「成長」というコスり倒された言葉について思うこと
転職サイトを眺めていると、5件に1件、いや営業系募集だと5件中5件ぐらいの割合で「成長」という言葉が出てきます。
ビジネス界隈も「成長」という言葉は大好物。特にベンチャーの起業家、経営者は愛してやまないレベルですよね、成長。
最近ではこの成長に圧倒的というつよつよワードをくっつけて、圧倒的成長という熟語に昇華されるものも散見されます。
今回はこの成長という言葉について、考えてみたいと思います。
まずは言葉の意味を正しく理解することからはじめましょう。
なるほど、せいちょうにはふたつあるんですね!ただ辞書自体が古いので一応ネットでも調べてみました。
育って大きくなる。規模が拡大する。そういう意味でおそらくみなさんも捉えていらっしゃるのでしょうか。なんだか、まだ抽象的な感じが拭えない印象です。
話はいきなり脇道にそれる
ついせんだって、ある会社の社員にインタビューをしていたとき。その方は45歳なんですね。ぼくは53歳なんですけど。その方いわく「45で成長ってなんだか痛いじゃないですか」とおっしゃる。
ぼくは最初(45でもいいんじゃない?なんなら50過ぎても成長したいよ…)と思ったのですが。
「20代ならわかりますよ。でも30代もそのままでいいのか?40代になっても成長?それって成長していないのとイコールなんじゃないの、って」
なるほど確かに、と思ったんですね。
そうだよな、20代のうちは自分のことで精一杯だしそれでいい。でも30、40と年を重ねていくにつれ、自分が成長して得てきたものを後進に譲るとか、分け与える立場になるべきでは。
いつまでも成長じゃ、やっぱりだめ。どこかで成熟に入り、なおかつ分配していかないと。
そこでぼくはその方に「そうですよね、40や50を過ぎたら成長ではなくて、技の鍛錬といったほうがニュアンスとして正しい気がしますよね」と返しました。するとものすごく納得してもらえたんです。
そしていきなり本題に戻る
成長成長とみなさん口にしますが、いったいどんな人たちがヘビーユーザーなのか、ちょっと周りを見回してみました。
・昭和の経営者
・ベンチャー起業家
・意識高い系ビジネスパーソン
・意識高い系学生
・ひさしぶりに甥や姪にあった人
だいたいこんなところでしょうか。上から順に「会社を成長させる」「事業成長を推進する」「成長して同期に差をつける」「ひと足先に社会に出て成長する」「おっ、ちょっと見ないうちに成長したなあ」みたいな。
いい意味の言葉だとは思うんですよ、成長って。ぼくも自然と口をついて出ることありますし。
だけど経営者や起業家は別かと。いつまでもそれしか言えないってのも能がないし、時代的にもトゥーマッチじゃないかと思うんです。新しい資本主義的な時代的に的に。
全然関係ないんですけど
渡辺美奈代さんっていますよね。
彼女、ぼくの一学年下かつ地元が近隣なんですよ。そうなると高校の同級生の中には「俺おな中だった」「俺んち美奈代の家の隣の隣」「こないだ師勝のサンチェーンにおった」みたいなことを言うバカがたくさんいるわけです。ほんと男子高校生ってバカで最高ですよね。
そんな渡辺美奈代さんの数々のヒットソングの中から一曲を選べと言われたら迷うことなくこれを推します。
https://www.youtube.com/watch?v=N-vy52v8H88
コメント欄にある「ハレンチな歌に付き合わされるバックの演奏部隊に心から敬意を表します」に腹を抱えて笑いつつも、いや、それでもプロとして演奏する機会が与えられるだけマシじゃないか…などと真剣に考えたこともありました。
作詞・秋元康、作曲・後藤次利のゴールデンコンビ。ごっつぁんこと後藤次利さんはよく洋楽からパク、いやインスパイアされて作曲なさるのですが、これはエイスワンダーの「ステイ・ウィズ・ミー」が元ネタですね。ちなみに「うしろゆびさされ組」のサビ後のブリッジはキャロルヒッチコックの「ゲットレディ」から大胆にパク、いやスティールしています。
