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トーハク特集『中国書画精華』の“書”を紹介……と言っても難しいので、多くは語りません/語れません

東京国立博物館(トーハク)では、特別展『やまと絵』が開催されているのに呼応するように、その「やまと絵」の対局……または比較対象……にある唐絵または漢画の、集大成ともいえる作品を集めた特集『中国書画精華』が12月24日まで開催されています。

その書画のうち、前回は同特集の前期に展示されていた“画(絵)”をnoteしていきましたが、今回は“書”を貼り付けていきます。貼り付けていくという通り、それらの作品に関して、わたしが何かを語れるような知識は持ち合わせていませんので、淡々と撮ってきた写真を貼り付けていくだけです。いつか……これらの作品の良さがどこにあるのかを、分かる日がくれば良いなぁとは思っています。

ちなみにこれらの作品画像に関しては、そのほとんどが(すべてかも)、トーハクの画像アーカイブで提供されていると思いますので、よりクッキリとした画像データが必要な方は、そちらを調べてみると良いかと思います。以下から、作品名や作者などで検索すると見つけられます。


■国宝《的蔵主あて進道語》了庵清欲(1288~1363)筆・中国 元時代・至元7年(1341)

《的蔵主あて進道語》了庵清欲(1288~1363)筆・中国 元時代・至元7年(1341) 松平直亮氏寄贈

了庵清欲は元時代の禅僧。古林清茂の法嗣で、入元の日本僧とも交遊しました。本作は本覚寺(浙江省)に住した了庵が、日本僧の的蔵主に宛てて修道を激励した書。鋭くも温雅な字姿です。南北朝時代に請来されたと思われ、江戸時代には茶屋四郎次郎、松平不昧らの手を経て、僧侶や茶人に賞玩されました。

解説パネルより

明ゝ古仏心。的ゝ西来意。日用見行中。還同水投水。一漚未発当自観。脚頭脚尾何漫漫。繊塵飛来白日黒。大地撮入毫毛寛。汝離扶桑到中国。消尽平生煩脳惑。掲翻蔵海急翻身、戴角菸菟添両翼。海東的蔵主。訪道中華徧依名尊宿。所守確然不可抜。挈包相従。煩帰蔵司。職満求語為進道之助。因為書此。時至元七年正月十七日。本覚清欲。

ColBaseより

以下のハンコが捺してあるそうです。
「天台沙門清欲了菴章」白文方印、
「少林心印」朱文方印
「夢竟先□」朱文方印

上の漢文をChatGPTに訳してもらったところ、下記のようになりました。

明確な古代仏教の心意(明明古仏心)や西から来た理念が(的的西来意)、日々の行動の中で自覚され(日用見行中)、まるで水が水に帰るかのように(還同水投水)、一滴も発さずに自らを見つめるべきです(一漚未発当自観)。足の先から足の先まで、あらゆるものが何とも長々と続いています(脚頭脚尾何漫漫)。微細な塵が舞い上がり、白昼が黒くなる(繊塵飛来白日黒)。大地は毛穴から広がり(大地撮入毫毛寛)、君は日本を離れて中国に来ました(汝離扶桑到中国)。一生の悩みや心の迷いが尽き(消尽平生煩脳惑)、掲げていた海を急いで身を翻し(掲翻蔵海急翻身)、角を戴き、煙管を添え、両翼に風を感じながらいます(戴角菸菟添両翼)。海の東にあるこの蔵主は(海東的蔵主)、中華の道を訪れ、その名に倣って泊まりました(訪道中華徧依名尊宿)。守るべきものが確かで、抜くことのできないものです(所守確然不可抜)。袋を持ち、仲間とともに(挈包相従)。煩わしいことは蔵司にまかせ(煩帰蔵司)、職が充実し、言葉を求めて進道の助けになるように(職満求語為進道之助)。それゆえに、これを書きました(因為書此)。時は元の七年、正月十七日。了庵清欲。

ChatGPTによる現代日本語訳

なんとなくしか意味が分かりませんが、なんとなく良い感じの文章のような気がします。100回くらい声に出して読んでみたら、もっと意味が心に染みてきそうな気がします。こういう意味は、記されていなくても良いので、なんて書いてあるのか、漢文が展示パネルに記してあると、とても嬉しいんですけどね……。

