サッカーファンじゃない。スポーツファンを育てよう。

スポーツで「感動」するということ

サッカーの話をしよう。

昨日の朝、珍しいタイプの夢を見た。
自分は夢を見ることが多い方である。しかし、平時の夢は往々にして「記憶のツギハギ」という感じで、内容は支離滅裂。夢を見たこと自体は理解しているが、詳細な内容も覚えていないことが大多数だ。

しかし、今回は珍しく「朧げだが、確かに記憶の断片として見たこと、感じたことある風景」だったので、内容を思い出そうと、朝から延々考え続けていた。かれこれ4時間近く考えていた。

それで不意に思い出したのが、

『第一回スーパーJカップを、子供の頃の自分が居間で見ている』

状況だった訳だ。

スーパーJカップは新日本プロレスの重鎮、獣神サンダー・ライガーが考案した、Jrヘビー級選手達による交流戦である。今でこそ珍しくない団体交流戦だが、当時の衝撃は大きかった。
サッカーに例えて言うなら、

「仮に現在まで、欧州CLやELが存在しない世界線が存在したとして、ある日

『各国リーグの強いチーム集めて、どこが1番か決めようぜ?』

という大会がぶち上がった」

のようなものとイメージしてほしい。
今朝こうして夢に見て、掘り起こされた記憶が

「スポーツに全身全霊で感動」

した最初の機会、原体験だったことを思い出した。
この感覚が薄れないうちに、文字起こししておこうと思う。

印象的な場面は3つ。

「ガウンを羽織ったままな状態のハヤブサが、ライガーに不意打ちトペる試合開始」
「エル・サムライの高角度パワーボムが完璧に入った直後、フラフラの状態で丸め込み勝ったザ・グレートサスケ」
「ライガーが無茶苦茶に攻めまくるも、どうしても3カウントを許さず立ち上がるサスケ」

だ。気になって検索したら、なんと全て新日本プロレスからあがっていた公式動画に収録されていたので、気になる人は見てみてほしい。(大会や試合についてのプロレス的視点からの評価や、その後のスポーツシーンに与えた影響等については、今回は割愛する)

SUPER J-CUP ~1st. STAGE~ 大会ダイジェスト

画像1

(C)新日本プロレスリング株式会社

『コンテンツの戦国時代』に思うこと

さて、夢と併せて過去を振り返る中で、考えたことが2つある。要約すると、

①『スポーツで感動』の原体験を通過することが最優先事項。競技選択は二の次
②決め手は教育と生育環境

だ。
これらは日頃から何かとお世話になっている河野大地さん(通称マリオさん)が呟いていた

コロナ後のスポーツ界に思うこと

について、自分なりに感じたことを綴った感想文とも言える。マリオさんのTweetを見て、一両日中ずっと考えていた末に今朝の夢を見たので、何かの啓示だったのかもしれない。

①については確認事項が多いので、順に説明していこう。

サッカーは面白いのかでも触れている通り、サッカーファンである自分だと、どうしても友人知人に対し、
「どうやったらサッカーに興味をもってくれるのか?」
について考えてしまいがちである。だが、まずは試合を観た本人がその気にならない限り、話が先に進まないのも道理だろう。

ましてや、今は言ってみれば「コンテンツの戦国時代」だ。
多くの人は複数のコンテンツを「推し」として抱えるわけだが、使える時間も予算も、体力気力も限あるリソースである。そんな中、自宅観戦で2時間、現地観戦なら半日~1日を拘束される、サッカー観戦の敷居は高い。

一方で、現代社会は「情報の即応性」がこれまでに比べ、飛躍的に高まった時代とも言える。インターネットとスマートフォンの普及により、こと娯楽に関しては、「知りたくても知る術がない」時代は終焉を迎えつつある。特定対象に興味を持った際、本人が欲する情報に到達するまでの時間は、劇的に短縮化が進んでいる。

コンテンツ自体は増えた。しかし、肝になる(あるいは秘匿しておきたかった)領域まで、ユーザーが到達する時間も短くなった。

結果、どういうことが起きるか?どうしてもコンテンツの賞味期限は短くなる。あらゆるコンテンツの提供者に、回転速度の向上と、即応性や付加価値を要求されるようになった訳だ。
例えばビデオゲームは、絶えずアップデートを繰り返し、期間限定イベントやサービスの追加を繰り返すようになった。書籍や漫画らは、省スペース化や読み飛ばし、持ち運び等「手軽さ」の要求に応えられる、電子書籍の躍進が印象的だ。コンテンツの入り口を、無料化するケースも目立つ。必然、
「提供までにかかったコストを、どれだけ確実に回収し、収益をあげるか」
は、提供者にとっての至上命題となってくる。

