緑色の天使は振り向いてアタタカイと言った

データ移行が完了しましたので全編をお楽しみください。(2022.3.18)

昔の作品です。
原稿用紙からデータに起こす作業のまだ途中です。前編とみなしてください。後日、ゆっくりと後半のデータ起こしします。お楽しみに!(2021)




緑色の天使は

振り向いて

アタタカイと言った

 現実から一歩浮いた、どこかを区切る細い一本の線の上に、私はいる。
いつもいつも、私は自分がどこにいるのか、はっきりと説明することができない。

 17歳。夏。ようやく始まった夏休みに、私は、特別な喜びなど感じられなかった。
 1学期の最終日。ぼんやりと登校して、取ってつけた様なぱさついた終業式を終え、ぼんやりと下校する。
 現存する私は、生臭いこの世から、魂を抜き取った。だから、現存しているのはあの終業式と同じ、取ってつけてぱさついた、私のぎりぎりの表面だけで、けれどもそれも、日に日に内部を侵してくるから、そのうち胃も腎臓もそれから心臓も骨さえも、風化してしまうのだろう。別に構わないけれど。
 そもそも私は人などではなくて、例えば鳥だったら、それでも今ここにいるのだろうか。私は鳥で、この庭に撒かれた米粒を有り難気もなしにつついて、それからどこへ飛んで行こう。ああ、カラスが来た。3羽揃って。逃げなくてはいけない。真ん中のカラスは王冠を付けている。とんがりが3つあって、真ん中にひし形のダイヤが埋め込まれている。あのダイヤは、私の物だったのに。私が王妃だった頃に、庭師からこっそり譲り受けた物なのに。庭師はとうとう死んでしまって、それで餌を貰えなくなった私は、こんな所で米粒ばかりつついている。あのダイヤのカラス、いつか殺してやる。お陰で私はいつもヒトリボッチじゃない。私のドレスは、あんなしつこい成り金趣味じゃないでしょ。木綿のさっぱりした、特にそう、ここ、この裾の、ささやかなフリルが素敵でしょう。スモックを少し長くしたような、私はこれが好き。真っ白で。魔女はこうでなくちゃね。お婆さんから教わった、あの魔法を使ってみなくっちゃ。

 後頭部に埋め込まれた糸の先を、一瞬強く引っ張られる感覚を覚えた。姉が私を呼んでいる。
 「しっかりしなさいよ。」
 「ほぁ・・・・・。」返事をした。
 「しっかりしなさいよ、ほらあっ。」
 姉の移した目線を辿ると、私の髪の辺りだった。姉はため息を一つ吐いた。さらにその目線を辿ると、冷めたミルクティーの入ったカップに、どっぷりと浸かった、私の髪の毛先があった。
 「あ・・・・・・。」
 ずるりと引き上げる。ポタリポタリと泥色の雫が落ちた。
 振り返ると姉は既にどこかへ行ってしまっていた。1つしか違わないのに、姉どころかまるで小姑だ。姉があんなになったのは、母が入院してからだ。

 「お母さん、早く元気になってちょうだい。この子、どんどんふぬけになって行くのよ。今日だって、眠っているのか起きているのか、虚ろになってね、酔っ払っているみたいよ。」
 母は髪を結い直すと、姉にこう言った。
 「恥ずかしいから、あの子連れて来ないでちょうだい。」

 私はにこやかに病室を引き返した。母に会えて嬉しかった。
 
 病院と家との距離はバスで20分。今日は夕暮れが美しいので、歩いて帰ることにした。私は幸せ。幸せ者よ。
 遊歩道に植えてあるイチョウの木の根元に1匹のカエルがいた。
 「あなたには、王冠はないの?」
 「王様になれなかったのね。」
 イチョウの、まだ青い葉をむしってカエルの頭に乗せてやろうとしたが、カエルは怯えたように逃げて行った。私は笑った。
 おかしいね、おもしろいね、世の中って、おかしいことだらけなのね。
 私は、自分の頭に手をやり、王冠がちゃんと乗っかっているか確かめた。あれ、ない! ないよ!きっとどこかで落としたんだ。
 私は来た道を引き返した。石の1つ1つの裏までも丹念に観た。なかった。私の王冠は、なかった。  

