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自己紹介【後編】

自己紹介ということで、ただの思い出振り返りとも言えるこれまでの海外生活遍歴を記録しています。もし良かったらご覧ください。

1. 2020年4月〜
コロナ禍に日本へ本帰国

長男出産とコロナパンデミック

長男を出産後、3ヶ月ほどで緊急事態宣言下の日本へ本帰国となりました。
アメリカにいた当時、コロナのニュースが出始めたばかりの頃は、
「中国や日本が大変なことになっている」
という印象の方が強かったです。
まさか後にアメリカを含め世界をパンデミックが襲うことになるとは思ってもいませんでした。

アメリカでは日本のように、病院関係者など以外で普段マスクをする人を見かけることがほとんどなかったので、いくら得体の知れないウィルスが流行っているといっても、アメリカ国民がマスクをすることは無いんだろうなと思っていたくらいです。

夫の帰任に伴い、私たちはちょうどこのタイミングでの帰国となったのですが、アメリカでのコロナ流行が深刻になるにつれて、周囲の友人たちも母国へ帰ることを決断する人が多かったです。
レストランも店内飲食が出来なくなり、テイクアウトのみの営業になり出したのもこの頃でした。

コロナ禍の緊急事態宣言下で、海外からの渡航者の扱いはとてもセンシティブな状況だったため、入国後は2週間のホテル自主隔離がありました。
必要最低限の買い出しだったり、家族からの差し入れなどは受け取ることが出来ましたが、両親と初孫の初対面さえも距離を保ちながらという妙な状況は、何とも切ないものがありました。

無事に隔離生活を終えてからも、コロナ禍での新生活の立ち上げは予定変更や制約も多く、これまでに経験したことのない異常事態に直面していることを改めて痛感しました。

サンフランシスコ Botanical Gardenにて。(2020年3月)

母国日本での子育て

こうして4年ぶりに日本での生活がスタートしたわけですが、会社の元同僚や友人たちと再会してお酒を飲み交わすというようなことも出来ず、(余談ですがもともとお酒好きです。)マスク必須で人との距離を置くという生活で、
「せっかく日本に帰ってきたのに、海外にいるよりも旧友たちとの距離が遠くなってしまったかな…。」
というような思いも感じていました。

はじめての子育ても経験していましたが、児童館や子育てひろばといったプレイルームも閉鎖していたり、再開してからも何かと利用に制約が多かったです。
ただでさえはじめての子育てって分からないことだらけで、誰かと思いを分かち合いたかったりするのに、それが気軽に出来ないのって辛いですね。
そもそもこの頃新たに知り合う人とはお互いマスクで、顔もよく分からないという妙な状況でした。

日本での生活はコロナ禍の振り返り無くしては語れないものでしたが、程なくして1年ほどでバンコクへの駐在が決定しました。(そして現在へ至る)
結果として、日本へ帰った1年間というのは日本でコロナ禍を経験した期間となりました。

でも、有事の際に家族がいる母国で暮らせる安心感というのは本当に大きいなって思います。
それは自分が生まれ育った慣れ親しんだ環境というのもありますし、日本が世界に誇る治安の良さと言われている所以もあるのかなと。一方でその神話を覆すような事件も起こっていますが。
(ちなみに夫のアメリカの友人が日本に旅行した際に、タクシーにパスポートを忘れて、きちんと手元に戻ってきて感動したという逸話があります。)

街は清潔でもともとマスクをするという習慣もあり、自宅では靴を脱ぎ過ごすという生活スタイルがコロナの蔓延抑制に貢献した(それでも感染する時はするのですが)という事実は一理あるかと思います。

ホテル隔離期間中、外出許可が出て少しだけ散歩をした際に見ることができた日本の桜。(2020年4月)

2. 2021年4月〜
現在に至る、バンコク生活の始まり

引き続きコロナ禍での海外渡航

この頃もまだコロナの流行は世界中で続いていました。スワンナプーム空港到着後は防護服のスタッフに誘導されて、PCR検査やコロナ流行に伴う追加の入国手続きなど厳戒態勢で行っていたのを覚えています。

