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新井白石 『古史通』 読法4 聖徳太子は、聖人であっても、すべてを知ってじゅうぶんに表現することはできない

上の写真、ご存知の方はわかると思いますが、山梨県の大月から河口湖までを走る富士急行の駅の一つです。現代日本の公共で使われている文字の多様性には驚きます。

本日もよろしくお願いします。

上宮太子(聖徳太子)が『旧事本紀』を選んで進上された時代になって、たとえば中国の人が、梵語を解釈して記すのに漢字を用いたのと同じように、
その字の意味を取って表し、漢字の字音にはよらなかったのである。 
だから、その文字を読むさいには、字音によらないで、わが国の言語にしたがったのである。
こうして、倭訓(日本ふうの読み方)ということも生じてきたのだと思われる。 (日本の名著 新井白石 p253-p254)

聖徳太子が『(先代)旧事本紀』を選んで進上された時代(西暦620年)になって、例えば、中国人が古代インドのサンスクリットを解釈して記すのに漢字を用いたのと同じように[漢訳仏典]、(日本語・大和言葉)を記す場合には、漢字の意味に基づいて表し、漢字の音には頼らなかった。だから、その(漢字で書かれた日本語・大和言葉)文字を読むさいには、漢字の音ではなく、その意味に対応する我が国固有の言語にしたがって読んだ。こうして、倭訓(「山」を「やま」、「人」を「ひと」と読む類、日本風の読み方)ということも生じてきたのだと思われる。 

だが、わが国の歌詞には、その声調と句律がたがいに通じないところがある。
(日本の名著 新井白石 p254)

”しかし、わが国の歌詞(和歌)には、歌を発声するときの音調と句律(漢詩の形式、五言絶句の「絶句」や七言律詩の「律詩」をさすものか?)が共通しないところがある。” 

私は、和歌や漢詩に対する知識が貧弱なので、この文の意味を色々と調べてみましたが、腑に落ちる答えを得ることができませんでした。しかし、文脈から察すると、漢字の音(当時の中国発音)ではなく意味に基づいて日本語を記す方法を考え出したが、その方法で和歌を記そうとした場合にうまくいかなかった。

そこでたとえば、梵土(インド)の陀羅尼(呪文)を漢語にそのまま訳すことができないので漢音を仮りてその梵音を移したように、それぞれの字音を仮りに用いて、その字義にはよらなかった。 
(日本の名著 新井白石 p254)

そこで、中国人が、インドの呪文を漢語にそのまま訳すことができないので、漢音を仮に使ってその梵音(読経)を翻訳したように、(日本の和歌を漢字を使って記す場合)漢字の意味ではなく、音を仮りに用いて記した。

(例) 八雲立つ → 夜久毛多都(やくもたつ) 

*ここで、1963年発行の岩波文庫 倉野憲司校注『古事記』の解説に、これらの経緯を裏付けるような一節がありましたので、ここに概要を引用しておきます。

「古事記の直接の資料になった帝皇日継と先代旧辞のうち、『帝皇日継(ていおうのひつぎ)・』は、整然たる漢文体の記録であったのに対し、聖徳太子が進上した『旧辞(先代旧辞紀)』は、国文脈の変態の漢文で記されている」...旧辞の内容については、神話や伝説や歌物語である。 (岩波文庫 倉野憲司校注『古事記』)

以下の一節は、白石の学者・知識人としての姿勢、性格をよく表しているのではないかと思います。

上宮太子をほめたたえて「聖なる人」というけれども、聖人であっても、すべてを知ってじゅうぶんに表現することはできない。
だから、その用字が、ことごとくその字義にあてはまっていたわけではない。(日本の名著 新井白石 p254)

最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。


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