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今季のトーハク「浮世絵の部屋」のテーマは……『北斎の変遷を見る』っぽいです

これから東京国立博物館(トーハク)へ行こうと思っていたら、台風の影響で昼過ぎから(?)休館になってしまったようです。ということで、先日見てきたものをnoteしていきます。

同館の浮世絵が展示されている部屋が、「葛飾北斎」特集になっていました……というのは嘘で、少しだけほかの絵師の作品も展示されています。

とはいえ、下の写真の壁面に並んでいる……20作品前後でしょうか……葛飾北斎ばかり。しかも「あぁこれって葛飾北斎だよね」と一瞥して誰でも分かるような……例えば神奈川沖浪裏のような……作品はありません。そして下の写真で言うと、展示室の奥のほうから(右から)「勝川春朗」→「可候」→「画狂人北斎」や「北斎」→「為一(いいつ)」→「卍(まんじ)」と、だいたい制作年の順に並んでます(制作年不詳の作品もありますから、どこまで正確かは分かりません)。つまりは、葛飾北斎の画風が、どう変遷していったのかが誰でも分かるように展示されています。

ということで、いつもは気に入った作品だけを撮ってきてnoteにアップしていますが、今回はこの一列に展示されていた全作品を、(間違っていたらごめんなさいですが……)展示順どおりにnoteしておきます。次回行くときに、このnoteを読みながら復習するための……ほぼほぼ個人的なnoteです。

なお、各見出しには北斎のペンネームを記しています。基本は、作品に記されている名前(号)に準じたものです。



「勝川春朗」(20歳〜35歳頃)…《唐子の書画》

今季展示されている北斎版画の中で、もっとも初期に作られただろうものが、《唐子の書画 A-10569-2873》……なのですが、唐子の書画ってなんですのん? ということで、英字タイトルを見ると「Chinese Boys Practicing Painting and Calligraphy」と記されています。英語のほうが100倍わかりやすい……。要は中国の男の子が書画を習っているシーンを描いているよということ。

「春朗画」と記されていることから、「勝川春朗」時代……20歳〜35歳頃の作品ということが分かります。

島根県立美術館のWebサイトを見ると、「勝川春朗」期の北斎作品が数多く確認できます。

「可候」(41歳〜44歳頃)…《伊達与作せきの小万 夕照》

《伊達与作せきの小万 夕照》は、揃物と言われる、いわば連作の1つで、ほかに《あづま与五郎の残雪》や《おはつ徳兵衛 秋月》、《お花粂之助 晩鐘》、《お染久松 春花》、《お花半七 落雁》の5図が確認されているそう。

Wikipediaによれば、「戯号として『時太郎』『可侯』『是和斎』などが『葛飾北斎伝』に紹介されている」ということです。当作には、左下に「可候」という画号が認められるので、享和期(1801~04)頃の作品とされています。

「画狂人北斎」(?歳頃)…《妙見宮》

北斎が44歳頃に描いたのが《妙見宮》です。

話は遡るのですが、寛政10年(1798年)、38歳前後の……当時は「宗理」を名乗っていた北斎は、北斎辰政(ときまさ)と名乗り始めました。この名は、北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰……柳嶋法性寺……にちなんでいるとWikipediaには記されています。この法性寺が、妙見宮と呼ばれていたんですね。なんで寺が宮(神社)なんだよ…とも思うかもしれませんが、まぁ江戸時代は神仏習合しているので、寺と神社は合体していたのでしょう。同じ場所や名前でも、現在とは全く別物の宗教だったと言っても良いかもしれません。

こちらの絵には、目立たない場所に「画狂人北斎」と記されています。

「画狂人北斎」(44歳頃)…《春興五十三駄之内 日本橋 品川へ二里》

「北斎」(?歳頃)…《よつや十二そう》

「今の西新宿にあたる四谷十二社(じゅうにそう)は、かつてこの地に紀伊熊野の十二所権現が勧請されたことに由来します」「板ぼかしによって陰影がつくり出され、洋風版画風の作品に仕上げられています」