「こんなに遅くまで何してるの!」
 姉が怒鳴った。
 昔は優しくて、お人形のミッシェルも貸してくれたのに。そうか、王冠は、ミッシェルがもって行ったな。いたずら娘なんだから。 「お姉ちゃん、ミッシェルは?」
 「いい加減にしなさい。もう子どもじゃないんだから・・・・・フラフラして、本当に。」
 姉の汚い声に、大切な、なんだか懐かしい何かが、かき消された。
 ハトになっちゃえばいいのに。

  図書館へ来た。けれどここには、鳥もカラスも米粒も、庭師も王冠も王妃もいなくて、カエルもミッシェルも、ハトもいなかった。 私。ただの私一人がいた。図書館はただの箱で、ここに来ているあれら人間も、表面だけの物。そこに私だけがいる。引っ越し用の大きな段ボール箱にポツンと忘れられた、一粒のチョコレートを連想した。溶けちゃうよ。なくなっちゃうよ。
 
 出掛けに姉が、
 「今日は特に変よ、あんた。」
 と、言った。
 そうだろうか。
 
 図書館の入り口付近には、草がぼおぼおと茂っていて、むさ苦しかった。この暑さにも参る。暑い、と言うよりは痛いのだ。それなのに汗も出ない。やはり侵食されつつある証しなのだ。喰われる。
 入り口を通るとすぐにカウンターがあって、職員が一人だるそうに座っている。
 (しっかりしてよ)
 私は苛立ち、心の内でその職員の肩をゆさぶった。と、我に返ったように、絶妙なタイミングでこちらを向いた職員は、私に向いてありきたりな会釈をした。汚い、見ないで。そう念じつつも、うっかり会釈を返してしまった。
 児童書コーナーの書架にもたれて絵本をめくる。大して面白くもなさそうだ。冷たい線で描かれた下らない絵。今、何ページ目なのだろう。
 
 「それ、いいよね。」
 珍しく清潔な声を耳にした。何と声を掛けられたのかなどとは、考え起こす必要すら感じず、内耳に残る、消毒のようなその音の感触だけを確認した。
 顔を上げると不細工な少年が立っていた。その顔は、この場にも君のその声にも不似合いよ。そう、思った。
 キッとにらんだ。が、お構いなしと言った様子で、むしろ何も僕は見ていないと言った様子で、少年はこう言った。
 「最後に、ミッシェルが王冠を取り戻す所って・・・・・」
 数年ぶりに目を覚ましたような錯覚に襲われた。心の中が眩しくてくらんだ。とても凝視できず、けれどそれはあまりにも、温かかった。
 そのまま独語の様に、一人で話を続ける少年の声を私の表面が断絶し、この固有名詞だけが残った。
 「ミッシェル」
 慌ててページをめくる。ミッシェル。人形のミッシェルが、旅の途中の鳥と一緒に何かを追っている。
 怖くなって、本を閉じた。
 私は何も言わず本を胸に抱えたまま、ただただ遠くを眺め、自分でも知り得ない何かをこらえた。その先には窓があったかもしれないし、ただの壁だったかもしれない、郷土出版コーナーだったかもしれない。本能的に、そこにあった何かを認識することを拒んだ。ただただ、意識の中で遠く遠くを眺めていたかった。そしてそれは、恐らく過去でも未来でもなく、この現実の裏側だったのかもしれない。
 「何で無視するの?」
 少年に問われた。
 「別に。」
 面識のない不細工な少年の存在は、私を一層不快にさせた。
 「この前の、ほら、終業式。あの後、大丈夫だったの?」
 このおかしい少年は、一体自分が何を言っているのか、解ってなどいないのだろう。ばかな奴。
 「なにが!」
 突っ掛かるように、私は呟いた。
 「だって、途中で倒れちゃうんだもん。」
 私は、つい眉間に皺を寄せ、右手の人差し指で自分のこめかみ辺りを指さし、少年に鋭く言葉を放った。
 「大丈夫?」
 「もしかして覚えてないの?倒れたって聞いて、女子たちが君のカバンを届けに保健室まで行ったのに、もぬけの殻だったって。何で勝手に帰ったりするんだよ。先生慌ててたぞ。」
 私は少年に、あからさまな蔑視を突き付け、側を離れようとした。と、その時見てしまった。あれがついている。少年のシャツの胸ポケットに、王冠に似たピンバッジが。
 「え?」
 「カバンは、あの三人の誰かが届けるって言ってたけど、誰か君の家へ行ったろう?」
 コノヒトがナニヲをハナシテイルノかリカイデキナイ
 少年は首をかしげて、去って行った。
 ワタシハ ワタシナノカ ワカラナイ ワカラナイ ワカラナイ コワイコワイコワイ・・・・・