いや、特に意味はなく。トゥーマッチと書いたらふとTOO ADULTを思い出した、というだけの話でした。すみません。
そしてふたたび本題へ
そうそう、何が言いたかったかというと、いわゆるベンチャー起業家が社員採用の際にもれなく使う伝家の宝刀が「成長」なんですけど、そろそろその効能も薄れてきているのではないかしら、ということなんです。
少なくとも本当に効く求人広告を作りたいのであれば、避けるべきワードではないかと。それぐらいコスり倒されてますからね。
で、そのことを伝えて「確かにな…」と肌で理解できないような経営者はちょっとセンスが古いんじゃないかと思うんですよ。
いや成長が悪いと言ってるわけじゃないですよ。
ただ求職者に対するベネフィットがいつまでも成長しかないというのは、くしくも自分の会社が成長していないことの証左であると気づけよな、ってことなんです。
だいたい成長できますよという触れ込みを見て成長したいですと言いながら入社してくる人って続かないんですよね。過去の経験からも。
もうわやくちゃな学園祭前夜みたいなノリで夢中になって仕事に打ち込んで泥んこになりながら、そして何人かの脱落者を屍として踏み越えて、その先に振り返ると「あれ?」と気づいたところに成長はあるのよ。
だからぼくも成長自体は好きなんですけど、それをそのまま打ち出しちゃうのってどうなの…と思っています。
採用対象が20代前半ならまだしも、どう見ても30代後半までウエルカムな通信とか不動産営業募集なのに「圧倒的成長!」って。
もうそろそろ具体的な、その会社における成長を細かく定義した訴求を考えてもバチはあたるまいと思うんですけどねえ。
いよいよ結論のようなもの
そして、このことを思うたびに『資本主義の臨界点』として2021年12月18日の朝日新聞に京都大学名誉教授の佐伯啓思先生が書かれていることが脳裏をよぎります。ハウスマヌカンばりに。
佐伯先生は当稿にて空間、技術、欲望のフロンティアを拡張して成長を生み出してきた「資本主義」は臨界点に近づいている、と論じます。もちろん「分配」と「成長」を実現する「新しい資本主義」も実現困難であると。
ではその問題はどこにあるのか。「資本主義」は間違っているのか。
私たちに突きつけられた問題は資本主義の限界というより、富と自由の無限の拡張を求め続けた近代人の果てしない欲望のほうにある、と締めくくられた本稿。
ぼくはこれを読んだとき、なぜか「成長という病」という言葉を思い浮かべてしまったのです。
人間がいつまでも、あるいは無限に成長を求めるのは強欲ではないのか。もはやそれは病といってもいいのではないか。
そして冒頭に戻るわけです。
そうそう、思い出した
ですから、あれです。求人広告制作時に成長という言葉を使ってはいけないわけではないですが、よく考えて使ったほうがいいんじゃないかなぁと。作り手、送り手がこんな風に思っているってことは、受け手はもうとっくに同じことを感じている可能性が高いですからね。
いつの時代も受け手のほうが感度高いものです。
ちなみに昔、エンジニア募集の時に毎回クライアントから注文を受けていたのが「コミュニケーション能力が高いこと」でした。いまでも多少そういうところありますよね。
ただ、そんな中ある会社だけは「いや、特に求めてないよ」とおっしゃいます。そこでぼくはキャッチコピーをこうしました。
コミュニケーション能力は、いりません。
エンジニアの中にはコミュニケーション至上主義の風潮に嫌悪感を覚えていた方が多かったんでしょうね。知名度もなく規模も小さな受託開発の会社でしたが3桁近くの応募が集まったとさ。
こういうことです。
成長。すっかりコスりたおされている=摩擦係数ゼロな言葉ですから、使うなら具体的にかみ砕いてつかったほうが効果的だと思います。
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