「トランスジェンダー」と「女性スペース」についてを「性被害者として」考える
女性スペースは身体が女性であるひとの避難所である
「トランスジェンダー」「性同一性障害」そして「オートガイネフィリア」の定義と「性的適合手術」について(Wikipediaより)
わたしはこう思って理解しようとしていた
わたしは女性スペースについて考えることは自分を守ること、自分の生活に直結することだったので、関心が高い。
女性専用車両というひとつの箱を憎々しく思う男性と二日に渡って反論し合ったことも有る。
でも、どうやら最近、トランス女性という自称彼女たちに脅威を感じている。
下記は今日Twitter(現X)に投稿した内容に補足を加えたものだ。
「トランスジェンダー」または「性同一性障害」の、性的役割や自身の身体に対する嫌悪なら、わたしにもある。
男性的な服も好きだし、その自分はそのままに好きだし違和を覚えたことなどない。
でも男性器がほしいなんて思わない。ただ女性器を持っていることによろこびなどもない。
ただそれ(男性器)を手に入れたら、もし性暴力に苦しむひとたちの声を届けることに易くなるならぜひとも欲しい。そんな思いならある。
自分としてはそんなものは欲しくもないし、使いたい気持ちもない。
でもそれさえあれば、男性の立場からモノが言えるとなるなら、むしろ欲しいと思うこともある。
それでも
手に入れたとて男にはならない。
失くしたとて女ではなくならない。
精神科医療の薬物療法のように、性別適合手術は対処療法と大きく違わないと感じる。
男性の生殖ができるようにも、女性として妊娠出産もないし、生理すら起こらないもの。
見た目のみのその張りぼてを手に入れることは、語弊や誤解を恐れることなく言うと、投薬によって気分の安定を図り続ける、死ぬまでその服薬を続けるのと変わらないように感じる(当事者にとっては絶大な効果であることも似ていると感じる)。
根本にあるのは、性別で社会での「何か」が「様々に」違うことだろうに。
その嫌悪の正体ではないのか?
その、男または女の性器でない自分を受け入れられない、反対の性の性器こそが自分に相応しいと思うことが、性別の違和だと、わたしは信じていた。
排尿の仕方。性交の際にすること。入れる/迎える(入れられる)であること。
または、射精する身体なのか、それを受けて妊娠出産となり得る身体なのか。
トランスジェンダーの苦悩は、それらへの違和感だと、ずっと思っていた。
それが自身の性への違和や嫌悪だと信じていた。
自分の性器の形や役割が嫌悪でしかない。
反対の役割の性器が欲しくてたまらない。
それでない自分なんて認められもしない!
トランスジェンダーの苦悩はそれと信じていた。
けれど、彼ら彼女らは、社会的な性別の概念への違和感で、その通りに周囲に扱ってもらいたいと言っているらしいと。
性同一性障害ではない。性別への違和ではない。
じゃあ、どうその苦しみを理解すればいいのだ?
誰か、当事者の方に説明してほしい。
その苦しみは相当だと思っていたのに、どうやらわたしの理解こそが全く違うらしい。
どうにも想像でしかなく、傲慢な理解をしていたらしい。
勝手な自分の理解から、そうであればどんなに辛いだろうか、そう信じていて心を寄せていたのに、当事者たちが手術はしたくないと言っていて混乱してしまった。
「希望はあるができない」ではなく「したくない」ならその身体を受け入れられていると感じてしまうし、わたしと同じようなものに思ってしまう。
その男性の身体のままに堂々と女湯に入れることを希望するのは理解できない。
女性として理解できないわたしは生まれてこの方女性であるのに、自認している女性たちがそうしたい、または「そうした!バレなかった!」と喜び勇んで投稿して、女湯の女性たちの身体を投稿していることのどこが女性なのだ?
ただの女体への興味しかないじゃないか。
女性が女湯の光景を、女性たちの身体や行動を投稿するなんて、それが自称彼女らの普通なのか?