■国宝《古文尚書巻第六》筆者不詳・中国 唐時代・7世紀

『尚書』は、孔子が編纂したと言われている、古代中国の尭舜ぎょうしゅんから秦の穆公ぼくこうまでの歴史を記した経典『書経』のこと。……『尚書』=『書経』のことらしいです。

漫画・アニメ『キングダム』の主人公の一人、大王の嬴政えいせいは、中国を統一した始めての皇帝として……始皇帝と呼ばれています。そんな彼が皇帝となると、医薬・卜筮・農事以外の書物の所有を禁じ、秦以前の歴史書や書経・詩経・諸子百家の書物を、焼き尽くします。

そんな秦の焚書ふんしょのときに隠された『尚書』が、漢時代に、壁の中から見つかりました。その見つかった『尚書』を、当時の人にも読めるように、漢時代の通行文字(今文=きんぶん)で書き改めたので、「今文尚書」と呼ばれるそうです。

一方で、漢の景帝のとき、魯の恭王が孔子の旧宅の壁の中から見つかったものは、古い文字で書かれていたので、「古文尚書」といわれています。ということで、今回トーハクで展示されているのは、こちらの漢の時代に見つかった「古文尚書」の方です。

7枚の紙を継ぎ合わせて、各紙に21行の墨の罫線を引き、注は2行に書写しています。巻首と巻末に欠けた部分があるそうですが、本文の大部分が残っています。唐時代初期に書写されたと考えられるもので、文中に平安時代中期の、朱と墨の訓読の書き入れがあって、当時の尚書研究の内容を伝えています。

本巻の紙背には、東洋文庫と宮内庁に伝わるものとともに、鎌倉時代の学者、高辻長成(たかつじながなり)が著した年号に関する研究書『元秘抄』(げんぴしょう)が書写されているそうです。

《古文尚書巻第六》筆者不詳 中国 唐時代・7世紀

■重文《鄱陽復道者あて偈頌》虚堂智愚(1185~1269)筆・中国 南宋時代・13世紀

《鄱陽復道者あて偈頌》虚堂智愚(1185~1269)筆 中国 南宋時代・13世紀

冒頭の「相逢道人」を頼りにぐぐってみたら、下記の文章が引っかかりました(中国語サイト)。筆者は释智愚とあるので、虚堂智愚の作ということで間違いなさそうです。

相逢道人漆双瞳,衣衫零落迎秋风。
甘将百骸作泥土,冷笑万事如展蓬。
当今祖道薄如纸,

(上の詩の続き)
瓦缶雷鸣闹人耳。
正音却作一线悬,两手枕胸泪如洗。
行行不惜两茎眉,魔宫虎穴俱探窥。
山穷桥断始得路,伎俩尽时方见伊。

記したのは、南宋の僧である虚堂きどう智愚ちぐさんです。法孫に京都・大徳寺を開山した(日本人の)宗峰妙超がいます。そのためか、同寺と緊密な関係をもつ茶の湯では、虚堂の墨跡が珍重されたそうです。

解説パネルには「本作は鄱陽 (江西省)の復道者に宛てた7言12句の送別の偈頌げじゅの前半5句です。神谷宗湛そうたんの『宗湛日記』から、慶長6年(1601)に茶会の床飾りとされたことが知られます。」とあります。

以下は、GoogleのBardなどを頼りに、解釈を試みたものです。

相逢道人漆双瞳,衣衫零落迎秋風。
道人と出会い、その漆黒の瞳に心を奪われた。衣服はボロボロで、秋風に吹かれながら歩いている。

この一節は、道人と出会った作者の印象を表現したものです。道人の瞳は漆黒で、深い洞窟のように見えます。その瞳に吸い込まれるように、作者は道人に惹かれていきます。道人の衣服はボロボロで、秋風に吹かれてはためいています。しかし、その姿には、物質的なことにこだわらない、自由な生き様がうかがえます。