画面左上には画題の「よつや十二そう」と「ほくさいえがく」の款記が横倒しの平仮名で記されています。

「前北斎為一」(73歳〜74歳頃)…《百合》

ボストン美術館の解説によれば「葛飾北斎の作品《百合》は、彼の未題シリーズ《横大判花鳥》に属する一枚」だということです。また「江戸時代の天保4~5年頃(1833-34年)に作られ、版元は西村屋与八(永寿堂)です」と解説されています。

浮世絵についは……あくまでネットで公開されている範囲では……欧米の美術館の解説は、日本のそれと比較すると、とても丁寧です。江戸幕末から明治の頃には、日本人よりも欧米人のほうが「浮世絵を高く評価していた」という話をよく聞きますが……あくまでネットで公開されている範囲では……今も欧米のほうが大切に扱っているような印象を受けます。

特に、今回のボストン美術館や大英博物館の解説ページを読むと、重視されているのが落款です。《百合》であれば「前北斎為一筆」と記されていることが書かれていて、幕府の検閲済みであることを示す「極(きわめ)印」があること……そして版元は西村屋与八(永寿堂)だということ。↓

さらにトーハクの《百合》には、左下に画商の「林忠正」の印が押してあります ↓。彼が浮世絵の優作や状態の良いものを欧州に「流出させた」かのように一部で言われていますが……残念ながら彼がヨーロッパに売っていなければ、今ほど浮世絵が世界的に評価されていなかったかもしれませんし、そもそも大事に保管されることもなかった可能性も高いように思います。(同時期に欧米に渡った、ほかの古美術についても同じことが言えます)

同じ作品でも「林忠正」の印がある方が価値が高いとみなされる……という話を聞いたことがありますが……本当かどうかはわかりません。

「前北斎為一筆」(74歳頃)…《鵤(いかる) 白粉花》

《鵤(いかる) 白粉花》については、大英博物館で調べてみました。描かれたのは1834年だと断定されています。北斎が為一(いいつ)と名乗っていた74歳頃に描いたということ。

俳句が記されています。これは「白粉の花や 牡丹のうしろ垣」と書かれているそうです。詠んだのは、瑤台女という女性……なのですが、この女性が何者なのかは不明です。これらは大英博物館の解説に全て書かれています。

「極(きわめ)」印の下に、また「永寿堂」(西村屋与八)のハンコが捺してありますが、前のものと少し異なりますね。

「前北斎」(70歳頃)…《百物語・笑ひはんにや》

《百物語・笑ひはんにや(笑い般若)》については、英語版のWikipediaで、やたらと詳細が記されています(日本語版は無し)。

葛飾北斎(1760–1849)による幽霊図(ゆうれいず)ジャンルの浮世絵木版画シリーズで、1830年頃に制作されました。このシリーズは、北斎が最も有名な作品である「富嶽三十六景」シリーズを制作していた時期と同時期に作られました。タイトルが示すように、このシリーズは100枚の版画を作る予定でしたが、実際には5枚しか制作されていません。このシリーズの制作を企画したのは版元の鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)と北斎でした。

北斎がこのシリーズに取り組んでいたのは彼が70代のときであり、彼の最も有名な作品は風景や動植物を描いたものですが、江戸時代の迷信にも敏感でした。その結果、当時語られていた人気のある怪談を題材にしたこれらの妖怪の版画が生まれました。これらの版画は、「百物語怪談会」(ひゃくものがたりかいだんかい)というゲームで語られる物語のシーンを描いています。

Wikipedia(英語版)

後半のゲームに関しても詳細が記されていました。ゲームというよりも遊び…ですね。この《百物語》シリーズが、「百物語怪談会(ひゃくものがたりかいだんかい)」の伝統を参照して作られているということがWikipediaには記されています。「百物語怪談会」とは、夜に稲川淳二さんのような人が集まり、民間伝承の怪談や自分の体験談を語り合う日本の遊び……とのこと。百本のろうそくの光のもとで語られ、話が終わるたびに一本のろうそくが消されていきます。