 気づくと、もう夕方になりかけていて、私は図書館の出口に立ちつくしていた。
 ふと顔を上げると、さっきの少年が外壁にもたれているのが見えた。
 閃光の様な頭痛が走った。
 「いやぁっ!」
 唐突で爆発的な不安感に駆られた私は、咄嗟に少年に駆け寄った。崩れるように地べたに座り込み、少年の擦れたスニーカーの甲を、両手の平でわし掴んで前のめりになったまま咽び、そして、いつの間にか少年の両足首からふくらはぎの辺りにしがみついていた。額に当たる靴紐の結び目。その靴紐の柄が次第に濃く染まり行く様に見えたのは、錯覚ではなく私の涙による現象だったとは、気がつけなかった。
 そうしているうち、少年はしゃがみ込む姿勢で私に対面していた。手に持った、紺色と水色のチェックのハンカチにはアイロンなどかかってなく、少年はそれを私に差し出す訳でも、この涙を拭う訳でもなしに、ただそうして手に持っていた。
「おつきさまのクレーター」
 少年が呟いた。
 私はこの図書館の壁に埋め込まれた、[定礎]の様に身動きひとつ取れずにいた。
ゆっくりとゆっくりと、やはり独語の様に、少年はこの薄汚い空虚に、なにやら言葉を漂わせ始めた。
 「おつきさまのクレーター」
 うん、と私はしょっぱい液体を飲み込むように、うなづいた。
 「カチンコチンの
  ちいさなつきに
  とじこもって
  でてこないあなたを
  身を削って
  まちつづけている
  ぴったりサイズの
  回復べっど・・・・」
 漂った少年の独語が、この空虚を消毒し清潔さを取り戻させた事と、彼はコトバを持つ者なのだという事実を私に悟らせた。
 「コトバって、心?」
 洗浄された私の体内。そこから排出された、率直な質問だった。
 「知らねぇー。」
 突如少年は笑いだし、まるで先とは別人の様なフツウの男の子に姿を変えた。変身したんだ。少し悲しかった。物語りの主人公と同じ。人も物も世の中も、変身する。世間はそれを成長だとか、そして都合が悪ければ、落ちぶれただのと言う。ただの変身じゃないか。小さな童話はまやかしなどでは決してなかったじゃない。
 昔、散々母から聞かされた、その手の美しい物語。散々私をときめかせ、散々私を心地よくさせ、そして散々私を信じさせた揚げ句、小学校へ上がったころには、友達の誰も、もう信じてなどいなかった。作り話でしかない、そう、サンタクロースとトナカイのように、皆が皆、揃いも揃って、否定した。教師までも。そして、いるんだから!と躍起になって肯定し続けた私は、ただただ白い目で見られた。教師までも。夢想家、妄想癖、何を言われたっていい。けれど、もし人間に想像力と創造力がなかったら、現在はあるのか?それが隅へ隅へ追いやられる今日の現象の数々、証拠は歴然としているではないか、現にこうして地球は蝕まれているし、私は表面だけの物になった。建物はただの容れ物でしかないし、鳥は誰からも尊敬されなくなった。飛行機で自由に空を行き来できる人間は、鳥に憧れを抱かなくなった。けれどそもそも、人間が鳥に憧れなくなったのは、飛行が可能になったからで、飛行を可能に導く過程には、大いに人間たちの、憧れ、想像力そして創造力があったからなのに。地球の怪我や病気も、言わば人間の、効き目の強い薬の様な想像力と創造力の副作用みたいなものなのに。それらソウゾウリョクがもし、薬湯の様にしんみりと心身を浸せる和ましいものであったなら、善かったのかもしれないね。
 「どうしたの、散々泣いたかと思ったら、今度は一点を見つめて・・・・・。」
 少年の声に我に返った私は、その言葉が引っ掛かり、自分がどこを見つめているのかと知りたくなり、動いてはいけないという己の声を一瞬聞いた。私は、乱れて顔にかかった後ろ髪のすきまから、少年のシャツの胸ポケットを見つめていた。王冠がもごりと動いた。 「あ、これ気づいた?」
 いたずら気に幼い表情で、少年はそこから何かを取り出した。
 初対面で不細工と思ったこの顔が、先と違って見えた。肌は薄く日焼けしていて吹き出物の一つもない。顔の作りとしては決して美男とは言えないが、眉は整っているし、目が異常に美しかった。そして、顔全体も、差し出す手も、よれたシャツもハンカチも、清潔さを帯びていた。 
 少年は、いつの間にか外壁に寄りかかって座り、両足を投げ出していた。
 私は丁度その足の間に膝を抱えぺたりとしゃがみこむ姿勢を取っていた。
いかにも大切そうに、まるで、そう、王冠でも包み込んだような、丸まった両手の中には何があるのだろう、懐かしいときめきに、私は素直にときめく術を忘れていた事を思い知らされた。
 「ほら。」
 それは雨ガエルだった。ゼラチンの様な不自然な艶々しい、ありきたりなカエルだった。 「嫌だ。カエル臭い。」
 王冠の一件から、カエルから拒絶させている自分に劣等感が芽生えていた。私は後ずさった。
 「そう?臭い・・・・・かなぁ?」
 人間臭いよりは、よほどいい匂い。ほっとする、温かい懐かしい匂い。保育所のスモック。極自然に保育室を包んでいたあの匂いと比較できない程、本当は懐かしくて温かくて、私の胸を打った。
 少年は苦々しく一応の笑いを浮かべた。
 少々申し訳なくなったのと、下らない未完成なプライドのせいで自分を情けなくした劣等感に戸惑っているうちに、あの言葉を思い出した。
(大丈夫。大丈夫。私は自分を見失わない。)
それは幼い頃に、祖母から教えられた言葉で、当時は[見失う]事の意味すら知らなかった私だけれど、「ドキドキしたり怖かったり、迷うような時に、声にしなくていいから自分に言うんだよ。そうするといいからね。」何がイイのか解らないけれど、「いいからね。」の、祖母の顔はとても優しく、「いいんだ!」そう、思えた。
 「どうしたの?」
 少年の声に再び我に返る。
 「あの、あのね・・・・・さっき、ええと、あなたは誰ですか。どうして私の事を知っているような言い方をしたんですか。」
 少年は眉間に皺を寄せて、とても驚いた顔をした。
 「なに言ってるんだよ。同じクラスなのに、そんなに俺のこと嫌いなら、最初からそう言えばいいじゃないか。」
 
