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【日光ガイド】東照宮から川を挟んだ静かなお寺へ立ち寄りました

日光へ行ってからもうすぐ1カ月が経ちます。2泊3日だったのですが、初日は1人で午後から、帰りは家族揃って昼には日光駅を出たので、実際に過ごしたのは48時間くらいでした。1日目は一人で日光山を巡り、2日目は家族の希望で、ほとんどの時間をスケートリンクで過ごしました。

そして3日目は、「あなたの行きたいところへ行ってもいいわよ」と言われたものの……1日目の達成感が大きかったのと、強いて行きたいところと言えば、いろは坂を超えた先にある場所だったということもあり、断念しました。

その代わりに、地図を見ていて気になった場所が、一カ所だけあったんですよね。すぐ近くの興雲律院(こううんりついん)というお寺です。

日光山とは稲荷川(青矢印)を挟んで向かい側にある興雲律院

東照宮などがある日光山とは、稲荷川(と呼んでいるか不明ですが…)を挟んで向かい側に位置するお寺です。律院りついんとは、コトバンクによれば「戒律を習学する寺院」とあります。この興雲律院こううんりついんについて調べると、これがまたややこしいんですよね。

ということで、お寺が開創された経緯については、後述することにして、さっそく、興雲律院を見ていきたいと思います。

■現在の興雲律院

興雲律院の情報は、ネット上では極端に少なく、あまり有益な情報が得られませんでした。

明治21年の市岡正一著『日光山名勝図会』にも、たった2行しか記されていません。

興雲律院 楼門は竜宮造り本堂は素木造りなり堂内の長押(なげし)に掲ぐる『戒光殿』額は公遵法親王の筆なり

『日光山名勝図会』

東照宮方面から、大谷川の脇を走る道を稲荷川を渡って、道を少し登った左側に、興雲律院の入口があります。おそらく、地図かナビを注意深く見ながら走らないと、わたしのような観光客はその入口を見過ごしてしまうはずです。

両側が樹木で覆われた小道を進むと、見えてくるのが竜宮造りの楼門です。

栃木県のサイトには、この楼門について次のように説明しています。

鐘楼門は石段を数段登った石棚内に建っている。腰は丸みをおびた曲線で白壁造り、基垣に当たるところは石張りとなっている。上層は銅鐘を釣り鐘楼として、門と併用されている。段階は左側の狭い腰のところに廻り階段で上層に登る様に造られている。下層の中央に桟唐戸を建て、上層の火灯窓との釣合いもよく、屋根には軒唐風をつけた入母屋造りである。周囲ともよく調和のとれた建物で、大猷院皇嘉門の変形と感じられるが、みるからに瀟酒な建造物である。

とちぎの文化財』より

上記の、短く簡潔な文章に少し驚いた……というのは、ここでは関係ありませんが……とにかく門が鐘楼も兼ねているということ。

楼門には波と兎が表現されています。この兎は火除の意味で掲げられたんでしょうかね。今年は兎年なので、さっそく兎に出迎えられて、幸先が良い気がしました。

楼門から境内を覗くと唐破風の建物が見えますが、ここは本堂ではなさそうです。

その唐破風の玄関のある建物の左側から、読経が聞こえてきました。とすると、こちらが本堂ということになるんでしょうか。静まりかえった空間から聞こえてくるお経は、なんともありがたさを感じます。今にも走り出そうとしている息子を「し〜〜〜!」と言いながら羽交い締めにして、本堂で手を合わせました。

境内には、年末に降ったという雪が、2週間が経った当院を訪れた当時も、まだ残っていました。先述の『とちぎの文化財』から改めて引用させていただくと、「内庭は自然を生かして、本堂・庫理・三天堂(駒堂)が建並び、野天の護摩垣が設けられている。本堂左の高大に樹の間から白亜の経蔵がのぞかれる。」とあります。これを読んでから行くべきだったなと思いますが、どれが本堂で、どれが庫裡くりなのかは、分かりませんでした。