甘将百骸作泥土,冷笑万事如展蓬。
甘んじて百骸を泥土となし、冷笑して万事を展蓬(はらんぽう)と為す……喜んで(甘んじて)自分の肉体(百骸)を泥土のようにして捨て、冷笑して世の中の出来事(万事)をはらんぽう(儚い、無価値な)とみなす。つまりは……命を捨ててでも、真理を探求する。世の中の出来事は、すべて儚いものだ……という意味。

Bardによれば、この一節は、道人の生き様を表現したものだそうです。道人は、命を捨ててでも、真理を探求することをいといません。世の中の出来事は、すべて儚いもので、執着すべきではないと考えています。

当今祖道薄如紙,瓦缶雷鳴闹人耳。
今は昔の道徳が薄れ、世の中は騒々しく乱れています。

この一節は、道徳の衰退を嘆いたものです。道徳は、薄紙のように薄れてしまい、世の中は騒々しく乱れています。

トーハクに展示されている作品では、この「当今祖道薄如紙」……道徳が紙のように薄っぺらいものになってしまった……と嘆いている文節で終わります。ただ、この一文には続きがあります。

正音却作一线悬,两手枕胸泪如洗。
正しい音は、一本の糸のように細くなってしまいました。両手で胸を抱え、涙が止まりません。

この一節では、改めて道徳の衰退を悲しんでいます。正しい音は、一本の糸のように細くなってしまいました。道徳を守ろうとする人々は、苦しみながらも、正義を貫こうとしています。

行行不惜两茎眉,魔宫虎穴俱探窥。
眉毛を惜しまず、魔宮や虎穴も探り当てる。

道徳を守るために、あらゆる困難に立ち向かう決意を表明したものです。眉毛を惜しまず、魔宮や虎穴にも分け入っていく。それほどまでに、道徳を守ろうとする強い意志を持っています。

山穷橋断始得路,伎倆尽時方見伊。
山が尽きて橋が断たれて初めて、道が開ける。技巧が尽きたときに、初めて真理に触れることができる。

この一節は、道徳を守るためには、困難を乗り越え、真理に触れることが必要であることを説いたものです。山が尽きて橋が断たれて初めて、道が開けます。技巧が尽きたときに、初めて真理に触れることができます。ちなみに「伊」というのは、真理を指す言葉だとBardは言うのですが、改めて「本当にそうなのか?」と聞くと、「本当です」と言って「真理を具体的な言葉で表現することが困難な場合、“伊”という代名詞を用いることがあります」としています。

このように、この詩は、道徳の衰退を嘆き、道徳を守るために立ち向かう決意を表明したものです。作者は、道人と出会ったことで、道徳の重要性を再認識し、自らも道徳を守るために行動することを決意したのでしょう。

■重文《行草書五言古詩軸》即休契了(1269~1351)筆・中国元時代・14世紀

《行草書五言古詩軸》即休契了(1269~1351)筆・中国元時代・14世紀・服部禮次郎・悦子氏寄贈

即休契了は元時代の禅僧。松源派の虎巌浄伏の法嗣で、金山龍游禅寺(江蘇省)の住持を務め、門下に日本僧の愚中周及がいます。孟浩然の詩を書写した本作は愚中が帰国に際して請来したとみられ、即休最晩年の書と考えられます。気迫に満ちた筆致で、重厚な線と堂々たる字姿は、蘇軾の書を想起させます。

ColBaseより

ColBaseを調べたら、原文が分かりやすく記した画像がアーカイブされていました。ただ、これを文字起こししていくのも大変なので、最初の1行を起こして、それをググってみたら、複数の漢籍サイトが見つかりました。その中で、中国版のWikisourceには、下記のように記されていました。《過龍泉寺精舍》と題してあったのですが、この題の意味は分かりません。

《過龍泉寺精舍》
亭午聞山鐘,起行散愁疾。尋林採芝去,谷轉松翠密。 傍見精舍開,長廊飯僧畢。石渠流雪木,金子耀霜橘。 竹房思舊遊,過憩終永日。入洞窺石髓,傍崖探蜂蜜。 日暮辭遠公,虎谿相送出。