 言葉をとてもじゃない、探せなかった私は、 「カエル臭いんだもん。」
 そう言って無理に笑い立ち上がり、その場から逃げる様に唇の端を引きつらせたまま交差点を走り抜け、車にクラクションを鳴らされ、犬を連れた中年のおじさんの肩にぶつかって、リストラかな、などとは想像する余裕もなくただただそこを突っ切った。体が止まらない。怖くて、走るのを止められなかった。止まってしまったらひどく恐ろしい現実を見てしまう気がしたから。ジャングルジムで泣きじゃくる子どもをうるさいと感じる余裕も、踏んでしまった犬のフンが先の散歩犬のものなのか思慮する能力も欠いたまま、がむしゃらに走りに走り、ようやく家にたどり着いた。靴も揃えず乱れた呼吸のまま自分の部屋へ走り、ようやくそこがゴール地点であるかのように思えた。しかし一体、何の?
 私は妙な殺気を帯びたまま、春に撮ったクラス写真の入っているはずの、写真入れに使っているチョコレートの空き箱を探し、蓋を開けた。乱暴に扱ったものだから、蓋が開くと同時に中身のそれぞれがひらりと舞いながら、そして一部はかたまってバサリと、床に散乱した。クラス写真。思い思いに迸るままそれらをかき乱し探してみても、探すものは見当たらなかった。
 「嘘つき!」
 私の怒りは頂点に達し、しかし、それは気味悪い程冷静な、落ち着いた感情だった。
 感情に任せ、手にもった蓋をばんばんと床に叩きつけた。 
 こんな風に、いわゆる「感情的」になった、この、感覚はいつ振りだろう。それが妙に私を悦ばせた。
 蓋は破れて壊れてしまった。それに自分を見た私は、今度は容れ物であった箱そのものを床にぶつけた。中身などなくなって、その箱が嫌に情けなく見えた。叩きつける度に、その角の染色は剥がれて本来の色を露出する。 しばらくそうしていたら、四辺は既に離れ合い、数学の図形で習った展開図のようになることが予測でき、物体とは言え、解剖している自分におののいて、いったん手を休めた。と、箱の奥にふと目をやったその時、底の糊の剥がれた厚紙に引っ掛かっている一枚があった。むしるように引き剥がすとそれは、糊の付着でたった今剥がされた、白い右上角に傷を持った例のクラス写真だった。再び得も言われない不安感に苛まれた私は、先の少年の顔を忘れてしまわぬうちにと、必死になってそれを探した。
 腐ったマネキンのように陳列されたクラスメイトを、指で辿りながらあの少年を探す。 チガウ、チガウ、チガウ・・・・・
 ワスレてシマワヌウチに・・・・・ナイ、ナイ、ナイ、ナイ!
 焦る。右手の人差し指で、まるで定規を当てるように慎重に順々に辿る。
 あった!2列目の右から二番目。この少年だ。
 え?
 同じクラス?
 知らない。私はこの少年を知らない。
 どうして、私、知らないの? 写真はここに確かにあるのに。私のクラスだから、私、持ってるのに、何故・・・・・べそをかいていた。しかし、知らないのはカエルの少年だけではなかった。右から三番目も四番目も、一列目も三列目も、つまりは全員覚えがないのだ。そして自分自身が四列目の右端に映っていたことさえ、気がつけなかった。