ちなみに観光Fanというサイトには、下記のように記されています。

「戒光院」の額は、公寛法親王の親筆で、法親王がこの寺の創建に寄せた発願の愛情を脉々と伝えている。境内には、大蔵経800巻を納める白亜・方形造りの「覚宝蔵」・一間社流造りの「三天堂」など優れた建造物がある。毎年正月14日の「越年祭」・旧暦8月9日の「ぜんそくのへちま加持」・11月9日の「三千仏名会」など、いずれも独特の年中行事には、近隣からの信者の参詣も多い。

観光Fan』より

先述の明治期に記された『日光山名勝図会ずえ』には、『堂内の長押(なげし)に掲ぐる「戒光殿」額は公遵法親王の筆なり』と記されていましたが、『観光Fan』では、『「戒光院」の額は、公寛法親王の親筆』とあります。どちらが正しいのかとも思いますが、当院が1729年に開創されたというのが正しければ、その頃に日光などの三山のトップだった公寛法親王の筆ということになるでしょうか…。いずれにしても今回は、拝見できませんでした。

本堂の前を離れると、濃い森の中に、うっすらとですが道が残っていました。いつごろに作られた道なのか分かりませんが、この時には好奇心が勝ってしまって、進んでしまったんですよね。いま思えば、住職さんなどに一言断るべきだったのかなとも思いますが……。

森を歩いていくと、開けた場所にお堂がぽつんと建っています。ここはそれほど古くに建てられたとも思えません。実は、このお堂を、いつも寺の境界の柵の外から見ていて、なんだろう? と思っていたんですよね。森を在るき出した時に、ここに繋がるのではないかと思っていたのですが、やはり興雲律院の敷地内ということなのかな……というのが分かりました。

そのお堂の扉だったかな……この桐紋のようなマークはなんだろう? とも思いました。いま調べてみると「笹竜胆ささりんどう」ですし、金谷ホテルのマークですよね……。周辺の様子からしても、もしかすると……なのですが……。

お堂を離れて本堂の方へ戻ることにしました。苔むした森の中は、なんとも荘厳な雰囲気です。

「光明真言塔」と記されていました
一間社流造りの「三天堂」

本堂前に戻ってくると、一間社流造りの「三天堂」があります。社殿を覆うように外側を囲う覆屋にしっかりと守られていて、大切にされている様子です。ちなみに、先ほど引用させていただいた『とちぎの文化財』のサイトには、覆屋で覆われる前の写真が載っています。ここ数十年で、覆われたということでしょう。

そして、この三天堂を、またもや『とちぎの文化財』を引用させてもらうと……

「三天堂は一間社の流造りで、彫刻・彩色を随所に施されており、江戸時代中期の特徴がよく表されている。総体朱塗の建物で、当社からこの境内に建てられたものでなく、今市より移築されたものと称されいる。幽邃な環境の緑の中に、小堂ではあるが朱色が交って紅一点の感じがする、美しい建物である。」

とちぎの文化財』より

いやぁ……なんとも格調高い文章だなぁと思ってしまいます……それは良いとして、今市から移築されたものなんですね。それも驚きです。なんでまた興雲律院に来たんでしょうか? 欲を言えば、そのあたりも取材しておいてほしかったなぁw

なぜか「香車」の駒がたくさん奉納されています。この情景……なにか見覚えがあるんですよね。どこかで見たことがあるような……それほど珍しくないものなのか? と。それで「香車 神社」で検索してみると……

個人的にはびっくりだったのですが、日光山の中心地から、二荒山神社の別宮である瀧尾神社を目指して進むと、途中に観音堂……別名「香車堂」という小さなお宮があるんですよ。一度か二度は、その瀧尾神社方面に歩いたことがあり……おそらく、その香車堂も見ていると思うんですよね。それが脳裏に残っていて、興雲律院の三天堂を見た時に既視感を覚えたんだと思います(もしくはパンフレットなどで見たのかもしれません)。

そして改めて香車堂と三天堂とを、写真で見比べてみると……形をそのままに、大きさを一回り小さくしたような……2つのお堂がクリソツなんですよね。上写真の木組みの下の白い象のような像も、同じだし。いやほんと、なぜこの三天堂が今市から移築されたのか、そもそも今市になぜ建てられたのか、今市の三天堂と日光山の香車堂との関連は? などと、いろいろと気になってしまいました。

