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ヒョーロンカもラクじゃない

その昔、ビジネス最前線!みたいなところで働いていたとき、よく上司が言っていた言葉があります。それは…

「ハヤカワちゃん、ヒョーロンカは、あかんで」

ヒョーロンカ、とはつまり評論家のこと。上司いわく、口ばっかりで行動が伴わないヤツ、仕事で汗をかかないヤツ、責任を背負わないヤツのメタファーだそうです。メタファーという言葉が果たしてあっているのか確信が持てませんが、なんとなくそういうこと。

当時のぼくも、この上司とまるっきりおんなじ考えでした。だからやたら弁は立つけど仕事ができない同僚や先輩のことを「あいつヒョーロンカだからな」などと揶揄したものです。

そして時は流れ、令和5年。

いまでもその考えは変わることなく、仕事場でどうにもピンとこないけどペラ回しだけはいっちょまえな輩を見ると「けっ、ヒョーロンカ風情が…」と軽蔑します。ま、あんまりいないんですけどね。

ことほどさように、評論家という単語にまとわりつくイメージは、ことビジネスの現場ではあまりポジティブではありません。

しかしですね、血で血を洗うビジネス最前線エリア88からちょっと身をひいて、気持ちのよい春はあけぼのに愛犬など連れて散歩しているとですね、いやいやそうはいっても評論家も決してラクな商売ではないんではないか

などという考えが頭の中にふわっと浮かぶんですね。

しかも仮にも長いキャリアのほとんどを人と仕事を結びつける求人広告の世界で過ごしてきた手前、評論家だって歴とした職業として認めるべきではないか。そして認める以上はいかなる職業蔑視もしないというのがわたくしのポリシーなのであります。

そこでちょっと考えてみました。評論家ってほんとうに口八丁手八丁でなれるものなのか。その難易度について。

評論家とひと言でいってもいろいろな分野にわかれています。基本的にメインのカルチャーがあって、そこに対して評論するという構造ですよね。ちょっとおもいつくままあげてみようか、とおもったんですがこういうのは例のChatGPTが得意なんじゃないか。

評論家の種類

聞いてみました
なるほどさすが俺のChatGPT

らしいっす。なんか最後、インフルエンサーが乱入してきて軽くカオスってますが、なるほどね。インフルエンサーと評論家はさすがに違うだろう。

評論家の基本設定

続いてお得意の岩波国語辞典第三版で『評論』を引いてみましょう。

ひょうろん【評論】〔名・ス他〕物事のよしあし・優劣・価値などについて論ずること。また、その文章。「文芸ー」「ー家」
岩波国語辞典第三版 P940より

つまり特定の分野の作品やプロダクト、イベントなどを批評したり評価を与える人なんですね。

となると、それに見合う、というかその行為に相応しい専門的な知識や見識が必要とされるわけです。映画をほとんど観たことがない人、あるいは小説はおろか本をほとんど読みませんという人はそれぞれその道の評論家にはなれない、と断言していいと思います。

そこには「信用性」の担保がないからです。

だから映画評論家になろう、と思う人(最初からそういう人はいるんだろうか)は古今東西の名作から佳作まで比較的すみずみまで観ていることが最低条件のような気がします。文学評論家も然り。太宰や芥川や夏目漱石をいっさい読まない文学評論家の発言にはやはりそれなりの重みが感じられないわけです。

いま、最初からそういう人はいるのか、と書いて、ふと思いました。

誰でも最初はプレイヤー?