岡本綺堂さんの『百物語』を、窪田等さんの朗読で聞くと、百物語の雰囲気をつかみやすいです。


作品を見ると、たしかにろうそくの光で見たら不気味だろうなと思わせます。そして作品の左上には、作品タイトルと、作者名と版元が記されています。

「前北斎筆(さきのほくさいひつ)」は良いのですが、「霍喜(板)」と書かれているように見えます。「霍」を調べると、音読みでは「かく」。版元の鶴屋喜右衛門は、鶴喜や遷鶴堂、仙鶴堂などと号していたそうなので「霍喜(かくき)」とも書いていたのかもしれません。

「為一(いいつ)」(73歳頃)…《千繪の海・甲州火振》

《千絵の海》は、全十図からなるシリーズで、「富嶽三十六景」が発表された後の1833年頃に出版されたとされているそうです(東京伝統木版画工芸協同組合HPより)。同シリーズの特徴を「日本各地の海や川を舞台に、変幻する水の表情と、漁業に携わる人々が織り成す日常がいきいきと描かれている。(中略)北斎が追求し続けたモチーフである“水”」の表現を存分に楽しむことができる作品」と記しています。

その中で、今回展示されているのは「甲州火振(ひぶり)」というシーンです。

先述したページでは「火振りという漁は、深夜に水面を照らして魚を突くか掬う漁法のことで、別に夜振・焼網・夜焚きなどとも呼ばれている」としています。

調べていたら、日本天文学会で面白い資料を見つけました。大阪府立の北野高校の生徒たちが書いた『天文学的側面から見る絵画の正確性 天体による絵画の描かれた位置の特定』という論文で、この『甲州火振』は、どこで書いたのかを検証していました。

それによれば、いちおう山梨県(甲斐国・甲州)の桂川の上流だろうとしています。ちなみに同論文によれば、絵にある松の枝先に描かれている星座は「みずがめ座」だろうとしています。天文を全く知らないので「まさか北斎が実際の星座を描いていた」なんて思いも寄りませんでした。でも、言われてみれば北斎は、北辰信仰(妙見信仰)の熱心な信者だったということなので、現代のひとよりも星をよく観察していたのかもしれませんね。

ちなみに日本天文学会のホームページには、同高校の生徒による論文『天文学的側面から見る絵画の正確性 ゴッホ作「糸杉の見える道」』も掲載されていました。

北野高校……関東育ちのわたしにとっては、ほとんど未知の高校なのですが……わたしの中では山田五郎さんの出身校として有名。YouTubeチャンネルでは、同じく同校OBで画家の佐伯祐三さんを紹介する回で、高校の時の思い出を語られていたのを思い出しました。ほかにも橋下徹さんが出身ということで、大阪では、かなりの名門なのでしょうね。

「前北斎為一」(70〜71歳頃)…《富嶽三十六景・五百らかん寺さざゐどう》

今季のラインナップで、かなりお気に入りの作品の1つ……誰もが知る《富嶽三十六景》シリーズの中の「五百羅漢寺のさざえ堂」を描いたものです。ボストン美術館の解説によれば、天保元年〜2年(1930〜31年)の制作。

さざえ堂と言えば、唯一上ったことのある、会津若松のさざえ堂を思い出します。建物の構造が不思議で、螺旋状の階段を上っていくと最上段に達して、そのまま先を進むと一番下の出口を出ることになります。最上段を頂点に、行きと帰りで違うルートなんですよね。

で、北斎が描いたさざえ堂は、どんな構造だったのかわかりませんが、もとは本所の大島にあったそうです(現在の五百羅漢寺は目黒にあるそう)。トーハクの解説によれば「ここにさざえ堂と呼ばれた螺旋構造の通路がめぐる三階建ての建物があり、階上の見晴台からの眺望が評判でした」ということなので、会津のそれと同じような構造だったのでしょう。