入国後もやはりホテルでの2週間隔離がありました。その昔バンコク旅行で訪れて以来8年ぶりのタイ入国でしたが、ホテルまでの車の窓から多少街の雰囲気を垣間見るくらいで、ホテルで過ごす最初しばらくの間は
「本当にタイに来たのだろうか?」
と思うくらいでした。

毎日の検温や定期的なPCR検査などの関門を乗り越えて、ついに外へと出られるようになり、家探しなどを開始しました。

街へ繰り出した第一印象は、「日本語多いな〜」でした。特に日本人駐在員が多く住む、スクンビットと呼ばれる地域は、あちこちで日本語のお店や看板を見かけます。

しかし蒸し暑い気候の中、軒を連ねる屋台の独特の匂いや雰囲気を感じると、「やっぱり、タイに来たんだな」と改めて実感しました。

そして道路を走るバイクの多さにも驚きました。バンコクはGrab(アメリカで言うところのUber)などの交通手段やデリバリーでもバイクが一般的です。しかも日本と比較すると非常に安く利用できるため、新居が決まるまでの毎回の食事でもかなり活用させてもらいました。

私たちが引っ越してきたばかりの2021年のバンコクは、コロナの影響で外出規制もあり、今では日常の光景となっている街の渋滞も驚くほど改善されていたようです。(実際に排気ガスも減って空気もキレイになっていたとか。)

当時バンコクにいた人なら覚えているであろう。日本人御用達デパートに入館の際、入口で検温確認のために配られていたシール。(誰が集めたのか街に貼られていた。)
そしてタイでは曜日ごとに色が決まっており、シールの色の違いは曜日ごとの色の違いだと気付いたのは、ややしばらくしてからであった。

アメリカとの違いを感じる

家探しのポイントとしては、子どもがかかる病院やナーサリーへのアクセスが良く、スーパーや日常の買い物なども便利というのが優先でした。その点、バンコクでは日本人が住む地域がかなり限定されており、日系の不動産会社の日本人担当に仲介もしてもらえて、家選びには困らない環境でした。

アメリカではもちろん、内見や契約の手続きも全て英語で進めていたので(夫が)、それに比べると言葉の壁が無いだけでも遥かに恵まれている状況でした。

内見の際に、アパートの担当者とのやり取りで少し文化の違いを感じて面白かったことがあります。
サンフランシスコで家探しをしていた際、会話の中で何気なく聞いた
「さっき子ども連れの人を見かけたけど、このアパートは子どものいるファミリーも多く住んでいるのですか?」という私の質問に
「申し訳ないですが、州の法律で住人の方の情報は提供できないのです。」
と言われてしまったこと。
世間話のつもりで気軽に聞いたことでしたが、移民が多く人種差別の社会問題も根深いアメリカならではの価値観をぶつけられた気がしてハッとしました。

一方、バンコクでアパートに入居する際に管理人に
「小さい子どもがいて騒がしくなるので、上の階の人にも挨拶に行こうかと思うけど大丈夫でしょうか?」
(我が家は住居エリアの低層階かつ同じフロアに住人がいなかったので、気にするべきは上の階と考えた。結果気にする必要は無かったのだけれど。)
と聞いたところ、
「オッケー!上の階には〇〇さんが住んでるから行ってみたら〜」
と、フルネームまで(聞いてないけど)教えてくれる大らかぶりでした。

もちろんそれぞれの担当者の性格によるところも大きいかと思いますが、タイのマイペンライ精神を最初に感じた出来事でした。

こうして現在に至るバンコク生活がスタートしたわけですが、コロナ禍を経て日本との生活スタイルや文化の違いおよび、アメリカ駐在との違いもまた肌で感じながらこれまで過ごして来ました。

バンコク生活については、実際のところ過去の家探しの記録までしか書けておりません。(書きたいと思っていることはたくさんあるのですが。)今後はテーマ別に、これまでの暮らしの中で自分なりに感じたことを書いて行きたいと思っています。

最後までお読み下さりありがとうございました。

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