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応仁の乱~ブレブレ将軍足利義政(上)~

応仁の乱 (https://note.mu/hakkeyoi1600/n/nea0ea273cfa9)
スピンオフ第1弾!
足利義政です。

スピンオフでは、「応仁の乱が長期化した理由」を探っていきます。
それでは行ってみよう!

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 応仁の乱が長期化した原因の一つに、時の将軍足利義政(あしかがよしまさ)のブレブレすぎる、その場しのぎ外交があったと考えます。
 その場しのぎ外交とはなにかを解き明かしてみましょう。

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 ケース1は、畠山家の家督争いの場合です。
 前回、応仁の乱のそもそものきっかけは畠山家の家督争いにあると言いました。その家督争いに、都合の良すぎる絡み方をしてシッチャカメッチャカにしたのが、足利義政です。
 彼はどんなスタンスで家督争いに絡んだのでしょうか。

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 シンプルです。
 彼はその時の強い方に味方しました。
 シンプルですがズルいです。
 やな予感しかしません。

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 まず、もともとの後継者だった畠山義就(はたけやまよしひろ)の家柄を問題視して、アンチ義就が後継者にたてた畠山政長(はたけやままさなが)派で家督争いがありました。
 結果は義就の勝ち
 その時足利義政は、義就畠山家の家督を次ぐ者として認めました。
 この時は。

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 しかし、義就はその後政長の手痛い反撃にあって、京都を追い出されます。
 すると足利義政はすかさず、畠山家の家督政長にある、と今強い方に靡きました。
 この時は。

 その後、山名宗全(やまなそうぜん)の手引きもあり、義就は無断で京都に上洛して、政長派を驚かせます。
 これには足利義政も激怒します。

 そしてこの時は正月二日で、畠山政長が垸飯(おうばん)という、義政をもてなす食膳を献じました。
 室町幕府では、代々管領職に就くものが将軍に垸飯を奉ってもてなす儀式御成始(おなりはじめ)があったのです。
 政長垸飯を任されたってことは、それなりに義政から信頼されてたわけです。
 だから普通なら、畠山政長の所に行くんです。
 普通ならね。

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 ところが義政。
 政長の所へ行くのを中止して、あろう事か畠山義就将軍御所に招きます
 政長の面目丸つぶれ
 意味が分かりません。
 義政が政長も義就も両方取り立てようとする、「両方引汲(りょうほういんぎゅう)」の節操の無さに当時の人は呆れたそうです。

 さらに正月五日の畠山邸の御成の日には、政長ではなく義就への御成を行う始末。

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 トドメは信頼していたはずの政長に、「義就に畠山邸を明け渡す」ように指示しました。
 もうガチガチの義就ファンになってるんですよ、いつのまにか。

 義就ファンになった理由。
 それは、義就が大量の兵を率いて上洛して、「政長より強そうに見えた」からではないでしょうか。

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 これには政長もブチ切れ、自分の家を焼いて、義就との徹底抗戦の道を選ぶのでした。

 これが応仁の乱勃発の一因です。

 まぁそうするよな。
 ここまで舐められたら。

 で、この後義政は畠山家のみで戦わせ、他の家の参戦を禁止したのですが、あっさり山名宗全に無視されたのは、前回の通りです。

 義政も舐められとるな。

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 この義政のその時強い方に付くという、一貫性があるようで全く無い外交戦略は、畠山家の家督争いをよりめんどくさくしてしまい、応仁の乱を招いてしまったのでした。

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 ここから導ける教訓は、
 「応援すると決めた相手を終始一貫支持し続け、土壇場になっても鞍替えしない一貫性」が義政に必要だった、ということでは無いでしょうか。

 今回で言うならば、少なくとも正月二日に義就を支持するのは本当にあかんかったと思います。

 前日まで政長を支持していたんだったらなおのこと。

 応仁の乱の長期化の原因の1つは義政のブレブレ外交だったのでした。

 下も投稿しますので、お楽しみに!

参考文献
応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 呉座勇一 中公新書


参加される皆さんの好きを表現し、解き放つ、「プレゼンサークル」を主宰しています! https://note.com/hakkeyoi1600/circle ご興味のある方はお気軽にどうぞ!