こういう浮世絵を見ていて面白いのが、こういう観光地を描いた作品にも、武士と町人が分け隔てなく描かれていることです。わたしの時代は、中高の歴史の授業で「江戸時代は士農工商という階級制度があり、武士はほかの階級を切り捨て御免にできた」みたいな話を、歴史の先生が平気でされていました。いまそんな話をされたら「おいおい、そんなわけないだろ」と説明したくなりますが……当時はネットもなく、よっぽど興味がなければ、歴史の先生が浮世絵を見る機会もなかったのかもしれません。(ちなみに武士が他人を切ったら、被害者が町人だろうと捕らえられていました)

発音は今まで「さざ堂」だと思ったんですけど、正確には「さざ堂」だということを初めて知りました。前述のボストン美術館のサイトにも「Sazaidô」とあるので、「ゐ」で間違いないのでしょうね。もはや正確に発音することはできませんが……。

「前北斎為一」(70〜71歳頃)…《富嶽三十六景・駿州片倉茶園ノ不二》

こちらも富嶽三十六景ですね……ということで、為一時代に描かれていますし、版元は西村屋与八(永寿堂)です。

「前北斎為一」(73歳頃)…《諸國瀧迴リ・木曽海道小野ノ瀑布》

『諸國瀧迴リ』は、日本各地の滝を主題とした8図のシリーズです。本図は州上松宿付近にある小野の滝を描いたもの。水量の豊富なが崖から垂直に落下し、水しぶきを上げています。珍しそうに見上げる旅人たちと比べると、その大きさがわかるでしょう。

解説パネルより

↑ 検閲済みということで「極(きわめ)」印があり、その下に版元の永寿堂のハンコが捺してあります。↓ 前北斎為一筆……ということで、前は北斎だったけど、今は為一と名乗っております……という感じですね。やっぱり「北斎」っていう名前が有名で、なかなか「為一です!」だけではだめで、版元の西村さんから「前(さきの)北斎」と書いてよ……と言われていたのかもしれません。

「前北斎為一」(73歳頃)…《諸國瀧廻リ・美濃ノ国養老の滝》

「前北斎為一」(73歳〜74歳頃)…《諸國名橋奇覧・かうつけ佐野ふなはしの古づ》

先ほど、東京伝統木版画工芸協同組合のHPの文面を引用させてもらいましたが、こちらの《諸國名橋奇覧》についてもわかりやすく解説されていました。同ページによれば、この《諸国名橋奇覧》シリーズは、「富嶽三十六景」、「諸国瀧廻り」、そして「千絵の海」に続く、前北斎の風景版画シリーズの最後を飾った作品とのことです。なるほどねぇ……それで今季のトーハクの展示でも、同じような順番で展示されていたんですね。

全国の珍しい橋をモチーフに全11図を描いたそうですが、なかには伝説上の橋も描かれているそうです。にゃるほど……。今季描かれた《かうつけ佐野ふなはしの古づ》は、どうだったのでしょうね。ちなみにタイトルは「上野(こうずけ)佐野舟橋の古図」だと思うのですが、最後の「古図」であっているかは自信がありません。それでトーハクのパネルにある英字タイトルを確認したら……

"Funa Bridge in Sano" from the Series Novel Views of Famous Bridges from the Provinces

たいてい英語タイトルって、シンプルでわかりやすいのですが……「Funa Bridge」はないでしょう……と思ってしまいました。

舟橋とは……と偉そうに解説するまでもなく……舟を並べて、その上に板を渡した橋ということになります。千葉県の船橋は地名になっていますね。欧米では舟橋ってないのか? って言ったら、絶対にあるんですよね。今でも軍用で、同じような仮設の橋が架けられています。

撮るのを忘れましたが、永寿堂の西村屋与八が版元です。「永寿」……って、なんか聞いたことある名前だなぁと思ったら、近所というか休日などの緊急時にお世話になっている病院が「永寿」でした……。関連は……ないでしょうね。

