ほめたらよいのか、悪いのか?

『「承認欲求」の呪縛』(新潮新書)という本をこの2月に出してから、ほめたらよいのか、悪いのか、しばしば問われる。戸惑わせて申し訳ないと思っている。

 私はこれまで実証研究によって、ほめること、認めることの効果を明らかにしてきた。また、この新聞記事のように、ほめる取り組みをして効果をあげている学校や職場も少なくない。にもかかわらず今回の著書では、ほめることにも大きな副作用があることを指摘した。

 巷に出ている本のなかにも、ほめることの効用、大切さを強調するものがたくさんあるかと思えば、他方にはほめるのはよくないと説いているものも多い。

 いったい、どちらが正しいのか?
 結論を端的にいえば「ほめ方」による。

 拙著で述べたように、呪縛(プレッシャー)の強さは、他の条件が一定なら「認知された期待」と「自己効力感」のギャップによって決まる。したがって期待に応えなければいけない、評価を裏切ってはいけないという意識を強めるようなほめ方は、良い効果が得られる場合もあるが、呪縛をもたらすリスクもある。たとえていうなら、ゴムは引っぱると伸びるが、伸ばしすぎたらパチンと切れるようなものだ。

 一方、「自己効力感」、平たくいえば「やればできる」という自信をつけさせるようなほめ方は、呪縛をもたらすリスクが小さい。ただし、「やればできる」と言ってやれば「やればできる」という自信がつくとはかぎらない(ちょっとややこしい言い回しだが)。本人がマイナス思考に陥っている場合には、逆に「やればできる」と期待されているのに、やってできなかったら顔向けできないというように、かえって呪縛を強めてしまう恐れがある。むしろ「やればできる」と自信がもてるような客観的根拠を示し、本人がそう確信できるようにしてやるとよい。

 ところで、最近はスマホやパソコンでほめるアプリがある。能力や適性を判定してくれたアプリにほめられたら、自信がつくことはあっても、次も「ほめられなければいけない」、「期待を裏切ってはならない」という呪縛に陥ることはないだろう。

 別の例をあげよう。
 陸上競技の選手は、「君は足が速いね」とほめられるより、電光掲示板に「9秒98」と表示された方が自信が持てるだろうし、野球選手は「長打力がある」とほめられるより、ホームラン王になるほうが自信になるに違いない。
 それを考えたら、極論すると承認のロボット化こそが望ましいということになる。しかしロボット化したほめ方だと、感情の世界に浸りたい人にとっては物足りないだろう。そのかわり、無意識に呪縛という代償も払うことを覚悟しなければならないが。

https://www.asahi.com/articles/ASM4K62ZBM4KTPJB00T.html?iref=comtop_8_06

「個人」の視点から組織、社会などについて感じたことを記しています。