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92’ナゴヤ・アンダーグラウンド(4)「約束の橋」

#創作大賞2023

第四話「約束の橋」(1993年 春)

 岐阜市の柳ヶ瀬商店街は名古屋の大須と並び称された商業地区だったが、近年は、衰亡する地方商店街の例に漏れずシャッターを下ろした店が目立った。
 開いている店の中にも、仕舞い忘れた正月用の飾りが店頭の隅で埃をかぶっているようなところもある。
「アーケードのせいなのかなあ、こっちの寒さはやっぱりきびしいですね」と山村が言った。
 アーケードが通りの空を覆い、暖かいであろう日差しを遮っていた。代わりに蛍光灯の薄い明かりが寒々とした光を通りに落としている。
「もともと木曽川越えると三度ぐらい気温低いみたいだぜ」と久利。
「もう二月も半ばですよ」
「春は名のみの風の寒さや、ってやつだな」
「なんですか、それ」
「あれ、音楽の授業でやらなかった?
 早春賦って歌の歌詞だよ」
「知らないっすよ、そんな古風な歌」
 大して歳違わないのになと、久利は苦笑い。
 アーケードの下、二人が向かっていたのは、岐阜市議選候補、畑中さゆりの選挙事務所だった。
「うちで岐阜の選挙戦広告取材するとは思いませんでしたよ」とこぼす山村に、
「金津園のソープ街や西柳ヶ瀬の飲み屋街ってうちのお客だろう?
 だから柳ヶ瀬商店街にもうちの出先がある。そこでアド中部エージェンシーの助っ人としてかり出されるわけよ」と久利。
 選挙広告は新聞広告の掲載回数が「国政選挙の場合は五回、市議選の場合は二回」というように、公選法で決められている。
 今回の岐阜市議選の場合、地元の岐阜日々新報とブロック紙中部新聞の岐阜版が法定回数の中で広告を取り合う形になる。
 中部新聞系列のアド中部エージェンシーだけでは足りずに、サブ代理店のアドプランニング・遊の営業もかり出されるのである。
 今回、アド遊の岐阜営業所に名古屋から助っ人として派遣されたのが山村と久利だった。
 山村は選挙広告初体験、今年の参院選に立候補するパパイヤ共済理事長・大友達彦の選挙広告の予行練習としての意味もあった。
 大友理事長は、昨年末に前進党の比例枠を獲得していた。

 畑中さゆりの選挙事務所は商店街の北の外れにあった。
 入り口横に大きな写真があり華やかな笑顔の美女が微笑んでいる。畑中さゆり本人である。
 閉店した大型洋装店の店を利用しているのだろう。店に残る華やいだ雰囲気が写真に彩りを添えている。三十代半ばであろうか。
「美人ですねえ」と声を潜めて山村が感嘆した。
「昨年までテレビ岐阜のアナウンサーとして、地元の顔だったそうだ」と久利。
 事務所開設から間がないためか、まだ人も少ない。
「ごめんください」と声をかけると、候補者本人が現れて、
「どうぞ」と答えた。
 にこやかな笑顔が印象的だ。写真通りの若さである。
「このたびは、ご出馬おめでとうございます」と頭を下げた後、
「選挙広告のご案内に伺いました」と切り出した。
「そういえば、さっき岐日さんの営業も来てたわ」
 さすが地元紙、動きが速い。
「もうお決めになられましたか?」と久利が聞くと、
「まだです。でもあちらは名簿お渡ししますって言ってくれて、迷ってるの」と微笑んだ。
 名簿とは電話運動のための元になる名簿で、地元学校の卒業生名簿や商店街や自治会などの名簿などだ。
 言外に、お宅は何をしてくれるの? とでも言いたげだ。
 こちらには、手持ちの駒など何もない。名簿どころか、アド遊は社員全員が愛知県民で岐阜には人脈すらない。第一、彼女のいたテレビ岐阜の親会社が岐阜日々新報社であった。
 地の利のないアド遊、どう戦えというのだと、山村は早々に、もうお手上げだ的な表情を浮かべている。
 久利は苦笑いのような表情を浮かべると、
「そうですか、こちらではまだそんな営業されてるんですね」と少し驚きを込めて呆れたような眼差しで言った。
「え?」とでも言うような怪訝な表情になった美女に、
「候補者先生を名簿で釣ろうなんて、失礼な話じゃないですか」と同意を求めるように微笑むと、さゆりも、
「ま、まあ、そうかも」と言った。
 予想外の久利の言葉に戸惑っているのがわかる。戸惑っているのは山村も同様だった。
「名古屋でも十年ぐらい前までは、そのような営業が跋扈してましたけど、
 今はそのような営業したら新聞社から怒られますよ」と名古屋というワードにさりげなく力を込めた。
 ほお、という顔の候補者に久利はたたみかける。
「先生のようにお若い候補者は、従来のような慣習に捕らわれた選挙運動だと苦労されますでしょう?」と聞いた。
 はっとした表情を浮かべると、
「そうなのよ、」とさゆりは口を開いた。
 立候補を決めてから事前準備で体験した理不尽な扱いを語り始めた。
 マドンナ候補と持ち上げられても、それは女性候補を一段低く見る意識の裏返しで、高齢の先輩市議たちからはセクハラまがいの扱いもある。
 テレビのアナウンサーという抜群の知名度と美貌に対する嫉妬は、味方であるべき女性政治家からも感じるという。
 部外者である久利にだからこそ聞かせられる話だった。
 うんうんと頷いては、「それは大変ですねえ」とか「お察しします」と聞いている久利に、畑中さゆり候補の距離がぐんと近づいたのが感じられた。
 結局、久利は広告扱いを獲得し原稿のラフまで制作した。その上で公示の当日、選管事務所で掲載証明をいただく段取りまで決めてしまったのだ。