「亭午聞山鐘,起行散愁疾。」
正午(亭午)に山寺の鐘の音を聞き、立ち上がって憂愁を散らそうと出かける。
「尋林採芝去,谷轉松翠密。」
林の中を探して(尋林)芝草を採りに行くと、谷が曲がり(谷轉)、松の木が青々と茂っている(松翠密)。
「傍見精舍開,長廊飯僧畢。」
近くに寺院の別棟(精舍)が開いているのを見、長い廊下で僧侶たちが食事を終え(畢)ている。
「石渠流雪木,金子耀霜橘。」
石でできた水路(石渠)には、雪のように白い木が流れて、金色(金子)に輝く霜に覆われた橘が見える。
「竹房思舊遊,過憩終永日。」
竹でできた部屋に昔の遊び(舊遊)を思い出しながら、一日中休憩する(過憩)。
「入洞窺石髓,傍崖探蜂蜜。」
洞に入って石の髄をのぞき見し(窺)、崖の近くで蜂蜜を探す。
「日暮辭遠公,虎谿相送出。」
日が暮れて、遠い寺の僧侶に辞別し(辭)、虎溪(虎谿)を一緒に出て行く。

以上が「過龍泉寺精舍」……もとい、《行草書五言古詩軸》の解説です。実はこれトーハクの解説パネルに記されている作者「即休契了」で調べるよりも、「孟浩然」という筆者で調べた方が、多くの資料や引用サイトが見つかります。どういうことなのでしょうか……という疑問は、またの機会に調べたいと思います。

■《楷書離騒九歌巻》文徴明

《楷書離騒九歌巻》文徴明(1470~1559)筆 中国 明時代・嘉靖31年(1552) 高島菊次郎氏寄贈

文徵明(初名壁、字徵明、徴仲、号衡山)は明時代中期の蘇州芸苑の領袖。本作は83歳時に『楚辞』の「離騒」 「九歌」 を書写した一巻。王羲之書法を素地とした小楷の名品で、首尾一貫した清澄な細線に卓絶した技法と精神が窺えます。旧蔵者の徐琪のほか、兪樾や羅振玉、長尾雨山、黑木欣堂らの跋があります。

解説パネルより

文徵明(初名壁、字徵明、徴仲、号衡山)係明朝中期蘇州藝苑嘅領袖。呢篇作品係佢83歲嗰陣寫嘅,寫咗《楚辭》嘅「離騷」同埋「九歌」。用王羲之嘅書法為基礎,寫成嘅小楷係一件佳作,可以看出其卓越嘅技法同埋清澄嘅細線體現咗一貫嘅風采同埋精神。

こちらは何が書かれているかと言えば、以下の参考サイトを見ると、記してある文字が読めます。

<参考サイト>
漢詩と中国文化「離騷:楚辞・屈原の歌
岩波書店(PDF)
【屈原・離騷】原文全文

わたしも読んでいませんがw 原文の全文をChatGPTに流し込んで訳してもらったのが、下記になります。「これで全文ですか?」と問うたところ「はい、これで全文です」とChatGPTが応えたのですが……全文にしては、少し短いような気もしますけどね。