 つまり、到底思い出せるはずもなかったのだ、あの夏の事など。

 「全員速やかにホールへ移動するように。いつも言っている事だが、このクラスはどうも落ち着きがない。終業式なんだから、私語は謹み極力おとなしくするように。」
 ホームルームが終わり、チャイムが鳴った。 この三十分で、教室からは校舎の中で一番遠いホールに移動するのは大仕事だ。私たちいつもの仲良し四人組で教室を出ようとしたその時、あの子は言った。
 「ねえ、トイレ寄ってく!」
 もれなく私含め三人は同行するのは当然自然の事で、
 「りょおーかーい!」
 そう言って連なり、教室の前の廊下を突き当たった所にある陰気臭いトイレへと向かった。
 ガラガラと、立て付けの悪い引き戸を開け中に入るとすぐ、皆そろって化粧品を出し、素顔とさして変わらない化粧顔を補正し始めた。
 「私も入っとこっ。」
 私は、個別に4つ並んだその一番奥の戸を開けた。誰の返事も無かった。
 「待っててよぉー!」
 水を流しながら念を押す。ささやき合う声が聞こえた。用を足しながら感じた胸騒ぎ。手早く下着を戻し水を流しながら戸に手をかけた。あれ。開かない。鍵は開けたのに。何度押しても無駄だった。しかしおふざけなどやっている時間はないのだ、もう、終業式が始まっちゃう。
 「ねぇ、遅れちゃうよっ。あーけーろぉー!」
 笑って私は訴えた。
 戸の向こうで、ショッキングピンクのような大爆笑が聞こえた。その様子に、私は悟らざるを得なかった。今ここで私に与えられた状況を。まさか。まさかだと信じたかったけれど。
 ドンドンと戸を叩く。
 「開けてよお。」
 懇願する。 
ドンドンと戸を叩く。
 突然に笑い声は止んで静まり返った。
 なあんだ、ああ、心配して損した。
 「焦ったぁー。マジびびったァ。」
 再び笑って戸を押すと、今度はすんなり開いた。しかしそこで真っ先に目に飛び込んで来たものは、友のいたずらな笑顔などではなく、薄汚れたモップの毛先だった。何が何だか解らないが、それは死んだネズミのしっぽを前髪に垂らしたように、私の顔にベットリと張り付いた。
 (そうなんだ)
 妙に納得できて且つ冷静な自分があった。 事を把握し、無抵抗という抵抗の手段を選んだ。
 (そうだったんだ)
 心のどこかで、やっぱり、とも思った。
 散々に罵声を浴びせられ個室から引っ張り出され、蹴られた。モップの先で腹を思い切り突かれ、思わずうずくまる。
 「何とか言えよ!」
 黙ったままの私に腹を立てる三人。
 突かれた腹の一瞬の鈍痛に唸った。後にも先にも、声を出した、いや、出せたのはこの一度きりだった。
 私は不衛生な古いタイルに手をついて、四つ這いになっていた。
 制服の黒が、より深い恐怖を、私に植え付ける。
 迫る三体の黒い塊は、私に色々なことをしたけれど、その私は次第に、テレビでも見ているような、全くの傍観者になっていた。
 痛くもかゆくもない。髪を掴まれた拍子に見えた、クモの巣の張った小さな窓から、青い空と入道雲が見えた。きれいだな。もう夏だものね。
 きれいだ・・・・・キラキラしていて。  電線に止まっている一羽のスズメが見えた。 でもこの窓は半分だ。もう半分は用具入れの壁に隠れちゃってる。右半分の小さな汚い窓だ、だけどその奥にはこんなにも美しいものがある。ピカピカしている。なにもかもが輝いて見えた。
 
