映画レビュー(2)ジョゼと虎と魚たち
「ジョゼと虎と魚たち」(2004)監督 犬童一心
(2005年 03月 12日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)
大学生の恒夫は、乳母車に乗って祖母と散歩するのが日課の自称・ジョゼこと、くみ子と知り合う。
くみ子は足が悪いというハンディキャップを背負っていたが、自分の世界を持つユーモラスで知的な女の子だった。そんな彼女に恒夫はどんどん引かれていき、くみ子も心を許すが、ふたりの関係は永遠ではなかった。
障害者映画というレッテルに騙されてはいけない。これは純然たる恋愛映画だ。それもすばらしく上質の。
47歳のハゲオヤジ(俺)の眼に涙を溢れさせた佳品である。決して悲しい話ではない。若い二人が、恋愛を通して自立する話である。むしろ切ない。すごく切ない。
特に感動したのは、ジョゼと恒夫がお互いの気持ちを知るシーン。
ジョゼは恒夫にどんどん惹かれていくのを恐れてもいる。なぜなら恒夫には健常者のしかも、とびきり美人のガールフレンドがいることがわかったから。
もう自分の世話を焼きに来ないで、と恒夫に「帰れ」というジョゼ。
恒夫もジョゼに惹かれている。がっかりして帰ろうとする恒夫に、
「帰るのか?」
黙って背中を向けている恒夫。でもその言葉に、動きは止めている。
ジョゼは恒夫ににじり寄ると、そのちいさな拳で背中を叩きながら、
「帰れ。帰れといわれて帰っちゃう奴は帰れ」と泣く。
そして「ここにいて・・・、ずっといて」とつぶやく。
思い出しただけで涙が出る。池脇演じるジョゼのいじらしく可愛らしいことよ。
二人は一年間同棲する。
やがて二人は別れる。恒夫のモノローグは「僕が逃げた」と言っているが、それは違う。そして違うことを恒夫も気づいてはいる。
ジョゼは、恒夫に対する甘えと依存の気持ちが自分自身をスポイルしていることに気づいていたのだ。それは初めての旅行に出かける前の幼なじみとの会話で示唆される。
そして、旅行で泊まった「お魚の館」でのジョゼのモノローグ。
ラストシーン、一人で生きていくジョゼの姿がそれを物語る。そのためには恒夫との恋は終わるべくして終わらなければならなかったのである。
二人の思いは決して醒めてなどいないのである。それは、恒夫の号泣であきらかだ。
「分かれても友達のようになれる恋人もいる。でもジョゼにはもう会えない」
それは恒夫が今もまだジョゼを深く愛しているからなのだ。
にもかかわらず、アマゾンのカスタマーズ・レビューの中には、
「明らかに健常者によって人生を変えさせられた障害者の人生が目に入る」と書いてあるものもある。
馬鹿だなあ。映画の見方が皮相的だよ。
この映画の切なさは、障害者云々を超えた「普遍性」を獲得している。
まあ、俺に騙されたと思ってこの映画を見て欲しい。ユーモアも十分ある。泣けるといっても「世界の中心~」のような幼稚な涙じゃないから安心してくれ。
追記
ジョゼは、自分の幸せに対比して、恒夫が今後も同様に幸せであるか自信が無かったのではないかと思った。
本来、恋とはお互いが同様に幸せであるが、そのバランスが崩れたと思った時から別れが始まる。これは障害のあるなしに関係ない。ただ、ジョゼは自分の障害故に、それに自信が持てなかったのだろう。
二人の最初で最後の旅行は、別れを覚悟したジョゼが、最後に思い切り恒夫に甘えたかった旅なのだ。そう気づくと、そのいじらしさに、俺は再び涙ぐんでしまう。
確かに障害は壁であった。ただそれは二人を隔てる壁ではなく、ジョゼの心の中の超えられない壁だったのだ。
だが、俺たち観客は、それが違うことを知っている。恒夫の涙を見ているから。あの涙で、ジョゼが同様に恒夫を幸せにしていたことを知っているのだ。
ラスト、一人で生きていくジョゼの姿に、彼女が必ずやその心の壁を超えるときがくることを信じている制作者たちの想いが伝わってくる。
不器用な二人の切ない恋の終わり。にも関わらず、不思議なさわやかさがあるのは、そのためだ。
「ジョゼと虎と魚たち 」
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?