高陽の帝(天子)の苗裔(子孫)よ、我が皇考(先代の皇帝)は伯庸と称されました。摘み取るべき真実や重要なものを見抜き、それ(孟陬)に基づいて行動する。我が歳は庚寅より始まる。皇帝は見ており、詳細な初めを知る。尊号は正と呼ばれ、字は靈均となる。私の美しさは内にあり、その能力を高めていく。江離と芷(いずれも植物の名前)を追い、秋の蘭を取り、佩物として纏う(着る)。しかし、私は未だ及ばないかもしれない。歳月の流れに恐れる。朝には木蘭を手にし、夕方には宿莽の地を攬んだ(支配した)。日と月は速やかに過ぎ去り、春と秋が順番にやってくる。ただ草木だけが散り散りになる。美しい女性も老いて行くのではないかと恐れる。若くして力強い者を撫で、穢れを捨て去れば、何故この方針を変えないのか? 良い馬に乗り、速やかに走る。私の道を進む前に、先人の足跡を探す。
三皇五帝の純潔な道を守り、香辛料や芳香樹を摘み取り、香り高い花や草を収穫する。それは椒と桂や甘草であり、ただ香り豊かな蘇草だけではない!
堯と舜の誠実さが続き、道を守り、成功を収めた。しかし桀と紂の乱暴振りは、捷径を選んで歩み寄ることだった。ただ彼らの楽しみに迷い込むだけで、道は暗くて狭くなる。私の身体が被る苦難と、皇帝の失敗を恐れる。
突然走り去り、前の王の武功に追いつく。私は彼らの中身を見抜けず、讒言を信じて怒り狂う。私は災厄を知りながらも、忍耐して離れることができない。九つの天を指して正義だと言う。それは霊修のおかげだ。黄昏を期して、羌中道を探し、方向転換をする。初めは言葉を合わせたが、後悔して逃げ去り、他を求める。私は離別に耐え、霊修を数えて嘆く。私は蘭の畝を肥やし、百畝に広げ、夷と揭車を留め、杜衡と芳香を混ぜる。茂る枝葉を願い、時が来るのを待ち望む。枯れ果てても傷つけず、美しい花々の散乱を悲しむ。みんなが欲張りで貪欲になり、飽きることを知らない。私は自己を許し、人を量り、各々が心を起こし、嫉妬する。急いで追いかけ、私の心は急がせない。老いはゆっくりとやって来る。名誉が立たないことを恐れる。朝には木蘭の露を飲み、夜には秋の菊の花を食す。私は信じられる者と交わり、おおいくぼをし、木の根を引き裂いて花を作り、薜荔を通して落ちる花びらを糸で織りなす。椒と桂を屈折させ、蘇草で風に舞わせ、胡麻のひもでまとめる。私は前に修行し、世間の慣習には従わない。今の時代の人々には周知できていないが、彭咸が遺した教えに従おう。長い溜め息をついて涙を隠し、民の生活の多難さを嘆く。私は姱を修繕するのが好きだが、朝に説教し、夜に代わる。委ねられた美しさで優雅にし、髪をなでつけても良い。若くしても変わらないが、私の心を懲らし、九死に値することはまだ後悔しない。霊修の激しい怒りに苦しむが、最終的に民心を理解できない。多くの女性が私の蛾のようなまつげを嫉妬し、私を美徳が淫蕩だと囁く。時勢と技巧が悪くなり、規矩を破り、墨を背にして曲を追い求め、周囲の容姿を競う。孤独で灰色の街で、私は窮地に立たされている。死を選ぶことが亡命よりも良いとは言えない。鳥のように群れない者は、前世から固有の性質を持っている。方円が完璧に取り囲むことができるか、誰が異なる道を進みつつも共存できるだろうか? 心を折り、志を抑え、非難を我慢し、侮辱を受け入れる。清白な心で直面し、前の聖者の価値を確認する。後悔することなく道を説く。彼らの徳を見逃さず、世俗の規範に従わない。今の人々には理解されていないかもしれないが、皇天は公平で、民の徳を見て支える。聖人と賢者の行いを見習い、才能を授け、規矩墨を守り、間違いを許さない。天皇は私を無視し、民の美しい道を見逃している。多くの女性が私の眉を嫉妬し、私を淫らだと中傷する。時は明るさに欠け、誰が私の善悪を理解できるだろうか?民は好き嫌いが分かれ、ただこの一派だけが異なる。戸被りに艾を詰め、幽蘭は佩戴するには適さないと言う。草木を見ると、まだ得られていないものがある。珍しい香辛料を使い、椒と桂と甘草を味わい、霊氛の吉兆を占う。しかし、私の心は迷って狐疑っている。巫が夜に降りてくる時、香辛料と糧食を携えて求める。百の神々が準備を整え、九つの疑問が揃って迎える。皇帝が靈の力を掲げ、吉兆を告げる。「前進して上下に行き、矩矱の共通点を求めよ。湯や禹が威厳を持って合わせ、摯や咎が調和できる。中心の美を追求するのであれば、なぜ媒婦を使う必要があるのか? 崑崙の道に向かって歩み、周囲に広がるように道を修正せよ。雲霓を振り払い、玉鳥が啼くのを聞く。夜明けには天津で水を飲み、夕方には西の果てに至る。鳳皇は旗を振り、高く舞い上がる。私はこの流れる砂地を急いで進み、赤い水を辿り、そのまま任せて道を進む。司龍が橋を築き、西皇が私に渡りを命じる。私の旅路は多くの困難があり、車が待っている間は時間がかかる。道が左に曲がり、西海を指し示し、余車が千両で義玉軑が馳せる。八龍に乗り、雲旗を遊ばせ、精巧な節を持って志を抑え、神々しく飛翔する。九つの歌を奏で、韶を舞い、休日に娯楽を求める。皇帝の遊戯が私に迫り、昔の故郷に再び足を踏み入れる。僕らは馬の心を悼み、うねりを見つめて進まない。私は言う、「すでに終わりだ!」。国には人がいないし、誰もが私を理解していない。だからこそ、古都を懐かしむ。美しい政権を築くことはできず、私は彭咸の居場所に従うことにする。