 まだ終わらないのかなあ。かわいそうに、この子血が出てるじゃない。一番背の高いカラスは、火の付いた何かを・・・・・ひどいことするのね、この子の腕にほら、丸いやけどができちゃって。でも、泣かないんだわ、この子、強いのね。
私はまるで幽体離脱でもして、天井から見下ろしているに違いなかった。本当は、本当にそうだったかも知れない。
 制服はむしり剥がされて靴も靴下も、引き裂くように剥がされて、少女は裸になっていた。
 衣服は全て、例の汚い窓から投げ捨てられた。
 そうよね、その窓の下ならね。天井からその光景を見ていた私は納得した。
 チャイムが鳴った。
 「やばいよ、行かないと。」
 その声だけは確実に聞き取れた。
 少女はずるずると引きずられて、用具入れに押し込められた。黒い三人は戸を閉めようとしたが、少女の足先がまだはみ出したままだったものだから、それを汚物でも触るように、一番背の高い黒がつま先で押し込んだ。戸は閉められた。
 やっと終わった。少女は安堵した。

 今日もお母さん、ドーナツ作ってくれるかな。お遊戯会。お遊戯会で、村のお婆さんの役なんて嫌よ。お姫様の役が良かったのに。お婆さんの衣装、かわいくないんだもの。私も、ああいうのが良い。ぴらぴらのスカートのがいい。
 「おかあさーん・・・・・園長先生に言ってよぉー!」
 
 幼い少女は号泣していた。
 
ジャングルジムの鉄が錆びているから、私のおてて、黒くなっちゃうのよ。
 金魚はどこにいくのかな。うろこは逆さまになっちゃうのかな、だってさ、お月様が泣いちゃうよ、うさぎさん。

垂れ下がった無数の、配列された死んだネズミのしっぽの先に指をからませ、もてあそびながら、少女はうわごとを言った。時には鼻歌を歌った。
 
 暗い暗い用具入れの中。
 子どもの頃、押し入れに入って遊んだよね。 でも今日はちっとも、わくわくしない。
 黒ずんだ景色は見えているものの、写真より距離の離れた、パステル画か何かを見ている様だった。そして、それでいて私は眠っているに違いなかった。流れる流れる、時。
 そうしている途中、恐らく夜中近くに、大人たちの緊迫した声が聞こえて、ひどく懐かしい名前を呼んで、その声や音は近づいて、立て付けの悪いトイレの戸に文句を言い、戸を開けた。
 天井がぼうっと明るくなった。
 昔お祭りで、お化け屋敷があったけれど、怖くて私は入りたくなかった。だけど、「どうしても」って皆に引っ張られて、インチキお化けの背後をひっそりと照らした明かりに、これは似ている。
 大人の声がして、もう一度懐かしい名を呼んで、また帰って行った。
 私はここにいるけれど、あの大人たちが何を探しているのか解らなかったから、協力できなかったんだ。
 物の名前なのか、犬の名前なのか、ましてや人の名前なのかも解らなかったし、どうせ私は足手まといになってしまう。どうせどうせ、私は何も役に立てない。どう頑張ってみても、誰の役にも立てない、そういう子なんだもの。
 声を出したらきっと、叱られる。

