見出し画像

ニューベリー・ブルース

ガンマGTPの値だけ見れば業界トップ営業マンクラス、とビール会社の東日本統括本部長に太鼓判を押されるほど酒飲みの僕だが、人生で2度だけアルコールと縁のない時期がある。

1度目は22歳から25歳の3年間。六本木のスパルタ制作プロダクション勤務時代である。当時は月の2/3は事務所に泊まり込みだったので飲んでる暇があれば家に帰りたかった。

2度目は30歳から32歳ぐらいまでの2年間。ネット求人広告ベンチャーに入社し、疾風怒涛の日々を送っていた頃だ。なんせ1年後には上場するわ、敵はリクルートだわ、社員数は少ないわ、給与は雀の涙だわで酒なんか飲んでいる場合ではなかったのである。

全員が終電ギリギリまで働いていた。当時、上司とふたりで「会社が大きくなってぼくらも年取ったら夕方ぐらいから寿司屋の白木のカウンターで薄いグラスでビール飲みたいですよね」とよく言い合っていたものだ。

しかしその約束はほどなく果たされることになる。あれよあれよという間に会社は大きくなり、僕も上司も懐がそれなりに温かくなった。同時になんとなく偉い人になり(上司は最初から偉い人でしたが)当初ほど毎晩てっぺんまで働かなくても組織が回るようになった。

そうなると、酒である。別に夕方から寿司屋じゃなくてもいいのだ。夜な夜な仕事終わりに杯を重ねることになる。

そんなとき出会った一軒のバー。それが西新宿『ニューベリー』である。

場所は青梅街道沿い。新宿大ガードを中野方面に、新都心歩道橋のたもとに佇む雑居ビルの地下1階。歩道に置かれている電飾看板の脇の階段を降りるとその店はある。

40人ぐらいは入れそうか、外からは想像できないほど広く、天井も高い。まだ昭和の香りがいくぶん残る、落ち着ける雰囲気であった。

最初のきっかけはなんだったか。

酒が飲めるようになったとはいえ、仕事が忙しいことには変わりなく、毎晩23時近くまでは普通に残業していた。それでもずいぶんとラクになったねなんて笑いあっていたのだから何かが麻痺していたのだろう。

そんな時間から飲みに行くわけだから当然、テッペンあたりで閉店してしまう店では物足りない。僕たちの足は次第に深夜営業の店に向かうようになっていった。

そのうちのひとつが『ニューベリー』だった。確か当時は客の入りによっては2時か3時ぐらいまで開いていた。

ニューベリーは生ビールが実に美味く、またフードもこの手の店にしては驚くほど充実していた。いつも酔っ払っているマスターの手による京の料亭仕込みの「瓢亭玉子」は絶品で、ほかにも鶏もも肉の山椒焼きやパスタなどもしっかりと旨い。

僕や上司、また部下たちは毎晩のように通ううちにマスターやママと親しくなり、黙って座れば「いつもの」が出てくるまでになった。

マスターはいつもしたたかに酔っていた。ママはそんなマスターをたしなめつつ、いつも気持ちの良い笑顔で接客していた。いい店だな、としみじみ思った。


ある金曜の深夜、メンバー2人と飲んでいるうちに音楽談義となり、話がはずんでバンドやろうぜ、いまから空いてるスタジオがあれば入ろうぜとなった。しかし深夜の2時過ぎである。こんな時間から入れるスタジオなんてあるのだろうか。

そんな会話を小耳に挟んだママが、方南町にあるスタジオタッツなら空いているはず、と教えてくれた。それだけでなく、その場で電話して問い合わせてくれたのだ。

僕たちは礼を言ってタクシーで方南町に向かい、朝までスタジオで借りた楽器で遊んだ。

この出来事をきっかけに会社のイベントとして音楽フェスを開催することがトントン拍子で決まっていく。西新宿のライブバーを借り切って社内で集めた4バンドほどが出演する、あくまで内輪でのお遊びフェスである。