下の画像の半分くらいのところまでが、屈原の『離騷』という詩です。そこから、「九歌 右東皇太乙」の右側からが、今度は『九歌』になります。

吉日兮辰良[1],穆将愉兮上皇[2]。
抚长剑兮玉珥[3],璆锵鸣兮琳琅[4]。
瑶席兮玉瑱[5],盍将把兮琼芳[6]。
蕙肴蒸兮兰藉[7],奠桂酒兮椒浆[8]。
扬枹兮拊鼓[9]。疏缓节兮安歌[10],
陈竽瑟兮浩倡[11]。
灵偃蹇兮姣服[12],芳菲菲兮满堂[13]。
五音纷兮繁会[14],君欣欣兮乐康[15]。

[1] 吉日に生まれ、幸運な辰(十二支の一つ、龍年)である。ここでは、良い日に生まれたことを喜びつつ、運気が良いことを祝っています。
[2] 穆やさしく、愉快である。上皇として尊ばれる存在。ここでは、上皇の愉快な姿勢をたたえています。
[3] 長い剣に触れ、玉の飾りをなでる。高貴で美しいものに触れることを詩的に表現しています。
[4] 美しい音が鳴り響き、琳琅とした音色が広がる。音楽や響きの美しさを称賛しています。
[5] 瑶瑯(美しい器)で覆われた座布団、玉瑱(玉でできた香炉)など、高貴なものが使われている様子を描写しています。
[6] 美しい花々を手に取る。ここでは、花を手に取ることが華やかで美しい瞬間であると表現されています。
[7] 蕙(香り高い植物)の料理が蒸され、兰(蘭)で装飾された席。香り高く美しい料理が供されています。
[8] 桂の葉で作った酒や椒(香辛料)入りの浆(液体)。高貴で華やかな酒の祝宴が開かれています。
[9] 枹(楽器)を振り上げ、鼓を叩く。音楽とリズムが会場を飾り立てます。
[10] 疏(ゆるやか)で緩やかなリズムで、心地よい歌が歌われる。穏やかな雰囲気の中で歌が楽しまれています。
[11] 竽や瑟などの楽器が奏でられ、広々とした音楽が広まる。音楽の調べが堂々と広がります。
[12] 霊(美しい)で優雅な服装。高貴で美しい服装に身を包むことを讃えています。
[13] 芳菲菲と美しい香りが広がり、堂内が華やかで満ち溢れている。美しい香りや花々が広がります。
[14] 五音(音楽の五つの音階)が入り交じり、様々な音楽が繁華に広がる。多彩な音楽が楽しまれています。
[15] 君主が喜びに満ち、康(幸福)である。君主が幸せであり、喜びにあふれていることを祝っています。

そのほか「雲中君」「湘君」「湘夫人」という歌が続きます。

「湘夫人」の次は「大司命」「少司命」「東君」「河伯」「山鬼」と続きます。

そして「国殤」と続き、最後が「礼魂」です。

これらの単語を調べれば、全文を見つけるのもたやすいはずです。原文が見当たりませんが、日本語訳については、下記が分かりやすいような雰囲気があります(わたしもまだ読んでいません)。

