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熱風の時代、虹色の煙

じわじわと毛穴から這い出すように湧き溢れた汗が、滴った。胡座の上にかけたタオルは、びしょびしょになったまま心許なく性器を覆っている。

僕は長い間、薄目で壁に掛けられた12分時計を眺め続けていた。長針が滑らかに一周し、短針が部屋の外より5倍の速さで時を刻んだ。


壁の12分時計がこの部屋の時間の流れ全てを支配し、否応なく僕らに時の流れを感じさせる。時間の流れが早まったのか、それともゆっくりになったのか、熱を持った頭ではよく分からない。

ただ時空的違和感が、痺れをともない頭に染み込んでいた。


僕はこのサウナに入って、2時間はいるのではないかと確信してかけているが、もちろんそんなはずはなかった。冷静になれば分かることも、熱風によって全てがぼやけて歪んでしまう。

横に座る池波は、僕よりも肉のついた身体にたっぷりの汗を飾りつけ、うなだれ目を閉じている。
黒ずんだの乳首のそばを、ずるりと汗が流れた。

僕の視線を感じ、池波が頭を上げた。

「きついのか?」

「いや」

池波はうんざりしたように再びうなだれた。


僕らは4人で温泉へ来ていて、コーヒー牛乳を賭けてサウナで我慢比べをしていた。しかし僕ら以外の2人は、早々に根をあげ出て行った。

一番早くサウナを出た者が、一番長くサウナに耐えた者にコーヒー牛乳を奢るという取り決めだった。
僕らは既に身銭を切る恐れはない。にもかかわらずここまで熱に苦しめられている理由は、悲しき貧困に他ならなかった。どうせ風呂上がりなんて冷たいものが飲みたくなるんだ。


「俺、実は大してコーヒー牛乳なんて好きじゃないんだよ」と僕は告白した。

そうするとすかさず、
「なら出ろよ」と池波は指摘した。

「いや」と僕はすぐに返した。「もう少し粘ろうかな」

僕は苦しかったが、一方で熱さに慣れ始めてもいた。それは妥協に似た感覚だった。

「そういえば、お前別れたらしいな?」と僕はサウナという場に相応しい問いかけをしてみた。
池波は微妙に口角を歪め、「ああ」と言った。
「どうして?」と訊いたが、池波は「暑いから」と答えた。
暑さでおかしくなってきているのだと思った。


そのようにして、意味の失われたやりとりをしていると、入り口の扉が開いた。
重々しい木のドアがゆっくりと開き、ゆっくりと閉まった。外から流れ込んだ、ひと掬いの冷たい風が心地良かった。

部屋には、南洋の島を思わせる木彫りの面を被った人物が入ってきて、僕らを見ていた。タオルを付けない代わりに、貝殻や金属製の腕輪や首輪を纏っていて、それらが擦れる鈍い音が妙に響いた。
首飾りには煙管がぶら下がっている。

その人物の肌は浅黒く、痩せて皮が垂れていた。
左肩のあたりに広くケロイド痕があり、性器は大きいが萎びていた。陰毛は半分白髪だった。
その身体つきから、顔は見えないが老人であると分かった。


そうした奇妙な出立ちの老人が、「見よ」と言い、首にかけた煙管を面越しに口に咥えた。
そして確かめるように2、3吸いして煙を出し、そのあととても濃い煙を吐き出した。

その煙は白色から薄い青色から紫色に変わり、それが緑色に変わり、オレンジ色に変わり、黄色に変わり、また薄い青色になった。

老人は再び、「見よ」と言った。

言われた通りに、僕らはそのような虹色の煙を見ていた。目を逸らしたくとも、煙に釘付けになってしまっていた。

視界いっぱいに煙が飛び込んでくるような錯覚を感じた。


煙はもやもやと形を変えたが、散り散りになることなく宙に浮かんでいた。風船のような形が横に伸びて飛行船のような形に変化し、エチゼンクラゲのような形に変わり、ヒトデのような形となった。

流動的な色と形のその煙を眺めるうちに、暗いものを感じ、僕の中になにかがこみ上げた。

それでもやがて煙は、ひとつの時代が去るように、静かに色を失っていった。隣をうかがうと、池波はもう煙からは目を逸らし、時計を凝視していた。

そのような僕らを老人は真っ直ぐに見据え、そしていなくなった。


友人が消え、老人が消え、僕らは残っていた。

僕は薄らぎゆくひとかたまりの煙に目を向け、池波は時計に目を向けていた。
僕はその煙を忘れまいと、まばたきもせず見つめていた。熱い空気の中で瞳が乾いて、涙が溢れても、僕はずっと煙を見つめ続けていた。

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