ということで、帰りの電車の時間が迫ってきたので、興雲律院から離れることにしました。

■興雲律院ほかの起源

帰宅後に、興雲律院のことが気になってしまいました。思いがけず……というと失礼ですが、由緒のあるお寺さんなんだろうなぁと。

でも、由緒を少し調べてみると、話が複雑過ぎて、わたしなどが理解できるような話ではない……ということは分かりました。とはいえせっかく少し時間をかけて調べたので、分かった(つもりになった)限りのことを、ここにメモしておきたいと思います。

複雑というのもですね……どうやら、江戸期の天台宗では、宗内で争いがあったようです。どんな争いかと言えば、中国仏教で重視される戒律を、改めて学びましょうよという考えの僧が現れたんです。というのも、もともと天台宗の僧が修めるべきと言われた戒律は、中国の天台宗で定められたものよりも、かなりユルいものだったようです。日本で天台宗を確立した最澄さいちょうが、わざとユルくした……と言ったら語弊があるかもしれませんが、日本で天台の教えを、導入しやすくしたのでしょう(と言えば、それも語弊となるのでしょうけど……)。

ちなみに、宗教の話を誰かがしても、その誰かが言ったことが全て正しいわけではありません。すべて“正しい”ことが言えるのなら、その人こそがキリスト教であればキリスト本人でしょうし、仏教であれば仏陀ぶっだ釈迦しゃかその人でしょうから。なんてことを言ってしまうと、元も子もありませんが、できるだけ正しいことに近い文章を書こうと思いますが、そうは言っても、どの立場で言うかによっても、“正しい”と“正しくない”は変わってくるもの……そのため、ご容赦いただきたいということです。

で、江戸期の天台宗の話ですね。天台僧が習得すべき戒律を、増やそうと言った、妙立(みょうりゅう)または慈山(じざん)と呼ばれる、偉いお坊さんがいました。この方は、当時の天台宗の多数派から(簡単に言えば)ウザがられて、破門……なのかどうか不明ですが、排斥されてしまいます。「そなたは比叡山から出ていけ!」と言われたようです。

妙立みょうりゅうさんは、そのまま不遇のうちに亡くなられたようですが、その弟子である霊空さんが、妙立みょうりゅうさんの遺志を引き継ぎます。そして妙立みょうりゅうさんのやりたかった方向へ天台宗……比叡山を動かした(改革した)……と言っても良さそうです。

具体的には、天台僧が学ぶべき戒律を増やしました。そして、1693年(元禄6年)には、輪王寺宮公弁法親王の命令により、比叡山の横川の飯室谷の安楽院というお坊を、天台・四分律兼学の安楽律院に改め、安楽院流の祖となった(Wikipediaより)。

輪王寺宮公弁法親王というのは、輪王寺宮である公弁さんという法親王ということです。つまりはお坊さんになった、天皇の息子ということ。また輪王寺宮といえば、江戸(東京)の上野にある東叡山寛永寺、さらには(現在の輪王寺や二荒山神社、東照宮などを含めた)日光山はもとより、比叡山延暦寺、つまりは天台宗のトップだったということです。

妙立みょうりゅうさんの法統は、霊雲が安楽律法流として引き継ぎ、まずは比叡山延暦寺安楽律院として具現化されました。とほぼ同時に、上野の東叡山寛永寺には浄名律院(1666年開創)が、そして日光山輪王寺には興雲律院(1729年)が、それぞれ安楽律法流の本山として整備されたということのようです。

比叡山の延暦寺と安楽律院。安楽律院は、現在は廃寺となっているようです。
多くの建物が焼失し、現在はいくつかの遺構が残っていて、『るろうに剣心』のロケ地として使われたみたいですね
現在の浄明院(写真左下)と、寛永寺根本中堂、そして東京国立博物館(写真右側)

<まだ未読の資料>

大正大学・小此木輝之教授『安楽律院関係史料の調査研究

<関連note>

#わたしの旅行記

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