もしかすると、評論家になる人というのは、最初は評論する側ではなくされる側にいるのでは?ということです。

例えばミュージシャン。若き頃よりスターを目指してバンドでデビューするも、なかなかヒットに恵まれない。事務所との契約もシングル3枚、アルバム1枚出してハイサヨウナラ。それはそれは厳しい世界です。

いまなら宅録で、またtunecoreとかnarasuなどの音楽配信サービスを使って活動を続けることはできます。できますが、それとその道で食えるのはまた別。

と、なるとなんらかの手を使って生活といううすのろを乗り越えていかねばならぬわけ。で、手元にあるのは楽器演奏技術や作曲能力、そしてそれを支える音楽に関する知識。

スタジオミュージシャンやコンポーザーを目指せるならそれもまたよし、なんですが、結局その中でトップを取るのは簡単ではない。ギターなら佐橋さん、ベースなら小原さん、ドラムなら林さんや山木さん…どう考えても難しい。

そんな中にもう一つ、音楽の知識を駆使した評論家という道もあるわけです。しかも仮にもメジャーデビューの経験がある。現場を知っていて、人脈も少しはある。業界ウラ話なども交えれば説得力がそれはそれで違うわけです。プロ同士で鎬を削るスタジオミュージシャンよりもアドバンテージありそう。

そして、こんなことを言うと誤解されるかもしれないけれど、評論家として一定の地位を築けば「先生」という肩書きが手に入らなくもない。それを欲するぐらいはいいだろう?と自問自答するほどには精神的金銭的人生設計的に疲弊しているわけですよ。知らんけど。

もしかするとこういった構図が映画や文学、自動車、ファッションなどあらゆるジャンルで評論家を生みだす土壌となっているのかもしれません。

しかし先生と呼ばれるまでの道のりは

やはりそんなにラクチンなわけないのです。どのような分野の評論にしても発表の場がなければなりません。しかも勝手にネットで書いている水準ではだめで、やはり業界誌や専門誌、あるいは電波媒体などから「依頼」されるようにならねば。

それには地味な活動からはじめないといけないでしょうね。最初は本当に、マニアックな業界誌あるいはWebを使ってでも「俺はここにいるよ!」とアピールしなければなりません。この辺はそのほかの物書きと一緒ですね。

それでコツコツと実績を重ねていく。音楽関係で言えば事務所に頭を下げてアーティストにインタビューを申し込むこともあるでしょう。そこが古巣だったりすると(おい、あいつギタリストじゃなかったっけ…)とか(いやだいやだ、ああはなりたくないよな)といった心ないネガティブトークがどこからともなく聞こえたりして。

だけどめげずにあっちのプロダクションにペコペコ、こっちの出版社にペコペコ。仕事をもらったら全力で、一筆入魂で原稿を仕上げる。

すると締切3日も前に送信したFAXに、ぐっちゃぐちゃに赤が入って戻ってくる。

パンに涙の塩をして食ったことがある人にしかわからない夜をいくつも乗り越えて。

ある日、誰も見向きもしないインディーズバンドを都内の小さなライブハウスで発掘する。

見つけた!こいつら本物だ!はやる気持ちを抑えながら、レビューを書く。ライブについてまわる。うざいおっさんと思われながら、毎回インディー評に肯定的なコメントを書き続ける。

そのバンドが、そう、のちに伝説となる空前絶後のロックスター◎×△なのであった。

彼らがキングオブロックへの階段を一歩ずつ昇るその後ろにはいつも例の元ミュージシャン、いや今では誰もが認める音楽評論家の姿があった。いつしか周囲は彼の名前に「先生」をつけるようになったのである。

  終
制作・著作
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あれ?おっかしいなあ

今回は世の中にこんなジャンルの評論家はいないよねっ!っていうおもしろコラム(ぼくがおもしろいと思うだけですけど)にするつもりだったのに、なんかまじめっぽい話になった。

それはいろいろ調べ物をしているうちに評論家の使命として、批評や評価をすることでその分野の発展や進化に貢献するというものがあると知ったからかもしれません。一定の評価基準に基づいて批評や評価をすることで、作品やプロダクト、サービスのクオリティを向上させる役割も担っているんですね。

そう考えると、世の評論家のみなさんに、ぼくは拍手を贈りたい。やはり職業に貴賎はない。その職業に就く人間に貴賎があるのだ、とおもうんですよね。

引き続きよろしくお願いします。

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