状況を整理すると、

・制作、提供にかかるコスト(予算、人員、時間、場所)は極力カットしたい
・結果、一瞬で強く目を引きはするが、短時間で最深部に到達してしまう(もしくは底に対する見通しが立つ)コンテンツが氾濫

しており、一方で

・提供者、消費者共に疲弊しがち
・反動から多様性=「幅広く、奥深さもある」コンテンツの価値は高まっている

という状況だ。実際、一極集中的に推しコンテンツに投資を惜しまないユーザーは、むしろ増加している(『オタク』という言葉のイメージが変化していること等、その影響も顕著)。究極的には
「わかりやすく」
「唯一無二の感動が味わえ」
「安価で」
「深みもあり」
「ユーザー側が新たな付加価値を再生産しやすい」
コンテンツが、最も多くの人に訴求しやすい訳だが、実現不可能なのもまた道理だろう。

鉄は熱い内に打ち、スポーツファンは幼い内に育てる

これを前提として、昨日の夢以後、過去の自分から得られた着想を言語化してみることにする。
①『スポーツで感動』の原体験を通過することが最優先事項。競技選択は二の次
なのは、以下の着想に基づくものだ。

(A)『感動』には、コンテンツを追いかける原動力としての機能が期待できる
(B)サッカーという特定コンテンツを、感動の原体験とするには、乗り越えるハードルは多め
(C)人によって響くコンテンツの方向性、ツボは違うが、『スポーツ』という大括りが共有する文脈は確かに存在する
(D)まずはスポーツコンテンツのターミナルを、受け手側の中に構築してもらうことが重要で、コンテンツ同士の切磋琢磨はその後の話
(E)そのための道筋としての
②決め手は教育と生育環境
という考え

と繋がる。

(A)は言ってみれば、コンテンツ全体の希薄化傾向に対するカウンターである。

特に幼少期、少年期の原体験は強烈だ。
第一回スーパーJカップから25年以上が経過した今でも、その他多くの感動以上の意味合いをもって、自分の中の記憶が色褪せずに残っていること。その後の人生において、他のコンテンツに食指を伸ばしてみても、要所で必ず「スポーツ」という文脈に立ち返ってきたのは、あの原体験あってのことである。全ての人に適用できるケースでないことを承知の上で、少なくない人と共有できる感覚だと思う。

一方で、自分が考えるサッカー振興の実現には、(B)という問題が立ち塞がる。
これまで繰り返し述べてきたように、サッカーはクセの強いコンテンツだ。スマートフォンを操作すれば、1分と経たずに開始できる類の娯楽ではない。

そこで(C)と(D)である。これは乱暴に言えば、
「コンテンツとしてのサッカーが持つ弱点を、他のスポーツに補ってもらう」
「必要なコストとして、サッカーが選ばれないリスクを負ってでも、『スポーツならまずは何でも良いから』ユーザーを獲得すべく、手を尽くす」

ということだ。

サッカーが今のリソースで取り込める、新規ユーザーの獲得能力には限界がある。だが、固定ファンを獲得する上で重要な『感動的な原体験』をサッカーに限らず、他のスポーツも含めて考えるのであれば、より広域に渡って種を撒くことはできる。
「サッカーファンをどう増やすか」ではない。
「スポーツファンをどう増やすか」が前提なのだ。
その上で、
「スポーツを楽しむ素地ができた彼らに、更にどうすれば、サッカー(他、特定競技)の魅力が伝わり、ファンになってくれるか」
を考える。(D)の「内部にターミナルを生成してもらうことを狙う」という表現は、この着想に起因するものである。

ここで一つ、身の周りにいる人達のことを想像し、考えてみてほしい。
あなたの周りにいる人は、

・推しスポーツがある人は、「推す」ことの温度差はありつつ、その他のスポーツに対しも、特に悪い印象を抱いてはいない
・そもそもスポーツ全体に興味がない

に大別できるのではないだろうか。前者の多くは、内に「スポーツを楽しむためのベースとなる機能」を有する人と定義付けられる。
(稀に、推しスポーツ以外を攻撃、排除対象とするような方もいらっしゃるが、こちらはコンテンツの再生産者、拡散者としての役割を果たしてはくれない上、むしろ新規ファンを遠ざける存在となってしまうため、ここには含めないが…この問題はいずれ、別の機会で)

