映画レビュー(30)「ゴジラ-1.0」

このレビューは観てから読め

 この記事はネタバレが多い、というか徹底解剖してる。
 一昨日の日曜最終上映で作品を観てきたのだが、考えれば考えるほどよく出来た映画で、ネットで散見する「小賢しい酷評」を目にして、どうしても書きたくなってしまったのだ。
 まだ映画を未見の方は、ここで読むのを止めて映画館に急いでください。

今回のゴジラは何の暗喩なのか

 従来のゴジラは、核兵器の恐怖(第一作)の暗喩で始まり、シリーズを追う毎に人間の思いの届かぬ厳しい自然災害(震災)神の怒り(VSヘドラ)の暗喩のように変わっていった。70年の近現代の社会の変化を感じさせる。
 では、今回のゴジラは何を暗喩しているのだろう。
 今作の大きな特徴は、常に踏みにじられる人間の目線で描かれていること。しかも、まだ戦災の傷跡が残る街の情景の上である。
 理不尽に襲いかかる破壊と災厄、まさに今回のゴジラは戦争そのものの暗喩であろう。

練られた設定

 主人公は特攻から逃げた臆病者だが、それは本来ならば「普通」の気持ちである。その普通の主人公が罪悪感に苛まれている状態。まさに主人公は「敗戦後の日本人」を象徴するキャラといってよい(だからこそ名前が「敷島」)。寄り添って生きる戦災孤児の娘と主人公。そしてラスト、戦時中、国のためには死ねなかった主人公は、娘や民衆のために命を投げ出す
 自衛隊がまだ生まれる前、しかも米ソが牽制して介入できない状態で、日本という国は、戦時経験のある民間の有志にゴジラ退治を頼むしかない。この状況の何と秀逸なことか。
 つまり、戦争の象徴であるゴジラは軍隊ではなく民間の力でこそ倒せる、倒さねばならない、という監督の気持ちが込められている。
 だからこそ、この作品は自衛隊が生まれる前の1945年でなけれなならなかったのだ。
 自衛隊の勇ましい戦いではなく、民間人の戦い。軍隊の武力ではなく民の祈りと力。
 終盤、戦艦の応援に駆けつけた大小の民間船が力と気持ちを合わせて「ゴジラ(戦争)」に抗う姿こそ、この作品のテーマを無言で示しているのだ。

戦いではなく抗い

 倒しても倒しても、不気味に再生して降りかかる災厄ゴジラ(戦争)
 だからこそ、今回の日本人達の戦いはもう、戦いというより抗いなのである。
 ラスト、再び再生の兆しを見せるゴジラの遺体は、どうしても戦争(ゴジラ)をなくせない人間の業を暗示しているのかもしれない。
 私の想像だが、このラストシーンは、ウクライナ侵攻を受けて追加されたかのようにも思えるのだ。
 そんな気づきを文章化してみたが、日を置いて改めてもう一度観ようと思う。そう思わせる作品だった。

(2023/11/8 追記)
 ラストで主人公とともにゴジラ(戦争)に立ち向かう戦闘機・震電は実際には量産にも間に合わなかった試作機である。
 私のようなマニアにとっても胸躍る機体だが、零戦のように特攻に使われた機ではない、未来を願う機体こそ、ゴジラ(戦争)に抗うに相応しいと感じた。
 主人公の特攻の記憶とは無縁の新しい機体。
 物語が「1945年でなければならなかった」ように、まさに「震電でなければならなかった」のだ。
 山崎監督恐るべし。

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