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福島県猪苗代町の旅(3)……天鏡閣と小平潟天満宮へ

福島県の磐梯山の周辺を旅行してきました。ササッと書こうと思ったのですが、書いていくうちに文章が長くなってしまったので、今回が第三弾です。これを最終回にしたいと思い書き始めましたが……どうなることやら。

2泊3日の旅行だったのですが、1日目は、ちょうど日が沈みはじめた17時頃に猪苗代駅に着いたこともあり、観光地として寄ったのは会津若松藩の藩祖・保科正之公の墓地のある土津はにつ神社だけでした。翌朝は、ここだけは行きたいとお願いして猪苗代城へ。そして、案内役として車を運転してくれた大学時代の旧友が「天鏡閣っていうところがあるから、そこへ行ってみない?」と言うので、行ってみた……というのが今回のお話です。でも、そのほかこの日は色々と長い一日となりました。


■天鏡閣へ

天鏡閣は、有栖川宮が別荘として建てた洋館です。わたしは、その隣にある同時期に建てられた福島迎賓館へ行ってみたかったのですが、猪苗代城へ連れていってもらった後なので、何も言わずに友人に車で運んでもらいました。

道を走っていると、野口英世の生誕地がありました。小学校の時に来ましたが……当時はこんな立派な施設ではなかったような……。

天鏡閣は、明治40年前後に有栖川宮の別邸として建てられた洋館です。公式サイトを見ると、東宮(皇太子)時代の大正天皇や昭和天皇もいらっしゃったことがあるとか。外観のペンキは剥げかかってボロボロでしたが、中はよく補修されていました。

天鏡閣の門から見た敷地内は、紅葉が見ごろでした。それにしても、各地の城もそうだし、今では平々凡々のわたしでも、こうしてかつて皇族がお住まいだった別邸の中に入れるのですから、良い時代になったものだと思います。

さすが皇族の別邸ということで、素敵な建物ですね。とはいえ、まずは「拝観するかどうか、ぐるりと一周してから決めない?」と友人に提案して、建物を一周してみました。わたし、ドケチなもので……もしかすると外観だけで十分なのではないかとも思ったのです。

こちらは側面。なんか上手に撮れない……というか、洋館を撮るのって難しいですね

皇族の建物なのにアレがないなぁと思って探したら、足元にありました……菊の御紋です↓ これが菊紋をあしらったものかは不明ですが、おそらくそうですよね……。ちなみに有栖川宮家の家紋……宮紋とでも呼ぶのでしょうか……は、有栖川家菊などと言われ、少し変わった菊紋です。

「いいかげん、もう中に入らないかい?」と言われて、いよいよ中を拝見することにしました。でも、正面玄関からは入れないんですよね。

旧正面玄関

元々は使用人の出入り用だったのかもなぁという、けっこう広い出入り口を入ると、すぐに土産物コーナーと受付があります。入場料は370円と、この手の物件としては、良心的ですよね。



部屋の端は、床材をV字になるように並べたヘリンボーンの床になっていました。よくヘリンボーン柄のタイルとかフローリングとかありますけど、こちらは板をカットして並べた本物ですよね……すばらしい。


↑ こういう意匠は「レトロな雰囲気がいいね」とは思うものの、「匠の技だな」と感嘆するほどのものではないような気がします。日本の職人さんが、洋館用に見様見真似で作ったのかな? なんて思ってしまいました。

何カ所かは「TOTO」って書かれていましたが、これは当時のものが、そのまま残っているのではないでしょうか。まぁ作ったところは現:TOTOだったかもしれませんがね。

中央にいらっしゃるのが有栖川宮殿下だそうです。イケメンですね。(色々と反射がキツくて、この角度からの撮影になりました)

こうした照明のスイッチ一つとっても、意匠が美しいんですよね。昔の人が多用した曲線って、今とは全く異なる柔らかさがあって、大好きです。


↑ これが有栖川宮家の家紋の一つです。邸内のあちこちに暖炉が設置されていて、その意匠にあしらわれていました。下のような花の絵柄も、我が家にあったら「突然どうした?」って感じの違和感が出るでしょうが、この天鏡閣のようなところには違和感が全くありませんね……当然でしょうけど。

なんか造形がイケてる便器ですよね……「お便器」とかと呼ばれていたんでしょうかね。

こうして窓に近づいて外を撮ると、なんだか透過率の高い窓ガラスだったなぁと思うのですが、実際には今みたいにガラスが均一に作られたものではなく、少しゆがんでいるんですよね……それがまた素敵なのですけど……よく昔のままのガラスが割れずに残っているなぁと感心してしまいました。

宮様ご愛用の「ごサーベル」などが展示されているミニコーナーがありました。ごサーベルを念入りに撮っていると……友人がニコニコとやって来て「はい! 時間ですよぉ〜!」とのこと。「なんだよ、その撮れ高オッケーです! みたいな言い方」……って思ってそのまま言ったのですが、このあと彼は、カノジョと会う約束があって、少し急いでいたのです。ということで、念入りに ごサーベルを撮り続けました。こちらは桐紋ですね。

