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二宮翁夜話 巻之一、第一節 本当の道は天地自然の法則

自分の勉強も兼ねて、二宮翁夜話について書いてみようと思います。通常投稿の合間に不定期に続けます。

今回の原文は長いので、一番最後にまとめて乗せました。
(5/18、感想を大幅に修正)

・巻之一、第一節 抄訳

本当の道は、学ばず習わずとも誰もが知っている自然の法則である。
それゆえ我が道は、
「音もなく香もなく常に天地(アメツチ)は書かざる経をくりかへしつつ」
という歌のように、正しく繰り返される天地の道理を尊ぶのである。

測量に水平や下げ振りが必要なように、天文や暦に測定・計算が必要なように、物事には確固たる基準が必要である。
我が道においては、天地自然の法則を基準とする。米を蒔けば米が生え、麦を蒔けば麦が生えるような、決して変わらない道理を活かすよう務めるのである。

拙訳(きちんとした訳が読みたい方は、多数出ている書籍を参考にして下さい)

・感想

二宮尊徳の言う「誠の道」を一言でいうと、
「あたりまえ」
の一言に尽きます。

天地の働きは、自然そのもの。何の不思議もないアタリマエのことです。
あたりまえだけに、必ず繰り返されます。
これ、今の言葉に置き換えると「科学」に近い。

科学は、普遍的なものです。
「条件さえ揃えれば、誰がやっても同じ結果が出る」のが、科学の条件。
国や時代によって結果が変わったりはしません。

いつでも、どこでも通用する天然自然の法則を第一の原則とする宣言が、第一節だといえましょう。

幕末に近いこの時代、科学的思考はじわじわと広がっていました。文章の中に測量や天文学が出てくるところから、尊徳は科学にも十分な関心を持っていたことがわかります。
「四書五経で育った道徳の人」とだけ考えると、見誤るかもしれません。

・原文

翁 曰(いわく)、 夫(それ)誠の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚へ、書籍(シヨジヤク)もなく記録もなく、師匠もなく、而して人々自得して忘れず、是(コレ)ぞ誠の道の本体なる、 渇して飲み飢(ウヘ)て食(クラ)ひ、労(ツカ)れていねさめて起く、皆此(コノ)類(ルイ)なり、古歌に「水鳥(ミヅトリ)のゆくもかへるも跡たえてされども道は忘れざりけり」といへるが如し、夫(ソレ)記録もなく、書籍(シヨジヤク)もなく、学ばず習はずして、明らかなる道にあらざれば誠の道にあらざるなり、夫(それ)我教(ワガオシヘ)は書籍を尊まず、故に天地(テンチ)を以て経文とす、予(ワ)が歌に「音もなくかもなく常に天地(アメツチ)は書かざる経をくりかへしつ ゝ」とよめり、 此(カク)のごとく日々、繰返し繰返してしめさるゝ、天地の経文に誠の道は明らかなり、掛(カカ)る尊き天地の経文を外(ホカ)にして、書籍の上に道を求(モトム)る、学者輩(ハイ)の論説は取らざるなり、能(ヨク)々目を開(ヒラキ)て、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり、夫(それ)世界横の平(タイラ)は水面を至れりとす、竪(タテ)の直(スグ)は、垂針(サゲブリ)を至れりとす、凡(およそ)此(かく)の如き万古動かぬ物あればこそ、地球の測量も出来るなれ、 是を外にして測量の術(ジユツ)あらむや、 暦道の表(ヒヨウ)を立てゝ景(カゲ)を測るの法、 算術の九々の如き、 皆自然の規(ノリ)にして万古不易(エキ)の物なり、此物によりてこそ、天文も考ふべく 暦法をも算すべけれ、此物を外にせばいかなる智者といへども、 術を施すに方なからん、 夫(それ)我道も又然(シカ)り、天言(モノ)いはず、而して、四時(しいじ)行はれ百物成る処の、 不書の経文、不言の教戒、則(スナハチ)米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(ミノ)るが如き、万古不易の道理により、誠の道に基きて之を誠にするの勤(ツトメ)をなすべきなり

web「小さな資料室」の二宮翁夜話


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