そんな話をママにしたところ、実は自分たちもバンドをやっているのだが、もしよかったら出演バンドに加えてもらえないだろうか、とやや遠慮気味に言ってきた。

僕は喜んで、と快諾し、ニューベリーのオープン時間に差し障りのないよう出番を一番目に持ってくる約束をした。

果たして酔っ払いのマスター率いるNewbury Brother’s Bandの実力は、というとこれが完全にプロそのものでぶっとんだ。楽器演奏のレベルはもちろんのこと、ママのボーカルがパワフルでアマチュアもいいところの僕たちは圧倒された。

それもそのはず、後日聞いたのだがママのお兄さんは伝説のバンド『シネマ』の一色進さんであったり、ママ自身も過去に劇団に所属していた俳優であったりと、とにかく血筋からバックボーンから、本物だったのである。

そんな感じでニューベリーと僕や僕の周辺の人たちの交流はその後も続いていった。

新人が入社すればニューベリーに連れていき、相談があると言われればニューベリーで聞く。コピーが書けないと悩むメンバーにコピーのなんたるかをニューベリーで語ったかと思うと、今夜もしかしたらイケるかもという女性をニューベリーで口説いたこともあった。

僕のサラリーマン生活はニューベリーを中心に回っていた。家庭のことなど一切顧みない人生の季節であった。


だが、ある夜。
まったく何の心当たりもないのだが。

その夜、ママは猛烈に僕を拒絶した。まさに拒絶という言葉がピッタリだった。もちろん客なので店には入れてくれるし注文には応えてくれる。酒も出してくれる。

ただ表情から、仕草から、言葉の端々から、ママの全身に拒絶の気配が漂っていたのだ。

謎である。本当に心当たりはない。しかし、本当に心当たりがないからこそ、あえてなぜなのか聞かなかった。聞けなかったといったほうがいい。なにか全くの無意識下でとんでもなく無礼で不躾なことをしでかしていたとしたら。それがわかることが怖かったのだ。

僕はそれ以来ニューベリーの扉を開けることはなかった。近づくことすらしなかった。

そうして東日本大震災が起こり、リーマンショックに襲われ、リストラを断行した果てに組織は小さくなった。飲み仲間も一人、ふたりと会社を去っていく。僕も西新宿に別れを告げた。

会社を辞める半年ほど前、あるメンバーが地元の友人とニューベリーに行った、と報告してくれた。彼女によるとマスターは亡くなって、お店のカウンターに遺影が飾られていたと教えてくれた。ママはいくぶん元気がなかった、とも。

僕は会社を辞める前も、そして辞めた後もニューベリーには行かなかった。まるでそんな店がなかったかのように振る舞った。その名前を口にすることすらなかった。


あっという間に10年ほどが過ぎた。

前職で一緒だったタカノからいきなりメッセが届いた。

おひさしぶりです。ニューベリー閉店するみたいですよ。行きませんか。

タカノは社内イベントの音楽フェスにおける中心人物で、その関係からニューベリーにも出入りしていた。僕はニューベリー閉店、という文字を何度も目で追いかけた。そしてその翌週、ひさしぶりに思い出横丁のキクヤで待ち合わせした。

キクヤで再会を祝い、盃を交わすうちに盛り上がってしまい、うっかりニューベリー往訪を忘れかけた。いかんいかん、と気を取り直して青梅街道に向かう。およそ15年ぶりに階段を降り、店の扉を開ける。閉店の日まであとわずかということもあって比較的混み合っていたがカウンターに案内された。

やや小さくなり、額にも頬にも深い皺が刻まれたママは、僕のことはまるで覚えていないようだった。あら!とか、久しぶり!とか、なんで来なくなっちゃったのよ!などと言われたときの返しを用意していた僕は自分の浅はかさに苦笑いする。

静かに、IWハーパーをロックで舐める。

店に行かなくなっておよそ15年。僕の身の回りにいろんなことがあったように、ママにも店にもいろんなことがあったのだろう。

カウンターにマスターの遺影はなかった。

僕とタカノは、どちらもママに昔の話を打ち明けることなく、店を後にした。ふらっと店を訪れた、一見さんのふたり組。きっとママの目にはそう映ったことだろう。

西新宿のバー、ニューベリー。

いちばん賑やかで、華やかで、元気だった時期を過ごした店であった。

いまはもうない。

昔の人はよく言った。
サヨナラだけが人生だ。

その通りかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?