 事務所を出てアドプランニング・遊の岐阜営業所へ向かう道すがら山村が感心したように言った。
「名古屋と岐阜では営業が違うんですね」
 久利はにやりと笑うと、
「あれは、口から出まかせだ」と言った。
「え? そうなんですか!」
「ここでは、名古屋ではもう、というのがキラーフレーズなんだよ」
 きょとんとする山村に久利は解説した。
 岐阜と名古屋は鉄道でわずか1時間で接続している。岐阜市民の多くが名古屋で働き、名古屋で遊び名古屋で金を落とすのだ。商店街に閑古鳥が鳴くのもそのためだ。
 そして彼らは否応なく名古屋と岐阜を比較することになる。
「名古屋人が東京や大阪に対して抱いているようなコンプレックスを、岐阜人は名古屋に対して抱いてるんだよ」
 名古屋の大手書店の店頭には「名古屋本」というコーナーがある。
 そこには少なくない数の本が、東京・大阪と比較して「だから名古屋はダメなのだ」と叫んでいる。日本を外国と比較して「だから日本はだめなのだ」と叫んでいる同様の本の縮小版である。
 実は岐阜県の大型書店には同様の「岐阜本」のコーナーがあり、そこでは隣県の名古屋と比較して「だから岐阜はだめなのだ」と叫んでいるのだ。
「ふ、深いですね、先輩の分析」
「各自治体には、独特のメンタリティがある。それを知らないと商売はできない」
「すごい!」と山村は感嘆の声を上げた。
「ま、岐阜の人が聞いたら不快だろうけどね」と久利は皮肉な笑みを浮かべた。
「ひとつコツを学びましたわ」と言う山村に、
「名古屋の選挙広告はまた違うんだぜ」と久利。
「どういうことです?」
「ここでは、戦いの構図は、地方紙対ブロック紙のメディアの戦いだけど、名古屋市の場合は、圧倒的なシェアのブロック紙の扱いを、どの代理店が獲るかという、代理店対代理店の戦いになる。
 商品である媒体が同じだから、難度は今回の比じゃねえんだよ」
「甘くないですねえ」と山村。
 でも、それに慣れていくのが営業なんだと久利は思った。
「こういった名古屋と岐阜の地域感情は営業に利用できるんだぜ」と久利が言った。
「それ、教えてくださいよ」
「実は俺、最初はアド中の社員だったんだ。そのころ岐阜へ転勤したことあってな、」
 アド中部エージェンシー時代に、久利は大手学習塾の岐阜支社を開拓したことがあった。
 初めて飛び込んだ時、
「名古屋から来たばかりで、地元の縁故もなく、商売がやりにくいんです」と苦笑いしたところ、それが支社長の琴線に触れたのか、大きな仕事をくれたのだ。
「運がよかったのですか?」
「それが運ではなかったんだ」
 実はその支社長は東京からの単身赴任で、地元社員から紹介される取引先業者が、ことごとく県岐阜商の先輩後輩だったり、岐高の同期だったりという縁故関係だったことに衝撃を受けていた。そして、その浪花節のようなドロドロした地縁関係にうんざりもしていたのだ。
 そこで名古屋からやってきた都会的な営業をする若者に心をつかまれてしまったわけだ。
 愚痴を吐かせて心をつかむのは、先ほどの畑中さゆり候補で実証済みで、山村は感心したように聞いている。
「この経験を生かして、大手企業の岐阜支社をいくつも開拓できたよ」
「すごいじゃないですか」
「でも、あざとい手法だぜ。支社長が本社に戻って地元出身の支社長が誕生した途端、拡大した扱いごと地元業者に逆戻りなんだ。反動がでかい」と久利自身は冷めていた。
「それで、ですか?
 うちのような会社に来たのは?」
 久利は笑って答えない。そして、
「この手法は、俺たちみたいな名古屋の広告会社が、全国区の大手広告会社にしてやられてることを、岐阜で岐阜のローカル会社にやっているだけなんだよ」と皮肉な笑顔を浮かべるのだった。

