見出し画像

モンテッソーリの語る子どもの市民権:社会全体を子どもの家に

It is obvious that we demonstrate a lamentable lack of conscience when we fail to recognize that the child is a personality with great human value and sacred social rights. …Yes, of course, we all love children, we love them a great deal, but we do not appreciate them for what they really are.

子どもが人間としての深い価値と神聖な権利を持つ人格者であるということに気づかないとき、私たちは嘆かわしいほどの良心の欠如をはっきりと示しているのです。…もちろん誰でも子どもを愛しています。非常に愛しているのですが、子どもの本来の姿を理解しているわけではありません。

Education and Peace by Maria Montessori, Chapter 6
マリア・モンテッソーリ著『教育と平和』第6章

モンテッソーリ教育の施設はCasa dei Bambini、子どもの家と呼ばれる。これはマリア・モンテッソーリがローマのスラムに最初に作った子どもの施設の名前でもある。しかし子どもの家という名は同時に、ラディカルな社会的主張をも含んでいるように思う。

モンテッソーリは言う、子どもは「忘れられた市民」であると。今や労働者の権利、女性の権利は認められ、奴隷も解放された。しかしこうした解放運動にすら忘れられている存在がいる。子どもである。

子どもはいつから人間になるのだろうか、彼女は問いかける。もちろん生まれた時から、あるいは受胎した時から子どもは人間である。しかしこのことを本当に突き詰めていくと、大人の世界は、子どもという小さな人間の市民権を守るために多大な責務を引き受けざるを得なくなる。

子ども保護区としてのモンテッソーリ園

子どものための世界を作り出すこと。これが、マリア・モンテッソーリの考えた大人の責務である。

「こうした小さな人たちは自分を擁護して発言することはできません。それでも私たちにこう訴えているのです。『私たちには自分たちの世界を持つ権利がある』と。」(マリア・モンテッソーリ著『教育と平和』第6章)

社会は基本的に健康な大人のためにできている。子ども、病人、障がい者など、弱者の肩身は狭い。このような状況で弱い者を守ろうとする場合、おおまかに2つのアプローチがある。ひとつは特別な保護区を作ること、もうひとつは社会全体を変えることである。子どものための世界の建設にも、この両面がある。

手をつけやすいのは保護区を作ることであり、初期のモンテッソーリが考えていたのもこちらであったように思う。親や家族が変わらなくても、子どもの家という特別な場を用意すれば、そこで子どもは大人による抑圧からしばしのあいだ解放されて過ごすことができる。ただのおもちゃではなく発達上のニーズに応える環境があれば、子どもは自己を創造するというミッションに打ち込むことができる。

こうした子どものための生活の場。これがモンテッソーリ園の正体であり、モンテッソーリの考えた理想的な子どもの保護区であった。

社会全体を子どもの家に

しかし、子どものための世界を作ることは、子どもの家を建てることとイコールなのだろうか。

それはないだろう。モンテッソーリが構想した子どもの世界は子どもサイズの家具や建物を軽々と超える。

彼女は言う、大人の世界に存在するものはすべて子どもの世界にも存在してしかるべきであると。子どもにも権利、社会生活、政治参加のかたちがあるはずで、議会には子どもの議員を置くべきである、と。そして実際、1937年の国際モンテッソーリ第6回世界大会では、Social Party of the Child(子ども社会党)の結成を呼びかけた。

社会の外に保護区を作るのではなく、社会自体を変えて子どもの居場所を広げていく。子どもという存在を子育てや保育といった特殊な世界に押し込めるのをやめて、意思決定や議論の場にも含めていく。この構想はモンテッソーリの時代には彼方の夢、現代でも実現には程遠いが、このレベルのインクルーシブ社会というビジョンは、マリア・モンテッソーリが残してくれた遺産の一つであると思う。

手始めにモンテッソーリ教育の場をモンテッソーリ園の外にも広げてみたらどうか。子どもが人間としての権利を尊重される場は、ある意味において子どもの家である。子どもの言動の表面ではなく、真に発しているメッセージに耳を傾ける大人のいるところは、どこでも子どもの家になりうる。

必要なのは教具一式ではなく、新しい大人である。そうしてモンテッソーリ教育という言葉すら意識されなくなった時、社会全体が子どもの家、そして人間の家になるのだと思う。

そこで私たちに迫ってきたひとつの問題性というのは、どうして精神薄弱であるということが社会問題となるのかという根源的なものであった。…いうなればこの子たちとのとり組みの歴史は、それはまことにささやかなものでしかなかったけれど、それ自体としては社会のさまざまな矛盾のただなかにあって、人間の新しい価値観の創造をめざすといった歴史的な戦いの一環であったということができるであろう。それはいまも終わってはいない。おそらくは永遠の戦いででもあろうか。

糸賀一雄著『福祉の思想』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?