「おつきさまのクレーター」
 うん、と私はしょっぱい液体を飲み込むように、うなづいた。
 「カチンコチンの
  ちいさなつきに
  とじこもって
  でてこないあなたを
  身を削って
  まちつづけている
  ぴったりサイズの
  回復べっど・・・・」
 少年の独語を回想していた。
どういう意味なんだろう。何の気無しに呟いた即興のコトバだったとしても、未だこうして、私の胸を刺す。なぜだろう。
 例えばビー玉ほどの小さな球体に、そう、正にカチンコチンの湾曲した頑丈な壁を私が作って、そしてその中に閉じこもって・・・・・そう、怖くてとてもここから出られない。ビー玉から出る勇気のない私。月、クレーター。クレータって穴、みたいなものなのよね。お月様、ケガしているのかしら。けれど、ビー玉の私がぴったり収まる、そう、クレータとビー玉が同じサイズだったら、オーダーメイドしたような、私ぴったりのサイズだったら、そして、お月様がこんな私を、ビー玉に入ったままの私でも待っていてくれるのなら、なんだかそこへ行って、その窪みに収まって、眠りたい気がする。
 もう、カエルの少年が誰だっていい。
 もう一度会ってみたいと思った。
 (大丈夫。私は自分を見失わない。)

 図書館へ行った。あの日と同じように児童書の書架にもたれて、適当な本をぱらぱらとめくった。
 「やあ、ひさしぶり。一週間も経つね。」 どうして、こうしているとこの少年は現れるのだろう。
 「待ってたの。もう一度あなたに会いたくて。それからね、話がしたいんだけど、いいかしら。」
 私たちは書架を背に、フロアの角の休憩スペースへと移動した。
 丸テーブルに荷物を置いて、それぞれプラスチックの脆そうなイスに腰掛けた。
 「この前は、本当にごめんなさい。私ね、家に帰ってクラス写真を調べたの。そしてあなたを見つけた。けれど、他の誰も解らなかった。」
 「そうか。」
 少年は、目線をそらし、窓の外を見つめた。 「お願い。私、自分の事がさっぱり解らないの。あなた、知っているんでしょう、お願い、教えて!」
 「うん・・・・・。」
 二人はうつむいたまま数分を過ごした。
 「これ。」
 少年は小さな光るものをコツンとテーブルに置いた。王冠のピンバッジだった。
 私は息を飲んだ。
 「僕らの時の校章。」
 「僕らの、時?」
 「今の校章はこれ。」
 少年はもう一つ同じような物をコツンと置いた。まだ新鮮な輝きを持つそれは、[僕らの時]のそれとは少し違った。若草色の縁取りが施されていた。
 「・・・・・なに?一体、何なの?」
 常識的でない事態である事を察した私がやっとの思いで出せたその声は、震えてひどく掠れていた。
 「君は幾つだ?」
 「じゅう・・・なな。」
 「違うんだ。」
 「・・・・・。」
 「僕らはもう27歳なんだよ!」
 突如少年は立ち上がり、怒鳴り、テーブルに強く手をついた。るると涙を流していた。 唖然とした私の頭の中は、ぐるりぐるりと回り、壊れたメリーゴーランドに乗ったような錯覚に、一種の恐怖と、気味悪いときめきを感じた。そしていやに冷静になった。
 「そうなんだ。私、27歳だったんだ。」 「なんで笑ってるんだよ、お前平気なのかよ」
 半ば八つ当たり的に、少年は私に乱暴な言葉を浴びせた。
 「何歳でもいいから、私、7歳でも15歳でも30歳でもいいわ。」
 「なんでだよ!」
 「解らない。なんでかしら。」
 「なんで笑ってるんだよ、なんで落ち着いてんだよ!」
 「座れば?とりあえず。」
 少年は呼吸を抑えて、ああ、と言って再び座った。
 「あのな、この一週間、何があったかと言うと、まず、俺は毎日君を探しにここへ来ていた。それは、俺とお前が同じだって解ったからだ。」
 「ふうん。」
 「あのな、俺、高校性じゃなかった。」
 少年はため息を吐いて、そして両肘をテーブルにつくと両手でもたれた頭を抱えた。
 「同窓会の招待状みたいなやつが届いた。何がなんだか解らなくて俺、間違いだと思った。でも、名簿は確かに合っているし、結婚したやつは旧姓ってかいてあって、それから連絡先も、名簿についてた生年月日も合ってた。俺、夏休み前まで高校通ってたし、まして卒業なんてした覚えなんかなくて、でも、カレンダーも新聞も、10年違ってた。これは、どういうことだ? 先週お前に会ってから、何かこうクルクルと頭ん中が回って、本当に俺吐いたんだ。すごいめまいがして。で、気づいたら、自分の部屋のベッドに寝てたんだけど、目が覚めたらさ、弟が、弟が成長してんだよ。小学生だった弟が、大人みたいにでかくなってんだよ、で、俺に、兄ちゃん大丈夫かって、聞くんだよ!どういうことなんだ?」
 「時空を旅してたとか。」
 笑って私が言うと、少年は苦笑して、つられて私も苦笑した。だって、他にどうしろって言うのよ。笑うしかないじゃない。私が理解できたのはただ、[普通]じゃないんだなぁ、それだけだった。けれど、それで十分だった。
 「でな、弟が俺らの高校に通ってたらしいんだよ。弟が言ってたんだけど、昔、女生徒がいじめられて、トイレに閉じ込められて一週間後に裸で見つかったんだって。脱水症状とかひどくて、で、そこの窓のすぐ下の空き地は、中庭の死角になっていて、皆ふざけてゴミやら何やらタバコやら、投げ捨てていたらしい。その女子トイレからしか投げられない場所らしいんだ。で、その女生徒がどうして見つかったかって言うと、用務員のおじいさんが、夏休みだって事で手入れや修理をしようとして、普段は入らない、そんな所にまで入ったんだって。そしたら、制服やら捨てられてて、ちょうど終業式に一人行方不明になっていたし、探しても見つからなくて、で、誘拐か、なんて話になった。でも、用務員が見つけた制服はまだ新しい感じがして、もしやってそのおじいさんが閃いたんだって、ここに投げ捨てることのできる場所は一つしかないって。で、人を集めてその女生徒を発見した。そんな噂があるって。それでな、その女生徒っていうのはね、あなたなんだよ。」
 少年の話が濃くて、消化できない。
 (大丈夫。私は自分を見失わない。)
 「それで・・・・・。」
 一層声をひそめて少年は続けた。
 「その用務員ていうのは、俺のじいさんなんだ。今あの高校では根も葉も無い噂として伝わっているけれど、弟は知ってる。弟は、自分の知っている事実を話したらヤラレルって思って、誰にも言っていなかったんだ。で、俺を傷つけまいと、そんな噂ができあがったことすら、兄である俺にさえ、一切言わなかった。情けないよな。俺はこの10年、何をしていたんだろう。」
 
