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4月の夕方、あたりはだんだんと暗くなっていった。まるで水に薄めた闇をまばたきごとに塗り重ねるようだった。闇は淡い青色をしていた。夜への変化を感じながら、その時僕は窓辺に腰掛け、ラムとともに本を読んでいた。

2時間前に部屋を満たした西日の威厳は、今ではかつての伝説のようだ。沈みゆく夕陽は、微かで、しかしたしかな熱を僕の頬に置いた。床も壁も机も全てが赤い光に染まった。光が真っ直ぐ氷を貫き、透明なラムの中で砕けた。
しかし空に浮かぶ火の玉のような太陽も、やがて春のぼんやりとした空気の中で溶け崩れ、うやむやとなってしまった。夕闇はその事実を隠すように、音もなくあたりにたちこめた。
その中で僕はずっと本を読んでいた。あと数秒で夜が出来上がるというくらいの頃、ふと本を閉じ、床へ視線を落とした。足元へさらりと風が滑り込んだ気がしたのだ。

部屋の床は長い間ワックスをかけていなかった。そのせいでところどころ色が薄くなり、木漏れ日のようなまだら模様をしていた。傷んだフローリングの溝は妙に陰影があり、カッパでも出てきそうだと思った。
なんの脈絡もなく、ふとそう思った。

そして、そんな非現実的な予感は見事に的中した。

年季の入った床板が押し上げられ、メキメキと音を立てた。そこから茶色い身体のカッパが出てきた。体はつるりとしていて、ペンギンのようにも見える。
「ふう...。」 口をすぼめたため息。
上半身を出したカッパは首だけこちらを向き、じっと僕を見つめた。

「悪いんだけど、そのラム貰えないかな?」と僕に尋ねた。その後、少し間を置いて「驚いたか?」と付け足した。
もちろん僕は驚いていた。しかしなにも答えず、青いポケット瓶をカッパのそばへ置いた。コトリとわずかに音がした。
カッパは、僕が問いを無視したことを特に気にかけてはいない様子だった。無言のまま瓶を手に取って、裏のラベルを1秒くらい眺めた。それから頭の皿へどぼどぼと注いだ。半分ほど残っていた僕のバカルディは空になった。瓶を軽く振って最後の一滴を入れると、
「ああ、美味いね。うん。」と呟いた。
「キュウリがあればよかったんだけど。」
「いや、別になくたって構わないよ。」
しばしの沈黙。
カッパはもう一度「驚いたか?」と聞いた。
やはり答えずに、「床の下に住んでいるの?」と尋ねた。
カッパはどうといったこともなく「そうだよ」と答えた。飾らない言い方だった。
「大丈夫。戻る時には床板はまたぴっちりとくっついて元通りだからさ。」

僕は黙っていた。手元の携帯電話で写真を撮ったら嫌がるだろうか、と一瞬間考えた。でも分からなかった。どちらにせよ、そんなことは馬鹿馬鹿しいなと感じた。
僕が少し黙っている間、カッパもまた沈黙していた。
僕らは二人とも違うところを見ていた。互いの焦点は互いに遠すぎず、また近すぎないところにあった。
カッパは僕から話しかけられるまで黙るつもりでいるように思えた。なので、「君はカッパ?」と尋ねてみた。
「うん」とカッパは肯いた。さぞ当たり前だ、というようには答えなかった。どんな質問も同価に扱うような丁寧な返答だった。
「床下に住んでいるの?」
カッパはもう一度肯いた。
「ここはマンションだけど、下の部屋に住んでいるというわけではないんだよね?」
「そうだ。ぼくはここの階とその下の階の間に住んでる。......でもね、別になにかするってわけでもないよ。本当にただ住んでいるだけだ。夜中に冷蔵庫も漁らない。鼠みたいにな。」

カッパの口調は全体的には丁寧だった。にもかかわらず、どことなく僕を不安にした。ふとした時に、喋り方における文体のようなもののずれを感じたからだ。そのずれは心にひっかかった。再び僕が黙っていると、今度はカッパが口を開いた。
「酒をありがとう。床板の隙間から良い匂いがしたもんでさ、欲しくなっちゃったんだ。」
他意は感じなかった。悪意も感じなかった。それなのに、うかつな言葉は避けた方がいいと思えた。上手く言い表せないけれど、うっかりした発言で機嫌を損ねそうな印象があった。
僕は手持ち無沙汰になったので、ビールはいるか聞いてみた。
「欲しいな。ありがとう」とカッパは答えた。
僕はリビングへ行き、冷蔵庫から麒麟ビールの缶を2本持ってきた。とてもしっかりと冷えていて、手のひらがじんとした。
僕は窓際の椅子へ腰かけ、プルトックを全て倒し切らずに静かに開けた。そのまま一口飲んだ。
反対にカッパは、何も気にしていないように音を立てて缶を開けた。そして今度は口からビールを飲んだ。口と頭の皿の違いは何かとか、頭から飲んでも味はするのかとか聞きたかったが、結局やめた。聞いても納得のいく答えが出てこない気がしたからだ。

しばらく黙ったままロング缶を傾けていると、カッパはふうっと息をついた。それから二口、間を開けてビールを飲んだ。味わうようにゆっくり飲み下すと、
「それじゃあ、僕はそろそろ行くよ。ラムとビールありがとうね」と言って床の下へ潜り、帰ってしまった。床板はカッパの言った通り、何もなかったかのようだった。
外の車の音がいつも通り一定のリズムで聞こえた。

カッパは超自然的な感じではなく、またなにかしらの比喩でもなかった。異質ではあるが、現実的だった。ただ姿を現し、存在しただけだった。手応えの有無は問題ではなかった。
それは部屋の隅に小さなハエトリグモを見つけた時の感じに似ていた。僕が眺めると、あちらも不思議そうに見つめる。ハエトリグモは僕の部屋にいることをなにも卑屈に思っていないように見受けられる。
そして僕は、この部屋は僕のものであってまた、彼のものでもあるのだと気付く。卑屈になる必要などないのだと。

僕らは共存していたのだ。
春の夜風は、そんな事実をもぼんやりと包み込んだ。

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