大正天皇が東宮(皇太子)だった時にいらっしゃって、「天鏡閣」と書かれたものが、そのまま展示されていました。「大正天皇御筆」とありますけど、明治41年なので、まだ天皇ではないですね。

この文字をもとに、玄関の上の看板を彫ったのかと思ったのですが、照合してみると、ぜんぜん違いました。

友人が、早く出発したいと言うので、ダラダラと外へ出ました。隣には使用人が使っていたのだろうか? というような建物があり、その前には「当時のベンチ?」というような絵になるベンチがありました。

そして使用人用の洋館の……床下排気口とでも言うのでしょうか? ……それはまた本館とは異なる意匠でした。

これまでも上野の岩崎邸などの洋館に入ったことがありましたが、猪苗代にある天鏡閣もなかなか見ごたえのある建物でした。これから維持していくのは大変そうですが、頑張ってもらいたいものです。

■自転車で小平潟天満宮へ

ということで、色々と車で巡ってもらった友人とは、JR猪苗代駅へ戻ってもらい、お別れしました。

さて……家族が来るまでの2時間をどう過ごすか……と駅のベンチで考えていたら、近くの町営施設で、室町時代後期の連歌師、猪苗代兼載さんの企画展『猪苗代兼載と ゆかりの小平潟天満宮パネル展』が開催されているとあったので、行ってみることにしました。

場所は約1.5kmのところにある猪苗代城の隣……。さっきまでいた猪苗代城へまた行くのか……という気持ちもありましたが、駅前の観光案内所でレンタサイクルを借りて行ってみることにしました。が……案内所へ向かうと、ちょうど最後の自転車を、他の人が乗って行ってしまいました。まぁ歩くのもいいだろうと、500円で手荷物を預けて歩きだしたのです(駅のロッカーは空いていないことが多いようです)。

農閑期の田んぼなのか畑の道を行きました。近所のおじいさんが少し先を歩いていて、違う方向から少しお若いおばあさんが歩いてきて……「こんにちはぁ」と交差点でおじいさんにご挨拶。知り合いではないようでしたが「お散歩ですかぁ? 今日は暖かくていいですねぇ」なんていう会話をされていました。わたしも少し頭を下げつつ通り過ぎました。そんな暖かさだったからか、さっき咲いたのかと思われるほど色鮮やかな、たんぽぽやぺんぺん草……ハルジオン? ヒメジョオン? 、ノボロギクが畦道にたくさん咲いていました。

そして「和みいな」という、わたしが住む地域で言えば「生涯学習センター」のような施設に到着。すぐ後ろには、先ほどまでいた猪苗代いなわしろ城の崖があり、おそらく昔は城の一部だったのだろう場所です。中に入ってすぐのイベントスペースで『猪苗代いなわしろ兼載と ゆかりの小平潟天満宮パネル展』が開催されていました。行った時には、地元の方が一人、主催側の方と話していました。(人見知りなわたしは)これ幸いと、展示を見ていきました。

猪苗代いなわしろ兼載さんとは、室町時代後期……戦国時代に名を馳せた連歌師とのことです。「連歌」というのが、現在はほぼ絶滅したエンタメなので説明が難しいのですが……和歌をみんなで楽しもうぜ! といった感じですね。和歌は五・七・五(上句)と七・七(下句)で構成されていますが、この上句を誰かが詠んだら、それに応えてほかが下句を詠む……さらにそこから連想される上句を繋いで、また下句を……というのを、ほぼ永遠に続けていく……だから連歌ですね。

猪苗代の兼載けんさいさんは、その連歌師として、もう一人有名な宗祇そうぎさんと一緒に、連歌の最盛期に人気を博したそうです。

そして、どうやら連歌師というのは人気になると、いろんな連歌の会に呼ばれるんです。そうした全国で開催される連歌会に招待されて、「兼載けんさいさま、本日の発句ほっくをお願いします」と言われるわけです。発句ほっくとは、一番初めの五・七・五のことで、その日のテーマとなる句ですね。さらには、「今の〇〇さんの句は素晴らしかったですね」などと、某番組の夏井いつきさんのように、解説または評価をして順位を決めたりしていたようです(←間違った認識かもしれないので鵜呑みにしないでください)。

この「連歌」という遊び……現在ではほとんど語られることがないので、どんな風に歌が連なっていったのか、わたしは知らないのですが……。イメージとしては……幕末長州藩の高杉晋作という人が「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の歌を詠みました……ここを断言して良いのか不明ですが……それに対して、高杉晋作の最期を看取ることになった野村望東尼(女流歌人)が、「住みなすものは 心なりけり」……と続けたと言われています(諸説ありますが、現状で、下の句を高杉晋作が続けて詠んだとする説は、有力ではありません)。それをどんどこ繋げていくのが連歌なのかなと。