その上、女性の身体のままに男湯に入りたい!は一切聞かない。
当事者の中に、身体に違和あるままにそんなことは希望しない!と話すひとの声は大きくならないのは、なぜなのか?誰か教えてくれ。
当事者が見えてこない
本当に当事者の声が知りたい。
女性スペースは、女性であることの証明のために在る場所ではない。
女性たちの避難場所だ。
女性器を持っていることによる危険から身を守る為の場所である。
わたしはそう理解している。
ジェンダーレストイレに女性たちから反感が集まったのは、その避難場所がなくなったからだ。
女性専用車両という箱に乗りたい女性は、痴漢に遭うことがない安心が欲しい女性たちや、かつての男性からの性被害により男性恐怖に陥り電車に乗れない女性たちにとっては希望の箱。それがないと生活が困難になるほどのものを抱えている女性のためのもの。
間違っても女性だという証明のための場所ではない。
わたしは身体が男性によるヒトから、男性器の挿入などの性被害によって、男性に恐怖するようになった。
身体が男性であり男性器を持っているなら、加害する意志が皆無でも警戒する。
オートガイネフィリアも恐怖の対象でしかなく、女性として扱うなんて、無理です。
トランスレズビアンなんてひともいるらしいが、レズビアンさんは大抵身体が女性である女性を愛するひとたちだし、心が女性であるだけでは性愛対象にない。
自認の性別には、身体なんて関係ない!という風潮が、声の大きなトランスジェンダー及びアライたちによって広まって、それに異を唱えれば「差別だ!」「ヘイトだ!」と言う攻撃を受ける。
どんなに苦しんできたのかわたしは知らない。
でも相手の苦しみを無視することは正義なのか?
お互いに歩み寄るどころか、自分の苦しみを解消しろ!としか言わないあなたは何様なのだ?
わたしは性被害者です。身体男性から受けた被害により、身体男性に、その身体や思考に嫌悪があります。
だから、女性スペースに身体男性が入ることが許されるなら、わたしは女性スペースに安心もなくなります。
避難所だった場所なのに。
あなた方にそれを奪われてしまう。
そんな性被害者の女性の声は「トランス差別」「トランスヘイト」と呼ばれるのですか?
あなたたち自認女性の主張は、性被害者の女性たちにとっては「二次加害」「セカンドレイプ」的なものに思うし、多くの女性の権利や人権を無視しています。
あなたにとって譲れないものがあるでしょう。
わたしにも譲れないものがあります。
それを一方的に「差別」「ヘイト」と決めつけて発言できる、あなたたちが本当に羨ましい。
トランス女性として苦しむ方たちは、どうやら性被害によるPTSDに苦しむ患者のことをどうでもいいと考えるらしいと、絶望です。
理解したいと考えて、苦しい気持ちがあるのならと、心が同じ女性なら、そう思ってネット上で記事や投稿を探しても、声の大きな、拡散力の強いものは、身体は男性のままに女性になりたい方のものが多く見つかる。
けれど、女性を思いやり、女性の心を理解しようという言動や行動のトランス女性も方もたくさんいる。
一枚岩でもないのに、身体男性で女性スペースを使いたいトランス女性たちの声ばかりがメディアにもアライの主張にも、重要視され取り上げられることに、危惧しています。
一部の当事者たちが騒ぎ立て、多くの当事者は置き去りになっていませんか?
性被害者たちも、一部の当事者だけが声を発信している。本当にほんの一部だ。
被害後にいのちを絶ったひとがどれだけいるのか、カウントすらされない被害者たち。
わたしは、トランス女性たちに「女性差別」をされていると「女性蔑視」を向けられていると感じます。
わたしたちの人権なんてどうでもいいのでしょうか?
同じように社会に苦しめられてきた存在なのに、敵でしかないですね。
本当に悲しいです。
そもそも「差別」「ヘイト」が広まった原因は、自称自認女性のせいなんですけれども、彼らをどうにもできないのか?
「トランス女性」を名乗る身体男性の中に「オートガイネフィリア」的な思考のひとがいるだろうこと、それらをきっと明かさないだろうことが、最も不安なのです。
性的嗜好は女性であるままに、自認女性と自称して、身体は男性のままに女性に性交を迫る、思考も何もかもが男性でしかないひとが、自認を自称できてしまうこと、こっそりと含まれていることが、世界中で明らかになっているから、余計に女性たちは不安になります。
性被害者たちも、痴漢被害に対して「冤罪」でないことを証明しろ!と言うような風潮です。
どうして苦しんでいる立場にあるのに、迷惑行為をするひと、自称して自分たちの邪魔にしかならないひとからの「害」まで、わたしたちがなくす努力をしなきゃいけないんでしょう。本当に同じような状況なのに、どうして「敵」になっているのでしょうね。
どうか、論破していただきたく存じます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?