 翌日、久利は瑞穂区の弥富通りに面した民営アパートの一室にいた。
 早めの昼食をとるために営業マンたちの車が近隣の飲食店に駆け込むためか、道路は空いていて丸の内のアド遊本社から15分ほどで着いた。
「早いねえ、呼びつけちゃったみたいで恐縮しちゃうな」と社長が笑った。
「道路が空いてまして、むしろ早すぎてすんません」
 いつもの社長のおっとりとした言い方にこっちが恐縮する。
 久利より五歳ほど年長なのだろうか、人当たりも柔らかく、外見もぽっちゃりしていて柔和な笑顔が印象的だ。同居している内縁の妻・カナさんと一緒にウサギを飼っている優しい人だった。
 とても背中に入れ墨を背負っているようには思えない。
 社長はすでに自分で求人原稿をまとめていた。
「プロの目で掲載基準とか確認してね」と言ってきれいにまとめた原稿用紙を手渡した。
 内容は、スポーツ中部掲載用の求人広告で、のぞき喫茶と呼ばれる風俗店「アトリエ・トミー」のものだった。
 掲載基準はすべてクリアしている。もう四年近い付き合いのある社長だ。このあたりの感触は熟知している。
「問題ないです」と告げながら、久利は求人広告用の原稿を組版用の指示を入れた形に清書していく。
 行数ものと呼ばれる求人原稿は、新聞社でもまだ活版印刷で活字を植字する組版で制作される。
 記事下広告の大半が写植原稿になったが、この行数ものだけは未だに植字工が活字を拾っているのだった。
 前払い広告料を集金して、さて帰ろうかと思ったとき、社長が、
「これ見て欲しいんだ」と一冊の雑誌を広げた。
 表紙には「熱烈!写真塾3月号」とある。俗に写真投稿誌と呼ばれるエロ本で、最近はコンビニの店頭でも買える。
 開かれたページにはマジックミラー越しに扇情的なポーズをとるモデル嬢の写真が掲載され「のぞき喫茶潜入しました」と書かれている。投稿者のペンネームは「カメっ子トミー」となっていた。
「宣伝記事ですか?」と聞くと、
「それなら問題ないけど、これ盗み撮りなんだよなあ」と社長。
「間違いなくうちの店内よ」とお茶を持ってきたカナさんがこぼした。
「客の盗撮ですか」
「宣伝用なら顔を隠すとか配慮するけどね。
 これ誌面では顔にモザイク入ってるけど、元写真は顔バッチリ写ってると思う。
 これじゃ、うちのモデル嬢が安心して舞台に立てないよ」
「アトリエ・トミー」では、ストリップで言うところのダンサーたちをモデル嬢と呼んでいる。
 店の中央の舞台を個室が囲んでいて、マジックミラー越しにステージ上の部屋の中でポーズを取る嬢を観ながら客には自慰に励んでもらうわけだ。
「これだと女の子が困るし、客の顔も映っていると大変なことになる」
「確かに、大変ですね」と言ったあと、嫌な予感がした。
「うちのモデル嬢たちの中には、この仕事で家計を助けながら大学行ってる子もいるのよ。顔ばれしたらかわいそう」とカナさん。
 確かに、この店では「お触り」も「手仕事」もないから、素人娘が働いていても不思議ではなかった。
「確か久利さん、探偵っぽいことしてたよね」と社長が言った。
「ええ? 誰から聞いたんですか!」と、ある主の予感に、久利の声もうろたえ気味。
「うちのワイフがノンノンって店で聞いてね。この久利さんてアド遊の久利さんじゃないのって言うんだ」
「ノ、ノンノン!」
「あそこのママ、私の先輩なの」とカナさん。
「やっぱりそうだった」とうれしそうな社長の笑顔に、もう抗うことができない久利だった。
 直ぐ当たる予感にろくなものはないのだ。

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