■《楷書玄妙観重脩三門記巻》趙孟頫

《楷書玄妙観重脩三門記巻》趙孟頫(1254~1322)筆 中国 元時代・14世紀

解説パネルもトーハクWebサイトの解説文も、書の門外漢には暗号レベルに難しい日本語でした……これらを足して2で割ると……

宋代に「天慶観」と呼ばれていた、蘇州城内の道教の教会(または道場)が、元の至元25年(1288)に「玄妙観」と改称され、同時に三門が改修されることになったといいます。その際に建てられた石碑の原稿を、趙孟頫が記したもの。趙孟頫は、王羲之の書法に傾倒していて、展示されている《楷書玄妙観重脩三門記巻》にも、その影響が見られるようです。

いちおう、解説パネルとWebサイトの解説文も添付しておきます。内容は、こちらの方が正確なのは、言うまでもありません。

宋代には天慶観と称されていた蘇州城内の道観が,元の至元25年(1288)に玄妙観と改称されて,額を賜ったため,三清殿と三門が重修された。そこで,牟ゲンが撰文し,趙孟フ(1254-1322)が揮毫した碑文の原稿である。三門記以外に,「玄妙観重脩三清殿記」も現存している。本巻は49歳から56歳の間の書写と考えられるもので,趙孟フの典雅な篆額を巻頭に見ることができる。

トーハクWeb解説文

蘇州の道教寺院、玄妙観は、元時代に改名されて額を賜った際、三清殿と三門を改修し、それぞれについて記念碑を建てました。本作は後者の碑文の原稿で、題額・本文は趙孟頫の書。趙は王羲之書法に傾倒し、碑文は唐の李邕を素地としました。完顏景賢、阿部房次郎らが旧蔵し、長尾雨山の箱書があります。

解説パネル

結局、何が記されているのか、原文を見つけ出せませんでした。6-7割は判読できる漢字ですが……それを書き起こしていくのも難儀なので、またの機会に譲りたいと思います。

それにしてもこの書を著した趙孟頫さんは、書画ともに人気のある方のようで、台湾の故宮博物院などにも所蔵作品が少なくないようです。たしかに、字が「ちゃんとしています」よね。

(最後の4行)集賢直学士朝列大夫行江浙等処 儒学提挙呉興趙孟頫書弁篆額。

■ほかに気になった文字など

《行書七言絶句軸》酒道人(生没年不詳) 筆|中国|明時代・17世紀|絹本墨書・市河三鼎氏寄贈

酒道人なる人物が春の情景を詠う詩を絹本に書写した一幅。旧蔵者市河米庵の『小山林堂書画文房図録』丙冊によれば、もとは印に「曹」字が僅かに読み取れたものの、改装後は色が落ちて全く読めなくなりました。米庵はこの書を蘇軾の流れを汲むとし、気宇が大きく朗らで酒道人の名にぴったりだと評します。

解説パネル
《行書五言律詩軸》林麟𤊻(1646~?)筆|中国|清時代・17世紀|絹本墨書・市河三兼氏寄贈

林麟焜(字石来、号玉巌)は、莆田(福建省)の人。康熙年間の官僚で冊封副使として琉球に渡りました。本作は體仁賢なる通訳官に贈った一幅。闊達な筆致で躍動感のある字姿は、蘇軾や米芾ら北宋の書法を想起させます。旧蔵者市河米庵は『小山林堂書画文房図録』己冊で、本作を琉球での作詩と推察します。

解説パネルより
《行書五律北方俚作詩軸》王鐸(1592~1652) 筆 | 中国 | 明時代・永暦4年(1650)・高島菊次郎氏寄贈

王鐸は孟津(河南省洛陽)の人。明清兩朝で礼部尚書などの高職に至った官僚、能書ですが、両朝に仕えた弐臣として批判され、書法も長らく評価されませんでした。王羲之らの書の臨模を徹底し、実験的な表現を試行して清新な行草書の作風を築きました。本作は高島菊次郎が愛玩し生涯座右に置かれた一幅。

解説パネルより
《行書五律北方俚作詩軸》王鐸(1592~1652) 筆 | 中国 | 明時代・永暦4年(1650)・高島菊次郎氏寄贈

以上、トーハク特集『中国書画精華』の、気になった“書”をnoteに残しておきます。明日からは、後期展示が始まります。ここで紹介した書の多くは、展示替えになってしまうと思いますが、後期も、同じくらいに価値の高い作品が展示されるはずです。時間を空けて、見に行きたいと思います。


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