応仁の乱〜まずはこれだけ〜
細く長く応仁の乱がブームになっておりますが、応仁の乱の新書を読んだ時の衝撃は今でもよく覚えています。
爆笑しながら読んだ新書なんて今までなかったもんで。
そんな応仁の乱を読んで、
「まずはこれだけ分かっておけば概要は理解できる(はず!)」
というスライドを作ってみたかったので、やってみました。
人物をかなり省略したり、あえて簡略化したりしていますがご笑覧頂ければ幸いです。
1.
まず、応仁の乱そのものが起きたきっかけから説明します。
ずばり畠山家の後継争いです。
畠山家とは、当時室町幕府の管領(かんれい)というNo.2になれる名家でした。
(※他に細川家と斯波(しば)家がいます。他の家は管領にはなれませんでした)
そんな名家の家督を、畠山義就(はたけやまよしひろ)と畠山政長(はたけやままさなが)が争っていたのです。
当初は兄の義就に家督が行く予定でしたが、母の身分がイマイチだったからか、弟の政長を支持する党が立ち上がり戦になったんですな。
その結果、まずは義就が勝って家督をいったん継ぐことになります。
2.
が、政長党もただでは終わりませんでした。
管領の細川勝元(ほそかわかつもと)の支持を取り付け、義就にリベンジします。
結果義就は敗れ、畠山家の家督は政長にシフトします。
3.
時の将軍、フリーダム義政も畠山家の家督は政長が継いだと承認しました。(今わね)
政長はやっとこさ家督を継げましたが、管領の細川勝元に大きな借りを作る事になったともいえるでしょう。
そんな細川勝元に思わぬ対立候補が出てきました。
4.
勝元の舅、山名宗全(やまなそうぜん)です。
元々勝元との関係も良好だったのですが、細川家代々の問題と山名家代々の問題が積み重なったのもあり、宗全はとんでもないことをしでかします。
勝元・政長チーム最強の敵、畠山義就を上洛させ、畠山家の家督争いで義就支持に回り、細川勝元との対立を選択したのです。
山名家の成り上がりをかけた、宗全一世一代の大バクチです。
5.
まさかの義就上洛に、フリーダム義政はおもむろに畠山家の家督は義就にあると手のひらを返します。
将軍ともあろう人の手のひら返しに、当時の人もめっちゃ呆れたそうです。
6.
ここまでの話を整理しますと、
畠山家の家督争いに、細川家と山名家の争いがくっついたといえます。
さながら政権No.2争いとでも言い換えましょうか。
(ややこしくなりそうな匂いがプンプンしますね)
このまま、山名宗全&畠山義就VS細川勝元&畠山政長の戦になるかと思いきや、待ったの声がかかります。
まだ応仁の乱は始まってないですよ。
7.
その待ったの声はフリーダム義政から。
彼はなんだかんだで、この対立の本質は畠山家の家督争いであることを理解していました。
畠山家の家督争いはあくまでも義就と政長の間で決着をつけるべきとし、外野の細川、山名の横槍を禁止したのです。
正々堂々とやれってことですな。
(あんたが手のひら返ししなければ、こんなにならなかったとも思うんだけどね)
8.
が、結果はひどいもんでした。
義就が戦に勝ったのですが、そこには参戦を禁じられた山名宗全の姿が。
なんと山名宗全、将軍の命令をガン無視。
そして律儀に守った細川勝元は、政長の敗因扱いされて面目丸潰れ。
チキン野郎呼ばわりされ、正直者が馬鹿を見る有様。
これは酷い。
9.
面子を潰された武士がやることは一つしかありません。
10.
細川勝元&畠山政長コンビは本格的に挙兵し、山名宗全&畠山義就コンビとの戦を始めます。
ここに来てようやっと応仁の乱が勃発したわけでございます。
(始めた時は、まさかこんな結果になるとは思わなかったでしょうが…)
なお、この戦に参戦した者はもっとうじゃうじゃいるのですが、最重要人物のみをチョイスして話を進めます。
スピンオフとかできたら面白そうですね。
(やるとは言ってない)
11.
さて、応仁の乱ではチーム細川勝元が東軍で、チーム山名宗全が西軍と呼ばれました。
これは、両軍の位置関係に起因します。
チーム細川ら東軍が、将軍の命令をガン無視した西軍を討伐するという形式です。
東軍は総大将に、フリーダム義政の弟、足利義視(あしかがよしみ)を起用します。
が、この足利義視は将軍の弟という立ち位置上、色々面倒くさい事件に巻き込まれるお人だったようで、いわくがありました。
12.
実はフリーダム義政と仲が悪かったのです。
かつて足利義政は、側近のデマを鵜呑みにして義視の暗殺を企てたことがあるのです。
後継争いが絡んでいたらしいですが、短絡的なのは否めません。
この騒動が起きた際にデマを告げ口した義政の側近は京から追放されたのですが、何やら応仁の乱の戦局打開のため、追放処分を解いて京に呼び寄せようという動きがあるとのこと。
足利義視からしたら暗殺を企てた仇敵の復帰なんてたまったものではありません。モチベがダダ下がりするどころか、身の危険すら感じたことでしょう。
足利義視は東軍内で孤立します。
13.