「おもしろき こともなき世を おもしろく」というのがテーマで、それに対して「住みなすものは 心なりけり」と「おもしろく生きられるかどうかは心がけしだいですよね」と返す人もいたと……でも、「この下句がつくと、上句の面白さが陳腐化しちゃうから不要だな」と言う人もいる……「でも良い下句が思い浮かばないや」となって、「それじゃあ上句だけで完成しているんじゃないか?」となって、俳句や川柳が生まれていったのかもしれません。

「連歌」と聞いて、もう一つ思い出すのが、常陸国(茨城県)の小田氏治です。何度も自身の城を落とされ、戦国最弱の武将とも不死鳥とも言われ、恥ずかしいエピソードがいくつかあるのですが、なかでも、わたしが気に入っているのは「大晦日から元旦にかけて、小田家で恒例となっていた連歌の会を夜通し行っていたら、元旦の明け方に攻め込まれて落城した」という話です。本当かどうかは知りませんが、この小田家の連歌の会では、身分の上下なく誰でも参加可能だったとも言われています。

さて小田氏治の話は置いておき、兼載けんさいさんがどんな句を詠んだかと言うと、同パネル展では地元の中学生が彼の歌を毛筆でしたためたものが展示されていました。わたしには句の良し悪しは分かりませんが、いくつかご紹介……

実になるも ゆかりむつまし 梅の花
海のごと 深き梺の 霞かな
まつ人に たちえやかすむ やどの梅
名こそ秋 ひかりは冬の 月夜かな

この兼載けんさいさんが生まれた場所が猪苗代いなわしろなわけですが、パネル展を見ていたら、生まれた場所が近いことが分かりました。また兼載けんさいさんが生まれた場所には、そのお母さんが、離れて暮らす兼載けんさいさんの無事を祈ってお参りしていたという小平潟こひらがた天満宮というのが残っているということでした。

これは見に行きたいな……そう思って、行ってみることにしました。そこでまた15分くらいかけて駅まで戻り観光案内所へ行ってみると、今度はレンタサイクルがあったので、それを借りて出発しました。

はじめに建てられたのは、天暦2年6月25日(948年)と古く、案内板には京都の北野、福岡の太宰府とともに日本三大天満宮だと記されていました。その真偽はともかく、この小平潟こひらがた天満宮の近くで兼載けんさいさんは生まれ……それに野口英世のお父さん・佐代助の実家もこの辺にあり、兼載けんさいさんは母に連れられ、野口英世は父に毎日連れられて、この天満宮を参拝していたそうです。また本当かどうかは分かりませんが、野口英世の父の実家は、兼載けんさいさんの血筋とのこと。

唐突ですが整理すると……兼載けんさいさんは天満さま、菅原道真の生まれ変わりだと言われ……その兼載けんさいさんの生まれ変わりが野口英世だとも言われているそうです。

天暦二年(948)には、集落の別の場所に建てられたそうですが、天和二年(1682)に、会津藩の2代藩主、保科正経まさつねによって現在地に移されたようです。ちなみに保科正経まさつねさんは、保科正之さんの息子で、土津はにつ神社(正之の墓所)を作った人でもあります。

説明看板には「本殿は種々の豪華な意匠を欅の材質に丸彫り、浮彫、半肉彫、透彫り、毛彫りなどの手法を用い、外側面の構造に美しさを表現している」とあるのですが……残念ながら目の粗いというか透過率の低い金網で本殿が覆われてしまっているため、その美しさは感じられません。(遠くからだと全体が見えるのですが、近くへ寄ると金網が目立って細部がみられないんですよね……)

そんな風にモヤモヤしながら、でもこんなに本殿に近づける、この規模の神社も珍しいなと思いつつ、一周してみました。

と言っても、この時は既に13時半で……14時までに猪苗代いなわしろ駅に戻らなければならないわたしは、けっこう焦っていました。というのも、14時57分着の電車で妻と息子が駅にやってきて、それに合わせて義父母も合流する約束だったのです。

ということで、ヤバヤバと思いつつ天満宮を後にしました。

帰りは道も分かっていたので、スムーズに猪苗代駅に辿り着きました。駅へ行くとロータリーに義父母の車が停まっていて「自転車、どこで借りたの!?」と、また娘婿はおかしなことしているな……とでも言うような反応をされてしまいました。ちょっと変な人だと思われているんですよね……。そして観光案内所に自転車を返して、預けていた荷物を受け取り、駅舎へ行くと、ちょうど郡山からの電車が来ました。

その後は、義父母の大好きな休暇村へ……全国の国民宿舎だか休暇村へ行こうとしている? ってくらいに泊まりにいっています。今回は裏磐梯うらばんだいの休暇村。わたしは言われるままに行っているだけなので、休暇村って謎施設で、宿泊料も知らないんですけどw けっこうキレイで快適なところも多いです。

窓を開けると、磐梯山が見られるよい景色でしたし、温泉も気持ち良い泉質で、食前食後と翌朝の3回入ってしまいました。夕食と朝食のビュフェは、種類はやや和食寄りで、まぁ美味しい感じです(なぜかカニグラタンが美味しかったです。あと地元産の牛肉)。

そして翌朝は、以前noteに記した五色沼へ向かうことになります。

今回も良い旅となりました。

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