 私たちは言葉を失ったまま、図書館を後にした。しばらく歩くとイチョウの木の根元に一匹のカエルがいた。
 私たちは笑った。二人でしゃがみこんで、そのカエルと遊んだ。やっぱりカエルは私にはなかなか、なついてはくれず、少年の手のひらでばかり遊んだ。
 「ほら。」
 少年からカエルを手渡された。暑い夏の空よりも温かな、生き物故の温もりが確かに伝わった。私がもし、本当にここに生きているならば、このカエルも、私の生き物故の温もりを感じ取ってくれるのかな。
 カエルと遊んでいる間に、少年はさっきのピンバッジを取り出して、ピンの先を折った。 「危ないからね。」
 [私たちの時]のピンバッジだった。
 「何をするの?」
 少年は笑って、
 「こうするの。」
 と言って、カエルの頭にピンのとれた王冠を乗せた。カエルは頭にそれを乗せたまま、イチョウの木の根元に戻って行った。

 久しぶりに、母の入院している病院へ寄った。エレベーターで六階に向かう。
 「お母さん、来たよ。久しぶりだね。」
 母は髪をとかしていた。
 「何言ってるの、本当にあなたは、冗談ばっかり言って。毎日来てくれているじゃないの。でもあなたの明るさに、お母さん救われてるのよ。母一人娘一人で、それなのにお母さんこんなになっちゃって。あなたには苦労ばかりさせて、もう十年も経つとは言え、ひどい目にあわされたのに、あなたって子は・・・・・美月、本当にありがとうね。」
 母が涙を流した。

 

 
 


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