創作エッセイ(31)長編小説執筆体験談(1)

いきなり長編小説を書ける人は少ないと思う。書けても惨憺たるものになっていたりする。長編書きたいが、自信のない方もいるだろう。そんな方達に自分の体験を。

初めての小説

 私が初めて書いた小説は原稿用紙130枚の短編だった。23歳の時である。実はそれ以前、高校の授業で10枚ほどの作品を書いたことがあり、創作の面白さに目覚めたのだが、その創作意欲はマンガに向いていたのだ。
 実は、私の父は旧帝大の国立大学国文科(辻真先さんと同期だったとのこと)を出た人間で高校の国語の教員をやっていた。結婚したばかりの頃は小説家を目指していて、壬申の乱を舞台にした小説を書いている最中に井上靖の「額田王」が発表されて筆を折ったというエピソードがある。
 その父の下で、「おまえはドストエフスキーも読んでいないのか」「SFばかり読んで」的なマウントを取られて育った息子(俺)は、「俺はマンガで物語を作る」というレジスタンスになっていたのだった。
 大学在学中は体育会に所属しながらマンガを描いていた。当時、母校にはマンガ研究会がなかったのだ。自分でサークルを作るほどの熱はなかったわけね。マンガの方は、月刊「ぱふ」の月例募集で選外佳作になったのが唯一の成果だった。
 四年になって、卒業論文用の原稿用紙が大量に余ってしまった12月のある日、猛烈に小説が書きたくなって万年筆を手に取ったのだった。
 当時、大沢在昌さんの失踪人ディテクティブ佐久間公シリーズに魅了されていた私は、その文体の一人称で、これまた大好きだった大藪春彦っぽい活劇を、少しリリカルに描こうとしたのだ。
 その作品「殺戮の夜、流血の朝」が完成したのは卒業後、最初の就職先だった工業系商社の東京営業所の寮の一室だった。
 当時、創刊されたばかりの「小説アクション」(双葉社のマンガアクションの兄弟誌という位置づけで程なく廃刊・涙)に、書き上げた原稿を送ってみた。程なく編集のYさんから話が聞きたいと手紙が来た。
 欣喜雀躍して飯田橋まで出かけたところ、次号のハードボイルド特集のために若い読者の意見が聞きたかったという取材だった。作品的には、新しい作品を書いて「小説推理」の新人賞に送りなさいとのこと。締め切りは二週間後で間に合わず、翌年の募集で送った作品「ハードロックの夜」は一次予選通過止まりだった。

初めて長編に挑む

 その後、勤務先を広告会社に変えたあと、シナリオや短編をぽつぽつと応募したが、すべて一次予選通過止まりだった。ちなみに送り先は「月刊シナリオ」「月刊ドラマ」「月刊・小説CLUB」など。「文学界」とか「宝石」とかじゃないところが自信のなさを物語る。
 初めて長編小説を書こうと思ったのは28歳になった時。ちょうど世間では夢枕獏さんの「魔獣狩り」や菊池秀行さんの「魔界行」「魔界都市新宿」などが一世を風靡していた。
 もともと平井和正氏のウルフガイシリーズが大好物だった私は、「これなら俺にも書ける!」(不遜な言動、当時の若さに免じてお許しください)と長編に挑んだのだった。
 その長編は、当時の世紀末に向かう現代を舞台にして、終末論で不安を煽り信者を増やすキリスト教系を装うカルト宗教団体と、日本の宗教的武道団体の裏組織・天地会と、カトリックの秘密情報機関「聖ヨハネ騎士団」の三つ巴の戦いを描くサーガだった。

プロットはメモ一枚

 まだ執筆メソッドも知らず、一枚のメモから書き始めた。
 面白いことに、書きながら「この背後考えなきゃいかんやん」とか「このキャラ、後から化けそうだ」などと脳内で化学反応が起きて、二年弱で書き終えることが出来た。
 複雑な構成だったので、当然のように三人称で書いた。実は、この作品で初めて三人称で書いたのだが、その書きやすくて自由自在なことに感動していた。
 この「第七の封印」という伝奇SFアクションは、大幅に規定枚数を超えたまま「ムー・ミステリ大賞」に送ったが、当然のように没。代わりに、この長編を書き上げた余力で書いた短編作品「沈黙の島」の方が最終候補まで進んでいたので落胆はなかった。公募に応募を始めて8年後だった。
 長編を書き切ることで、構成力や語り口など、飛躍的に力が付いていたのだった。

(この稿、続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?