「前北斎為一」(72歳頃)…《詩哥冩真鏡・李白》

城西大学水田美術館の解説によれば、「詩哥写真鏡」シリーズは、和漢の著名な詩歌に想を得た揃物で、10図が知られるそうです。シリーズタイトルには、「『真を写』した鏡物(=歴史物)とあるが、実際は北斎の卓越した想像力が作り出したファンタジーである」としています。

メトロポリタン美術館の解説によれば、1832年(72歳頃)の作とわかったのですが、その解説の文章がポエムな感じが濃くて、意味がさっぱり分からなかったので、大英博物館の解説を読んだら、むちゃくちゃわかりやすかったです。

中国の詩人、李白(701–762)は、滝を見つめながら心を奪われ、その傍らで二人の若い従者が彼を支えています。李白はその強烈な情熱と酒好きで知られ、中国の偉大な詩人の一人として名を馳せています。彼は中国南東部の廬山にある「香炉峰の滝」を見ながら、二つの有名な詩を詠みました。北斎は、この詩のうちの一つ、四行からなる第二の詩を念頭に置いていたと思われます。詩の一部は次のように訳されています(アルフレッド・ハフト訳):

「香炉峰の陽光に、紫の雲がたなびき、
遠くから見れば、滝が川の前に垂れ下がる。
その流れは三千尺も真っ逆さまに跳ね落ちる。
それとも天の川が高天原から流れ落ちているのだろうか?」

この人気のテーマが、北斎の現在のデザインほど大胆に描かれたことは稀です。北斎は、縦長の形式を巧みに利用し、構図を縦に二分することで、独特の視覚効果を生み出しています。北斎は、この若い従者のモチーフを、橘守国(1679–1748)が1745年に描いた『絵本根挿栽宝(えほんねざしたから)』の同じテーマの挿絵から借用した可能性があります。

大英博物館の解説文

李白によるオリジナルの漢詩は、以下のようなものです。ちなみにChatGPTに教えてもらったのですが、珍しく嘘ではなかったです。

この漢詩を読んで、前北斎が咀嚼うえで、インスピレーションを得て描いたのが、上の作品ということでしょうね。

望廬山瀑布
日照香炉生紫煙,
遙看瀑布掛前川。
飛流直下三千尺,
疑是銀河落九天。

版元のハンコを撮ってくるの忘れました……これは、どこの版元のハンコでしょう? 次に行ったときに、また撮っておきたいと思います。

画像:メトロポリタン美術館
これ……ハンコではなく印刷ですね……そして極印も見当たらない…

ということで、城西大学のページを読むと……「森屋治兵衛は幕末の大版元だが、良質の彫師を抱えられず、森治の悪彫りとしても有名」なのだそうです。

「前北斎為一」(73歳頃)…《鯉の滝登り》

「登竜門(とうりゅうもん)」という言葉は、人生における成功への入り口を意味します。この名前は、中国の黄河上流にある「竜門(りゅうもん)」と呼ばれる急流の下に集まる鯉の伝説に由来しています。多くの魚はそれ以上進むことができませんが、鯉が急流を登ることができれば、竜になります。そのため、人生の成功を象徴するものとして、滝を登る鯉を描いた絵画が数多く制作されました。この作品もその一つかもしれませんが、北斎の主な関心は、登る鯉ではなく、下の方でこちらを見ている鯉のようです。滝の下、鯉の体、そして絵の右側の黄色い岩に描かれた白い水の飛沫の連続性は、北斎の特徴である細部へのこだわりを示しています。

大英博物館の解説

版元は、「森屋治兵衛」さん。

「前北斎為一」(73歳頃)…《牧馬》

これに関しては、本当に北斎なの? と疑ってしまいました。気のせいかもしれませんが、正直言って……下手っぴ……ではないですかね? 全体の色使いも、なんだか違和感が……たしかに空などはベロ藍などですけれど……えぇ〜、これは北斎じゃないでしょぉ〜……と思いながら眺めてきました。まぁお馬さんの表情がかわいらしいですけどね。

北斎が描いたほかの馬を見てみましたが……ここまでではありませんが、「馬を描くのは苦手だったのかも……」と少し思いました。ということで版元はどこなのか、わかりません。