強烈な原体験をスポーツを通じて得てさえいれば、より少ない手順で、サッカーの魅力を伝えることもできる。「新しい発見や驚き、興奮への期待・欲求」という、スポーツファンの多くが共有できる文脈のもとで観戦できるからだ。オリンピックやワールドカップなど、国際大会が高視聴率を叩き出すのは、ある種のモデルケースと言える。
しかし、そもそもの動機付けがない状態で、いきなりサッカーと対面して楽しむには、運も素質も必要になる。焦って事を仕損じるのは愚の骨頂、何事もスモールステップではないだろうか。

(前置きがだだ長くなったことを反省しつつ)
こうした(A)〜(D)を考慮した上で考えた上で、目的達成の手段として有効なのでは?という、自分なりの仮説が(E)であり、
②決め手は教育と生育環境
となる。

言わば”感受性の怪物”である、幼少期の原体験は強烈だ。

元々人間は、妄想と現実の区別を、完全につけることはできないという。幼い頃ほど境界線は曖昧としている上に、感情のスイッチが入りやすく出来ていることは、広く知られている通りである。
そんな状態で経験する「最初の一回」は、その後何十、何百回と繰り返される体験を精査する上で、基準値となる一回である。意味の大きさは計り知れない。
妄想と現実の狭間、自分が今、どこに立っているのか?どこに向かっているのか?その1つの指針となるのが、この「最初の一回」なのだ。「三つ子の魂百まで」の教えは伊達ではない。

しかし、幼少期にある子供がスポーツを通じて感動や興奮の原体験が得られるかどうかは、その大部分が保護者の手に委ねられることとなる。生育環境が物を言う訳である。
昨今、スポーツを楽しむ(見る、やる含む)だけの余裕がない、もしくはきっかけがない家庭が少なくないことは、多くの競技で協会が、火急の問題として取り上げてきたところだ。

その解決の糸口を、スポーツ文化・コンテンツの間口を今以上に広げ、娯楽以外に有用性や教養の一貫として確立することにあるのではないか。乱暴に言えば、

「野球少年少女、サッカー少年少女が増やせるかどうかは、競技ごとの取り組みや資金力、資本によって変わる。今以上に悲惨なことになる可能性も十分にある。

一方で、このまま座して待てば、少子化&コロナ禍の影響による、スポーツ人口の減少は避けられない。他の競技関係者は競争相手でなく、広義的な協力者である。

まずはコンテンツとしても、教育上の必須事項としても、『スポーツそのもの』の価値を高める。それが結局、多くのスポーツを存命させる」

と考えた訳である。
子育て世帯へ、いかにしてスポーツの良さを届け、原体験のきっかけを作るか?
今後も引き続き、勉強と思考を続けようと思った。

まとめ

(1)娯楽コンテンツの選択肢が膨大な数ある中、ピンポイントでサッカー他、特定競技に導くのは難しい。
(2)しかし、コンテンツが氾濫している&情報収集が容易な現在だからこそ、「代え難い一瞬」の原体験の価値は、逆に向上している。
(3)魅了される瞬間を当該者が得られた場合、直にコンテンツと接触するまでのタイムラグは、驚くほど短くなってきている。広がりも見せやすい。
(4)コロナの影響もあり、サッカーだ野球だ、と仲違いしている場合ではない。まずは「スポーツファン」を獲得すべく働きかけた上で、各競技=コンテンツが切磋琢磨することが上策。
(5)「代え難い一瞬」の原体験は感受性が豊か&人生経験に乏しい幼少期に訪れやすく、また望ましい。子育て・教育のあり方が前提となる以上、子育て世帯への訴求力を磨くことが至上命題である。

といったところか。
これだけを書いて纏めれば良かったのでは?と思わなくもないが、整理して書いておかないと自分自身がわからなくなってしまうので、メモとして残しておいた次第である。

具体的にどう、子育て世帯に働きかけていくべきか?
様々なアプローチがあると思うが、その提言はいずれ、形としてもう少しまとまった時に。


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