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映画日記『土を喰らう十二カ月』影響力は強いのに存在感のない亡き妻



この映画は、タイトルに十二カ月とあるように、冬から始まって、次の冬が来るまでの一年間を描いている。そして、四季の美しい風景と、季節ごとの旬の素材で作られた料理が、一見素朴だけど豪華な器と共に登場する。もしかしたら、人間のドラマなどなしにして、それだけでもよい映画なのかもしれない。


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この映画を乱暴に要約すると、妻に先立たれた夫が、妻の実家のある土地で始めた丁寧な一汁一菜生活と、亡き妻の風変わりな肉親たち、ということになろうか。

もう少し、長めの要約をしながら、私なりの解釈を加えていこう。

妻に先立たれた沢田研二演じる作家が、信州の田舎にこもって、一人暮らしをしている。箪笥の上には、13年前に亡くなったという妻の遺影と遺骨がまだ置かれている。家はかやぶき屋根だ。その家のある土地は、亡き妻の生まれ育ったところらしい。が、その家が、妻の実家なのか、新たに買ったのか借りたのかは、映画の中では言及していない。

サンショウ(山椒)という名のおとなしい犬を飼っている。柴犬の雑種のようだ。この犬が結構、太っていてる。この家には、電気は通っているようだが、部屋の灯りにはランプを使ったりもしている。ランプの灯りは、炎のように見えた。

台所には、薪で炊く羽釜の竈があり、そこでお米を炊いて、おひつに移して、食べている。都市ガスかプロパンかは不明だが、ガスはあって、お米以外の煮炊きはガスを使ってやっている。

ガス台から繋がっている流し台は、タイル張りのコンクリ製で、シンクの下は一般的には収納スペースになっているものだが、映画のそれは箱のようにふさがれていて、見たことのないタイプだった。

流しには、ホースからちょろちょろと水が流れていて、田舎暮らしでよく見かける沢の水の流しっぱなしのように見えるが、水道の水なのかもしれない。蛇口ハンドルが映らないので判断のしようがないのだ。

ホースの隣には、湯沸かし器がある。が、映画では使っている場面はなかった。電気機器と言えば、ファックス付き電話も出てきた。主人公は作家なので必需品なのだ。

台所は、他の部屋の高さと一尺くらいは下がった三和土の床になっているような、昔の日本家屋のつくりだ。

主人公は、家の周囲で畑をやっている。でもそれは、晴耕雨読のような農業で、自分の食べる分だけを作っているようだった。その野菜類と、近隣の山からの恵みを素材に、現在から見たら、とても丁寧な食事を作って、日々、食べている。

一汁一菜に、香の物が添えられた、スッキリとした、少し前の流行のコトバでいえば、粗食のご飯だ。食べるときは、いつもきちんと正座をしている。

主人公は、子供の頃に、お寺に預けられ、そこで精進料理の術を身につけたので、その時々に身の回りにある旬のものを、最大限においしく食べる方法を知っているのだった。

そうやって映画の中で披露される料理は、干し柿だったり、白菜漬けだったり、タケノコの炊き上げだったり、梅干しだったり、梅酢ジュースだったり、栗の渋皮煮だったり、ぬか漬けだったり、胡麻豆腐だったり、茗荷ご飯のおにぎりだったり、大根の柚子味噌掛けだったりする。

野菜のあく抜きに使われる灰も、無駄に捨てないで取ってあるし、胡麻豆腐の胡麻も自分で栽培収穫し、昔ながらの方法で殻をとって、実を集めたものだ。出来上がった料理はどれも一見シンプルだが、ひと手間もふた手間もかけられた、今では家庭では作られなくなった料理だ。

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妻の遺影になっている女優が誰なのかわからなかった。主人公が妻にどれだけ執着しているのかも、よくわからなかった。それは主人公が妻に関して、一言も語らないからだ。

亡き妻の母が登場する。主人公の家から歩いて行ける距離に一人で住んでいる。住処は、物置のような土壁の掘っ建て小屋だ。間取りは一間で、引き戸から入って左側奥に、煮炊きのスペースがあり、右側が一段高くなった3畳ほどの生活スペースだ。引き戸の奥正面の壁の上に、神棚のようなものが見えた。この小屋は、隙間だらけで、いたるところから外光が差し込んでいた。