おまけに足利義視と山名宗全は現状敵同士とはいえ、もともと仲が良かったのです。
すると…
14.
東軍の総大将とはいえ孤立している情報を入手した山名宗全は、足利義視を味方に引き入れようと画策します。
総大将が裏切るなんてことがある訳ない…
と思いきや、
足利義視ノリノリで裏切ります。
彼からすれば
・兄貴の義政に嫌われてる
・暗殺企てた野郎が復帰してる
・山名宗全とは結果的に敵同士になったけど元々仲は悪くない
義視にとっての本当の敵は西軍ではなく、むしろ兄の義政や仇敵だという事に気付いたのでしょう。
命狙われましたもんね。
その結果日本史上でも稀に見るとんでもないことが起きます。
15.
東軍の総大将、足利義視が裏切り、西軍に寝返ってしまったのです。
(個人的に応仁の乱のツボはここ!)
意味が分からないと思いますが、足利義視の東軍における立場の危うさを考えたら、西軍に行く気持ちも分かるのではないでしょうか。
(でもやっぱり意味わからないと思いますけどね)
この知らせに東軍は驚愕。
(当たり前だけど)
西軍は義政の命令に背いた都合上、賊軍です。
戦う大義名分など立てられるわけもなく、東軍に討伐される立場にしかなり得ませんでした。
しかし、足利義視が西軍入りする事によって立場は一変。
足利義視を将軍として立てるという大義名分を得てしまったのですから。
足利義政の東幕府に対して、足利義視の西幕府が出来上がってしまったってわけです。
(そのちょっと前は、北と南に天皇がいたことがあるんですよね。南北朝時代っていうんですけど)
すると応仁の乱の戦いの理由は…
16.
・将軍争いで揉めている連中
・細川家と山名家にくっついて揉めている連中
・畠山家の家督争い
この3つ。
するとこの戦争どうなるかというと…
17.
辞めたくても辞められなくなっちゃったんです。
応仁の乱の発端である、畠山家の畠山義就と畠山政長の争いは、どっちかが滅びるまで終わらない、絶対に辞めるわけにはいかない戦いです。
でも、細川家と山名家の争いは、畠山家の家督争いに比べれば、ぶっちゃけやる気に温度差がありました。
(もともと山名宗全は細川勝元の舅だったし、応仁の乱が始まる前はそれほど仲が悪かったわけでもないし…)
時がたてばたつほど、細川家と山名家は講和を模索するんですが、畠山家の争いにはそもそも講和という選択肢が存在していません。
だから辞められない!
おさらいです。
・事の発端は畠山家の家督争い
→これはどっちかが滅びるまで続く戦いです。
・細川家と山名家が肩入れして
→肩入れ当初はここまで長期化するとは思っていなかったはず
・東軍西軍に将軍が並び立った
→このせいで両軍が互角になって、戦いはさらに長期化!
というわけです。
ややこしすぎる!
18.
そうこうしているうちに時は経ち、細川勝元が44歳で逝去し、時をほぼ同じくして山名宗全が70歳で逝去します。
彼らの後半生はいったいなんだったんだろう…
この二人の死をきっかけに、細川家と山名家は講和を結び、応仁の乱から抜けることができました。
19.
ず~っと戦争していたけれど、いい加減戦線を保つのもしんどくなってきたので、足利義視は美濃(岐阜県)へ、畠山義就は河内(大阪府)に撤退します。
20.
そして誰もいなくなります。
この戦争で残ったのは焼け野原と化した京の都だけだったのです。
21.
結局応仁の乱は、西軍の空中分解によってやっとこさ終わりを告げました。
1467年から1477年までの10年間、京都でず~っと戦争してたのです。
なぜ10年も続いたのか。
それは、東軍西軍の参加メンバーも戦いの動機がバラバラで、テンションにかなりの差があったからでしょう。
現代に生きる我々の出来事で例えるならば、テンションにすごく温度差のある組織やグループで仕事をした経験と照らし合わせて考えみるのはどうでしょうか。
テンションが一番高い人に感じる、何とも言えぬモヤモヤ。
テンションが異様に低い人に感じる、何とも言えぬもどかしさ。
あの時はそんな人の気持ちが全く分からなかったんですけど、今ならお互いの背景があってのことだったのだ、ということがなんとなく分かります。
きっと応仁の乱もめちゃくちゃ元気な両畠山に引っ張られる感じで、嫌々戦争してたんでしょうなぁ…
応仁の乱は参加者全員が、自分の利益を優先して少しずつ間違え続けた結果の大乱だったのでした…
参考文献
応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 呉座勇一 中公新書
参加される皆さんの好きを表現し、解き放つ、「プレゼンサークル」を主宰しています! https://note.com/hakkeyoi1600/circle ご興味のある方はお気軽にどうぞ!