「前北斎為一」(67〜72歳頃)…《鎌倉の權五郎景政 鳥の海彌三郎保則》

北斎唯一の武者絵シリーズとのこと。出版したのは、地本問屋の山本屋平吉。山平、栄久堂と号していたそうです。アムステルダム美術館の解説によれば、1827 - 1832の期間に描かれたものだそう。

すみだ北斎美術館のHPに、詳細が記されています。

「前北斎卍」(75歳頃)…《百人一首うはか縁説・清原深養父》

とうとう北斎の「卍(まんじ)」時代の作品が出てきました。

卍は、ドイツ人のお騒がせ者が似たようなマークを使ったことから、今ではドイツ国内の公共の場で、展示・使用すると処罰されるそう(持っていること自体は禁止されていないみたい)。卍マークはOKかもしれませんが……良い顔はされなそうですね。

で、この卍マークってなんだろ? ってWikipediaを読むと、けっこうおもしろいです。わたしは仏教系のマークなんだろうなぁと漠然と思っていましたが……仏教系以外でも、よく使われているマークです。おそらくドイツ人のお騒がせ者が出てくる前までは、ヨーロッパでも、よく見かけるマークだったのかもしれません。

それは良いとして、今回の《百人一首うはか縁説》は《百人一首うはかゑとき》であり、後半については「乳母か絵解き」となります。それでもなんのことか分かりませんが、「乳母が子どもに百人一首をわかりやすく絵解きするための絵」ということなのだそう。読み聞かせ用の絵という感じでしょうね。

絵の右上を見ると、白地の四角いスペースに、清原深養父という名前が記され、その横に和歌一首が添えられています。

夏の夜は まだよひながら 明けぬるを
雲のいづこに 月宿やどるら

ちなみにChatGPTに解釈してもらったところ、下記のような感じでした。

この和歌は、夏の短い夜を表現しています。まだ宵のうちだと思っていたのに、いつの間にか夜が明けてしまったことに気づき、月がどこの雲に隠れているのかを尋ねることで、月の美しさや時間の流れの速さを惜しんでいる気持ちが込められています。

で……この一首から、なんでこの絵なのさ? と、わたしはピンときませんでしたけれど、まだまだ教養が足りないのか、トンチ力が及ばないのでしょう。次に見るときには歌の意味を考えながらじっくりと考えたいと思います。

「前北斎卍」(75歳頃)…《百人一首うはか恵とき・文屋朝康》

珍しく、同じシリーズから2作品が展示されていました。こちらは、文屋朝康さんの一首。

白露に かぜの吹きしく 秋の野は
つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

この歌を北斎は、夏の蓮池での光景に置き換えているそうです。

おまけ……葛飾北斎の三女「葛飾応為」の《月下砧打美人図》

葛飾応為(おうい)と言えば、北斎の娘で、長く一緒に活動していたことで知られています。わたしはそれほど多くの応為の作品を見たことがありまんが、今回は1作…《月下砧打美人図(げっかきぬたうちびじんず)》…だけ展示されていたので、ここにnoteしておきます。

出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

まずはColBaseで全体像を……。大きな作品は映り込みが目立つのでColBaseに限ります。

そういえば、トーハクへは週末の日曜日に行ったのですが、その日は毎月恒例の国立西洋美術館の平常展に、無料で入館できる日でした。トーハクへ行く前に西洋美術館へ行ってきたのですが(激混みすぎだったので、すぐに出てきてしまいました)、同館の基礎となる所蔵品は、松方幸次郎さんのもの……松方コレクションだったというのは、よく知られています。

それで思い出したのですが、トーハク所蔵の浮世絵作品も、かなり多くの松方コレクションが含まれているということ。松方コレクションのうち、西洋美術作品は国立西洋美術館に所蔵されましたが、浮世絵はトーハクへ収められたということです。

今回の作品のなかにも、松方コレクションが含まれていたのかもしれないなあと……ちょっとだけ思いました。

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