ゆっくりしていってくださいフロート
子どもの頃、地元に一店だけモスバーガーがあった。
マックもロッテリアも、電車で3駅行った大きな街にしかなかった。
息子がフライドポテト大魔神なため、今やマックを始めとしたファストフードは手軽な昼ごはんの代表格と成り果てた。
しかし思春期の頃、ソースがこぼれたら一発でテンションが下がるであろうモスバーガーやモスチーズバーガーは、父親のお土産としては最高のごちそうだった。
中学生の頃、当時の友だちとなけなしのおこづかいを持ってモスに行くのが楽しみだった。
白い格子状のタイル、手狭でちょっと陽当たりの悪いボックス席。
メニュー選びはいつも手持ちのお金と要相談だった。
なかでも忘れられない品がある。
ココアフロートだ。
昔からココアが好きで、今でも冬のサンマルクカフェでココアをよく頼む。
ココアフロートを頼んだシチュエーションはおぼろげだが、とろりと濃いアイスココアに丸々としたバニラアイスは、いまでも褪せてしまった思い出のなかで静かに浮かんでいる。
◇
抑うつになった5月のある休日、とにかくだるくて何も心が動かない日が続いていた。
そのくせ晴れた空にはのんびりと雲が泳いでいた。
家のベッドで仰向けになっていると動けなくなってしまいそうで、外をぶらぶらすることにした。
近所に年配のご夫婦が営む喫茶店がある。
河川敷のベンチに座って澄んだ風に身を預けたあと、ふいに足が向いて立ち寄った。
個人店のため、ドリンクメニューは下手するとスタバより高い。
その分自家焙煎のコーヒーの味は確かだ。
しばらく散歩をしているとじんわり汗ばむ頃だった。
普段頼まないものを頼もうと思い、コーヒーフロートを注文した。
「ゆっくりしていってください」
背の高いグラスを差し出して、ご主人が声をかけてくれた。
思えば、常に時間に追われる仕事だった。
作業効率で順位を決められ、上司の嫌味におびえる。
初日に教えてくれた人があいさつを返してくれなくなっても、あいさつを続けていた。
好きなものに携われる仕事だったけれど、それ以上に、性に合わない場所だったのかもしれない。
ああ、ゆっくりしていいんだ。
アイスコーヒーの静かな苦味、素朴な味のバニラアイスをすこしずつ口にして、しばらくぼーっとしていた。
◇
9月の病院帰り、数ヵ月ぶりに件の喫茶店に寄ってみた。
昼時だったため、ナポリタンとアイスコーヒーのセットを注文する。
「ゆっくりしていってください」
ご主人の言葉が聞きたくなったら、また行こう。
※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。
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