見出し画像

ホンモノの取材

ひとことで取材、といってもいろいろありますよね。たぶん媒体やジャンルによってその内容に違いが生まれるとおもうのですが、ザックリ分けると…

【新聞記者】
事件や事故の関係者、関係先を回り、さまざまな証言を集めてくる。記事の材料を取ってくるという、まさしく「取材」の王道。

【雑誌記者】
雑誌の種類にもよるが取材対象者についてあらかじめアポイントを取って、企画趣旨などを伝えた上で話を聞くことがほとんど。

【週刊文春】
あらかじめ数ヶ月前から入手していた「臭いネタ」を外堀から埋めていき、いよいよ本丸へ「週刊文春ですが」とアポなしで突撃する。

【求人広告】
ベンチャーなら社長、中小以上だと人事にあなたの会社の魅力はなにかと聞く。しかしたいていそれでは人が集まりませんよということになる。

【商品広告】
メーカーの工場や生産ラインに足を運ぶ、商品企画の責任者から話を聞くなど「現場」に行かなければヒットする広告のネタはほぼ拾えない。

【情報番組】
マメにTwitterをチェック。そして撮れ高とれそうな動画を見つけたら番組で使わせてくれと頼む。ダメですというクソリプをもらうまでが取材。

と、まあいろいろあるわけですが…

ぼくは“六本木のアウシュビッツ”との異名をとる広告制作プロダクション時代に『ホンモノの取材』というものを体験することができました。いまかんがえると本当に感謝しかないのですが当時は恨みしかなかったです。

ではホンモノの取材とはいったいどういうものでしょうか。

■ ■ ■

それはある不動産広告の仕事でした。横浜のとてもいい環境に、当時としては大規模な分譲マンションが誕生します。その名も『○○○○ー○○○ヒルズ』…すみません、現存する物件なので、さすがに伏せ字にさせていただきます。最多価額帯が8000万円台、最高額は1億ン千万円という、月給11万円のぼくからは何も想像できない世界線がそこにはありました。

ボスはバブル紳士でしたので、不動産広告の企画になるとやたら笑顔でデカい風呂敷を拡げます。このときも購入希望者には入居申込みの前に一度クラブ会員になってもらい、さまざまな贅を尽くしたパーティ的なものを何度も体験したあげく、厳正な審査を通過した方にのみ購入権が与えられるという目眩のしそうなプランをぶち上げます。

さて問題はここからです。晴れて会員様になった購入候補者に毎月配布する会報を作れ、と指示が降りてきます。

え?ぼくがですか?というとボスはいまここにお前と俺以外に誰かいるのか?と逆質問してきました。誰が自ら望んで日曜日の15時に事務所で仕事するもんですか。一方でボスは修理に出していたベンツの調子を見るためにドライブしていたついでに事務所に寄っただけでした。そこでタイミング悪くウニウニ仕事していたぼくに指令を出したというわけです。

ボスの命令は絶対だったので引き受けるしかありません。そして不動産の会報とはどうやってつくればいいのか尋ねます。

すると驚いたことにボスは「そんなの決まってねえよ」といいます。ぼくは仕方なく「そうですね」と同調し、ではこんなのですか?という企画を30個ほど出すことになります。出したくて出した、あるいは泉のようにアイデアが湧いたわけではなく、要するに出すものすべてがボツでそれが30回繰り返されただけでした。

最終的にボスの出した『よこはま/むかし・いま・みらい』というテーマで紙面を構成することになります。あれ?この企画、16個目ぐらいに俺が出したヤツじゃなかったっけ…とおもうのですがそれはもう黙っていたほうが家にも帰れるし、賢いというものです。

■ ■ ■

そしてここからが恐ろしいのですが、早川お前いまから横浜行って取材してこい、というのです。え?いまからですか?どこにいくんですか?と聞くと「そんなことは向こうで考えるんだよバカヤロウ。とにかく交通に関する横浜の昔と今と未来についての記事が書けるだけのネタを仕入れてこい。仕入れ終わるまで帰ってくるな」とのこと。

何度も繰り返しますがボスの命令は絶対だったので、ぼくはその足でノートとテレコとバカ○ョンカメラをバッグに入れて横浜に向かいます。

インターネットなどない時代。とりあえず関内で降りて、観光案内所や区役所、市役所、横浜市の交通局など当たり先になりそうなところをリストアップ。片っ端から訪問して、手に入る資料や話を聞かせてくれそうな方に声をかけました。

横浜には3日いたことになるのですが、これも驚くことに取材のための経費が一切おりないんですよ。交通費のみ実費精算というのが事務所の掟というか決まりだったのです。

結局、初日は横浜スタジアムのある公園で、二日目は山下公園のベンチで海を眺めながら寝ました。いま考えると関内から当時住んでいた十条まで1時間半ぐらいだし23時過ぎまで終電あったし帰ればいいだけなんですけどね。

何度も繰り返しますが、ボスの命令が絶対だったので「会報が一冊作れるだけのネタを拾ってくるまで帰ってくるな」と言われたらそのとおりにしなければならないのです。

ね、壮絶でしょ?これこそホンモノの取材ですよ。いやお前そんなの戦争に比べれば、といったクソリプが飛んできたら戦争と比べるなこのデコ助といってやりたいです。

そして3日後の夜、結構ボロボロになって事務所に戻ると秘書の女性から「えっ?あんたまさかずっと横浜にいたの?え?どこに泊まってたのよ?ウソ、公園?バカじゃないの爆笑」こりゃ愉快ってかんじで笑われました。

ボスも「えっ?お前帰ってないの?マジで?よっく職質されなかったな~、おつかれ!」と労ってくれているのか珍しがっているのかわからない言葉をかけてくれました。

でも、ぼくのノートにはびっしりと、横浜市における鉄道、道路、海路の歴史や出来事が書かれていました。資料もバッグに入り切らず、横浜市開港記念会館の売店のおばちゃんがくれた紙袋にいっぱい。それらのネタをつかってA3巻三つ折り6ページの紙面はあっという間につくれました。

そして、その仕事はボスから赤がひとつも入らなかった最初の仕事になったのでした。なんかいい話に着地していますが言いたいことはただひとつ。

異常も、日々続くと、正常になる。

BGMは坂本龍一で『Merry Christmas Mr.Lawrence』でした。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?