このようなところに、人は住めるのだろうかと疑問に思った。トイレはどうなっているのだろうかとか、いろいろと疑問がわいてきた。世捨て人のような義母の登場に、なんとなく、ファンタジー映画を見せられているような気持ちになった。

義母を演じるのは、奈良岡明子だった。見覚えがあるのだが、最後まで誰だかわからなかった。映画が終わったあと、エンディングロールで知った。記憶の中の女優像と違って、随分と背が小さく、声も小さかった。調べたら、今年、93歳だった。

二人で昼食を食べるシーンがある。茶碗に山盛りのご飯と、汁物と、おかずは沢庵だ。義母は、甕の中にある山椒漬けのようなものを、ご飯に乗せて食べている。義母はぜんぜん笑わない。むしろ、世の中を睨んでいるような目つきの人として、登場している。ほとんど世捨て人だ。すべてを拒否しているような感じだ。義母が、どうやって暮らしているのか、わからなかった。

帰り際に、義母が作ったお味噌を、樽ごともらう。全部もらって大丈夫なのかと心配になったが、まあ、映画だからそんなこともありか、と思い直した。義母と主人公の関係は、良好のように見えた。

亡き妻の妹とその夫も時々、やってくる。彼等は、母親とはうまく付き合えていないようだった。子供のいない夫婦のように見えた。変わり者の母に困っている、といった調子だが、この夫婦も相当な変わり者に見える。実の娘ながら、母親に関する面倒なことは、全部、主人公に頼みにくる、という感じだ。

ある日、義母が亡くなる。発見したのは主人公だ。妹夫婦は、主人公の家で葬式をやって欲しいと頼む。常識では考えられないことを、頼む。そうとうに変な人たちだ。

主人公はそれを受け入れて、しっかりと葬式の準備をする。棺桶を用意し、遺影を用意し、通夜ぶるまいの精進料理を作るのだ。遺影は、すねたような目つきの写真だった。

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主人公のもとを、不定期に松たか子が演じる女性編集者が訪れている。彼女は、主人公よりも20歳くらいは年下に見える。彼女は主人公の作った料理をとても美味しそうに食べる。二人は、横に並んで、正座をして食べる。彼女は、いつも泊っていくようだった。

ある時、主人公は、彼女に一緒に住もうと呼びかける。東京の職場へは、ここから通えばいいと言う。ここに住めばうまいものが食べられると言う。彼女は少し考えさせてくれと返事をする。

義母の通夜の日に、たまたま彼女はやってきて、手伝いをする羽目になる。料理の下ごしらえやらを、主人公の指導のもと、はらはらと、しかし淡々と、こなしていく。

近隣から親戚たちがやってくる。女性陣は、ビニール袋やジップロックに入れた味噌を祭壇に供える。予想以上の人数がやってきて、料理も増やさなくてはならず、てんてこまいになる。主人公は、畑から茄子をもぎ、義母からもらったお味噌で、茄子味噌を作る。

妹夫婦は、お坊さんも呼んでいないので、お寺で育ったという主人公に、お経を読むことまで頼んでくる。仕方なく、般若心経を唱える主人公。

通夜ぶるまいの料理は大好評で、主人公の株も上がる。女性たちは、味噌づくりで、亡くなった義母と繋がっていたことが語られる。

翌日だろうか、火葬場の帰り、主人公と妹夫婦の三人がタクシーの後部座席に並んで乗っている。なんと義妹にお骨を預かってくれと、押し付けられる。こんなことってあるだろうか?

主人公は、義母のお骨を、妻のお骨の隣に置いて、時々手を合わせている。主人公の家には、この祭壇スペースもそうだが、何か所かに、花がさしてある。

葬式も終って何日かしたあとに、主人公は心筋梗塞で倒れる。幸いその日は女性編集が訪れていた日だった。発見が早く、主人公は救急車で運ばれる。三日間意識不明だったが、大事には至らず、退院にこぎつける。

タクシーに乗って、一人、帰ってきた主人公が玄関を開けると、犬が出迎えてくれる。妻と義母のお骨を置いた箪笥の上の枯れた花を片づけ、それから、家の中で一人で何か考えている場面が続く。

主人公が入院している間、女性編集者がやってきて、糠床を守り、犬を世話し、その家を守っていた。彼女は、ここに住もうと思うと覚悟を語る。ところが主人公は、ぼくは一人で暮らすと言って、彼女を拒否する。それならもうここには来ないかもしれない、と、彼女は言って、去っていった。

