞けば一家は横浜からクルマで来ているようだ。運転は父親で、金曜の夜遅くに出発して土曜の朝に到着するという強行軍。商社でスキー板の輸入を手掛けているとのことで、岩原にはもう20年以上通っているベテランスキーヤーだ。

母親は専業主婦で、きっかけをつくってくれた女の子は来年から高校生。弟も小学生になってやんちゃ盛り…作造はテレビドラマの主人公一家をブラウン管ごしに眺めているようだった。

夏はズッキーニ、冬はリフトの運行係。出稼ぎがなければ一生、土樽から出ることのない人生。嫁がこない以上、家族を持つことは夢物語。

それでも作造は不満はなかった。なぜなら冬になればこの一家と会えるからだ。毎年どんどん成長する女の子。そして弟。元気で健やかに明るく育ってほしい。作造は両親と同じ目線で子どもたちを見つめていた。

ところがその翌年。一家から女の子だけが消えた。体調でも崩してるのかと父親に聞くと、いやちょっと、と言葉を濁す。おかしいなと思っていたら休憩時間に母親が教えてくれた。どうも父娘の関係がこじれてしまったのだそうだ。思春期にはよくあることなので…と母親は苦笑いするのだが作造にはなんのことだかさっぱりわからない。

女の子はその次の年も、そのまた次の年もこなかった。それだけではない。一家全員がスキー場に姿を見せなくなったのだ。

作造は大事な財布をなくしてしまったような気持ちになった。途方にくれるという言葉の意味をはじめて知った。心にぽっかり穴があくとはこういうことかと理解した。いつの間にか作造にとって家族は大切な仕事のやりがいになっていたのだ。

なかでもきっかけをつくってくれた女の子の成長は、それだけで作造の生きるハリになっていた。女の子がまた冬に来てくれる。一年分だけ成長したあの娘に会える。それがあるから夏場、過酷なズッキーニの栽培にも耐えられたのだ。

どんな事情があるのかを、作造が知る術はない。その年から作造はふたたび朴念仁となった。

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それから7回目の冬。作造は今年でリフトの仕事を引退するつもりだった。ただ黙々と作業をこなし続ける毎日になんら意味が見いだせなくなったのだ。夏場に痛めた腰も辛い。カネの問題じゃない。歳をとったのだ。

それだけじゃない。ここ数年、岩原スキー場を訪れる客が激減している。以前は『滑走1分、リフト待ち30分』などと揶揄されたほどの盛況を誇っていたのだが、スノーボーダーが増え、スキーヤーをどこかへ追いやったと思ったら今度はボーダーすら寄り付かなくなった。

ガラガラのスキー場でのリフト係ほどつらいものもない。吹雪くと特にしんどい。もういいかげん潮時だ。そんなふうに思う日が増えた。

そんなある日。いつものように流れ作業でリフトの雪を叩いていると「おじさん」と声をかけられた。振り返るとすらっとした女性がはにかんでいる。はて誰だっけ…と眺めていると「やだ、忘れちゃった?何年ぶりかな」その声でわかった。あの一家の女の子だ。

「うわぁ…久しぶり!!」
「おじさん元気だった?」
「元気元気!そっちは?」
「いま東京の会社に勤めてるの」
「ああそう!いやあ大人になったね」

久しぶりの会話を楽しんでいるとロッジから「おーい!」と快活そうな声の青年が雪をかきわけて向かってくる。どうやら彼氏らしい。聞くところによると大学時代から付き合っていて、来年には結婚するそうだ。結婚前にどうしても子供の頃に通っていたスキー場を教えたい、おじさんを紹介したい、と連れて来たとのこと。

「そうか…すっかり立派になって」

そう目を細める作造に、おじさんがまだ元気にがんばってるからスキー再開するね、来月も来シーズンも会いましょうね、といって彼氏と二人でリフトにのっていった。そうか、また毎年会えるのか。そのうち二人の間にまた男の子か女の子が生まれて。また家族みんなで来てくれて。それでいいんだ。それがいいんだ。それならいいんだ。

作造は、誰かの思い出のひとコマになれることの嬉しさを噛み締めて、力強く箒でベンチの雪を掻いた。辞めるのは、もっと先でいいと思った。

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と、こんな感じの話をリフトに乗ってから降りるまでの3分ぐらいで組み立てるわけですよ。トチ狂った求人広告クリエイターというものは。想像というよりももはや妄想。リフト乗り場のおじさんの表情、手の皺、「どうぞ〜」という朴訥な声からストーリーを組み立てる。

だいたいどんな仕事に触れてもこれぐらいの妄想力が働くようになると、求人広告づくりは格段に楽しくなります。ある時は交通整理のおじさん、またあるときはキオスク(は、もうないか)のおばさん。あるいはいつも通っている中華料理屋のマスター。あのマスター、いつも口笛吹きながらチャン鍋振ってるけど、実はこんな過去があるんじゃないか…とかね。

これをお読みの求人広告制作関係者のみなさん、ぜひお試しを。

すべての仕事に物語はある。

※本文中の画像はPAKUTASOさま(https://www.pakutaso.com/)より引用しました

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