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特別展『中尊寺金色堂』と合わせて展示されている《大唐西域記 (中尊寺経)》……孫悟空と猪八戒は見つけられず……@東京国立博物館

東京国立博物館(トーハク)を、ぷらぁ〜っと散歩していたら目に止まった長い長いお経……なにこれ? というものが展示されていました。紺地に金色の仏画が描かれ、本文には1行ごと交互に金と銀で文字がびっしりと記されています。

毎回思いますけど、この文字の量は、一般的な現代人がイメージする「写経」とはレベチですよね。「写経」といったら、だいたい想像するのは、摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)じゃないですか……その何倍もの長さを、ず〜っと集中して書くんだから、とてつもありません。

《紺紙金銀字大唐西域記 (中尊寺経) 巻第十》

それで仏画と文字を少し見てから、解説パネルをちらっと見たら……

なんと! 「大唐西城記」と書いてあるじゃないですか。え? 「西遊記なのこれ」? ってつぶやきながら解説を読むと、やはり玄奘三蔵の西域見聞録だとあります。あの三蔵法師ですよ……なんて思ったら、孫悟空とか沙悟浄とか、猪八戒のことなんかが記されているのかな? なんてアホなことを考えながら、また文字を(読めないので)眺めていきました。(ちなみに「大唐西域記」=「西遊記」ではありません)

↓ 冒頭には、ちゃんと「大唐西域記」と記されています。全12巻のうちの巻第十とのこと。びっしりと記された巻物が、あと11巻もあるんですね。

↓ 孫悟空も猪八戒も見当たりませんでしたが「沙門」という文字がありました!「有至邪國沙門在摩掲陀那●」と読めます。Google Bardに聞いてみたら、「摩掲陀国に沙門が到着したこと」なのだそうです。Wikipediaの「大唐西域記」の項を見ると、たしかに三蔵法師が歩いた数百の国の1つに「摩掲陀国」というのがあるので、たしかに沙悟浄なのでしょう……ただ、それしか分かりません。

いま解説パネルを改めて見てみると、これは「紺紙金銀字大唐西域記(中尊寺経)」だと書いてあります。わたしは観覧している時には、解説パネルをあまり読まず、カメラで撮って終わりです。なんだか、せっかく展示物の前に居るのに、展示物を見ないで解説を読んでいるのが好きではなく……。いつも解説パネルを熟読するのは、このnoteを記しているときです。

で、《中尊寺経》と書かれています。なに? と思ったら「この写経は奥州の藤原清衡が発願した5000余巻からなる中尊寺の一切経でした」と記されています。清衡といえば奥州藤原氏の初代です。前九年合戦と後三年合戦と、骨肉の争いが続いた当時の奥州。清衡は、そんな戦乱の真っ只中の時代に生まれました。後三年の役では、自身が当事者となり、棚ぼた的に奥州での支配領域を拡大していきます。

そんな、後三年の役が終わってから約20年後に、中尊寺の造営を開始。そして中尊寺が落慶(完成)した1127年に、71か72歳の清衡が奉納したのが、今回展示されている《紺紙金銀字大唐西域記 (中尊寺経) 巻第十》を含む五千余巻の一切経ということですね。(後三年の役=1087年終。1108年、中尊寺造営開始)

ちなみに中尊寺の落成式の時に、清衡が読みあげたと伝わっているのが、現在トーハクで開催されている特別展『中尊寺金色堂』に展示されている《中尊寺供養願文》です……正確には当時「写し」たと言われるもの。

《中尊寺供養願文》には、清衡が中尊寺を建立した「思い」が記されています。前述特別展の音声ガイドの訳文が、とても素敵な感じだったので、メモしておいたので、ここに記しておきます。

鐘の音がどこまでも響き渡る
官軍も守り戦った我ら蝦夷の別なく
鳥や獣、魚に至るまで
命絶たれた数は計り知れない
鐘の音が大地に響くごとに
ゆえなく命を落とした人々の魂が
浄土に導かれんことを

正直「ほんとにこんなこと書いてあるのか?」って疑いました。それで、近くにいた中尊寺のお坊さんに「音声ガイドで、こんなこと言っているんですけど、《中尊寺供養願文》には、本当にそんなことが書かれているんですか?」って聞いたんです。そうしたら、展示されている《中尊寺供養願文》の、中頃に書いてある言葉を読み上げてくれました。「この部分が、そういう意味になるんですよ」と。

じ〜んと、きちゃいました。なぜかは分かりません。

まぁ藤原清衡は、これを読んだ翌年に、73歳で亡くなりました。ご遺体はミイラにして、金色堂の本尊の後ろに、今もあるそうです。もちろん、ミイラについては、今回は展示されていませんけどね(棺は展示されています)。


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