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「坂の上の春」その4

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「あの坂の上にはね、『春』があるんだよ。」
「本当?じゃあ、約束だよ。一緒に行こうね。」
息子とそう約束したのだから、どうしても行かなくては、と彼女は思った。
自分を坂の上に連れて行ってくれる筈だった母は、いつか家から一歩も出られなくなり、やがて床につくようになった。
自分を抱き上げてくれて、まるで坂の上に立った
みたいに空の近くまで「高い、高い」をしてくれた優しい父は、やがて家に帰ってこなくなった。
そんな悲しい思いを息子にはさせたくない。
だから今日、あの子と一緒に坂の上に行くんだ。彼女はそう決めていた。
坂の上にある春を見つけに、自分の可愛い子と。
今、あのこと一緒にいてやれるのは自分しかいない。
あの子の父親は、数年前に亡くなった。突然のことだった。
あの子には、まだ本当のことを話してはいない。
「お父さんは、遠くへお出かけしているんだよ。」
そう言っている。

坂道はまだまだ続いていた。真っ直ぐに、まるで空へ向かう滑走路のようにそれは続いていた。

父親がいないことで、息子はいじめを受けているようだった。
よく泣かされて帰ってきた。でも、息子は本当の訳を言おうとはしなかった。そこがまたいじらしかった。
そんなあの子の気持ちを和らげるためにも、あの坂の上の景色を見せてやりたい。
私と母親が見られなかったあの景色を。
そして言ってやるんだ。
「ほら、ご覧。春さんはみんなに笑いかけているよ。気持ちがいいだろう。春さんがね、心の中が冬みたいに寒い人に向かって、暖かい風を送ってくれているからだよ。ご覧、こんなにたくさんの花、そしてほら、蝶々も飛んでる。雲雀が鳴いてる。みんな、幸せを運んできた春さんの仲間なんだよ。あんたもね、同じように春さんの仲間なんだよ。泣いてないで涙をお拭き。あんたはね、きっとたくさんの人の心の中に、春さんを呼んでくることができる人になれるよ。」

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