一人になった主人公はそれまで通りの暮らしを続け、死について熟考し、原稿用紙に万年筆で作品を書いている。

主人公は、妻のお骨を、手漕ぎボートで乗り出した池(沼か湖かもしれない)の真ん中で、散骨する。それで亡き妻に対する思いが一段落したのか、それはよくわからない。妻に対する気持ちを、主人公は語ったことがないからだ。妻も一枚の遺影でしか出てこないから存在感があまりない。

主人公が、妻に対してどう思っているのか、女性編集者に対してどう思っているのかも、具体的なことはまるでわからない。が、妻の生まれ育った土地の磁場の中で主人公が暮らしていることから、亡き妻に対する思いは、相当に強いと推測できる。散骨したことで、主人公は、新しい局面に一歩踏みだしたようにも見える。

この映画で一番謎なのは、亡き妻の存在だ。とってつけたように写真とお骨がたびたび画面に登場しているのだが、山椒が好きだったということ以外、大きなエピソードも語られず、その存在を感じることが出来ないのだ。写真の顔も、本当にその辺にいる人のようで、匿名性を帯びている。影響力が大きいわりに、影が薄いという、とても特殊な存在だ。

変と言えば、主人公も亡き妻に関する思いを、一言も語らない。それが徹底していて、少し異常な印象を受ける。

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また、若い女性編集者がやってくる。主人公はそれまでと同じように接する。彼女は、それに苛立ち、結婚することにしたのと語る。主人公は、おめでとうと言う。彼女は、編集のノウハウを、主人公の亡き妻に教わったと言う。ここで初めて、亡き妻が編集者だったことがわかる。

別れ際に、女性編集者が、奥さんのお骨はどうするの、と聞く。主人公は散骨したなどとは言わない。なぜか無言を通す。

また一人っきりになった主人公は、一日の終わりの眠りにつくときに、死ぬことにする。一度、死んで、翌朝、目が覚めたら、その日を精一杯生きて、また眠るときに死ぬ。それを繰り返すのだ。毎日を精一杯生ききれば、後悔もなく、また、欲もなく、といった、禅僧のような暮らしだ。それが主人公の辿り着いた境地なのだろうか。

ちょっとカッコよすぎる気もした。そうやって生きて、一人で死んだのは、奈良岡明子扮する義母ではなかったか。義母の葬儀は、主人公がやったけど、主人公が死んだときは、誰が葬儀をやってくれるのか、とか、余計なことを考えた。

この映画のように、食べることを大切にした丁寧な田舎暮らしは、今の時代には、とても魅力的に見えた。でも、それを実践するのは、旬というタイミングを逃さないために、けっこう忙しい暮らしをしなくてはいけない。

それに、私は思うのだ。食べた後は、出さなくてはいけない。主人公の家のトイレは、どのようになっていたのだろうか。汲み取り式なのか、水洗式なのか、それとも田舎にありがちな簡易洋式なのか、はたまたウォシュレットなのか。あるいは、昨今の山小屋が採用しているような、バクテリアが有機物を分解するバイオトイレなのだろうか。

もちろん、トイレ事情などは映画では省略されている。普通、映画ではそういう場面は描かないものだ。しかし、生活する上でトイレは大切だ。食べることを大事にする映画なら、できればトイレも、お風呂事情も、サラッと描いて欲しかったなと思った。

かっこいい面、きれいな面だけでなく、田舎暮らしのシビアな面も描いてくれないと、テレビで、「ポツンと一軒家」とか「秘境に住む日本人」とか、「ナゼそこ? あなたより秘境に住む人知りませんか?」などを見慣れた目には、ひたすらファンタジー映画に見えてしまう気がした。

ところで、この映画は、西暦何年を設定しているのだろうか。その辺も曖昧にされていたと思う。と、映画を観ると、こんなふうに、私は余計なことをいろいろと考えてしまう。楽しむとか素直に感動するとかとは違うスイッチが入ってしまのだ。


蛇足だが私はこの映画を、吉祥寺オデオンで見た。画面が全体的に暗くて、発色が悪く、影になる部分など色が抜けているように見えた。家に帰って、PCで予告を見たら、四季の移ろいをしっかりととらえた、とても美しい画面だった。映画館では、その画面がまるで再現されておらず、とても残念だった。調整できなかったのだろうか?

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