「不便」の贅沢さ

音楽を大事に聴くこと

レコードが楽しいという話をした。
ターンテーブルにセットして針を落として、A面が終わったらひっくり返し、それも終われば盤を取る。
この一連の作業をすることで、なんだか音楽を大事に聴いている気になれるからだ。

さて、そんなレコードの魅力は何かをもう少し考えてみる。

サブスクやCDとの大きな違いとして、曲を気軽に変えられないということがある。もちろん、針を動かせば変えられるし調整すれば好きな場所から再生できる。

しかし、デジタルよりもはるかに面倒だ。盤面に曲名が書いてあるわけでもないし、いまどのあたりを再生しているのかなんてのもすぐにはわからない。
そう、これなのだ。

「知らない曲」に時間を費やすこと

レコード(LP)は、一度かけてしまえば基本的にそのまま3曲か5曲ぐらいがノンストップで流れていく。だが、ワンタッチやスクロールで曲を飛ばすことはできない。
そのアルバムの世界から逃げられなくなるのである。

メジャーな曲とか、好きな曲とかはもちろん、そうではない曲も自然と耳に入ってくる。
だから”知らない曲”も好きになる。
スクロールしていたら飛ばしてしまう曲たちが、お気に入りの一曲になるのである。こんなに贅沢なことがあるだろうか。

アーティストがアルバムの曲順を一生懸命考える理由が良く分かった。
もっとも、レコードに限った話ではないだろうが。

不思議なことに、最初は「いまいちかな?」と思っていた曲すらもだんだん好きになっていく、そんなことも起こる。

サブスク、例えばSpotifyはユーザーが好んで聴くジャンルなどをもとにおすすめのアーティストの曲をレコメンドしてくれる。それをタップすると、名も知らぬ私の”好きな曲”と出会える。
非常に便利だし、ありがたい。

だが、結局のところ「これは違うな」とイントロが始まって5秒でも飛ばしてしまう。もったいないと思うが、”タイパ(タイムパフォーマンス)”を考えると致し方ない。

時間は有効に使え、と子供のころから教えられてきた。それは間違いではないし、その通りなのだが、合理的・効率的に”僕が好きなもの”を吸収しようとしたら、気に入らないと第一印象で感じた音楽はスルーするようになってしまった。その曲は、一生聴かないかもしれない。

それってすごく勿体ないな、と思う。

ラジオの価値

少し話は反れるが、個人的にはラジオで音楽と出会うのが好きだ。

ご存じの通り、ラジオは昔から音楽を広く市民に伝える役割も果たしてきた。局のおすすめだったり、リスナーのリクエストだったりまちまちではあるが、流す量は圧倒的に多い。

私は”自分が知っている曲”よりも”自分が知っていてもいなくても、自分のグルーヴ感に合う音”を浴び続けていたいタイプの人間。
ラジオから流れてきて「お?!」というものがあれば、その場で調べたりもできる。

特に、車を運転しているときにラジオから流れてくる音楽というのは、車窓やその時のシチュエーションも合わさって記憶として残る。
そして、ハンドルを握っているのだから当然、曲を飛ばすことはできない。わざわざチャンネルを変えるのも面倒だし危険だ。

聴き始めたらその音楽から逃げられない。
結果的にそれが音楽とリスナーである私をつなげるのである。

タイパの価値って

ただ、逆に考えると「親指でスクロールすればすぐに違う世界に行ける」現代のほうが異常なのであろう。
これまでは、音楽から逃げられないのが当たり前だったわけだ。

しかしながら、その便利さは感動を犠牲にして享受しているだけだった。
もっというと、その便利さを得たところで我々が必ずしもそれを有効に使えているかというと、怪しいところが残る。

映画のシーンを切り貼りしてYouTubeなんかに流す「ファスト映画」が流行り、問題視されたのは記憶に新しい。これも似たようなものだ。

一作品を鑑賞するのに1時間半以上はかかる映画は、きわめてタイパが悪い。周囲に合わせるためストーリーだけを知りたい、とかそういう動機ならばなおさらだ。
「時間はないがストーリーは知りたい」。そんな若者のニーズと合致したのであろう。

それでは、若者がその空いた時間で何をするかと言えば、まあだいたいはSNSウォッチングやYouTubeの動画鑑賞の時間になるのだろう。たしかに情報のインプット量は多い。

その情報の質が伴わないことが多いのは当然であろうと思う。

しかし、世の中の情報量があまりにも多すぎ、毎日のように話題が変わる。
そして、そこにかける時間もお金もない、というのが現代の若者である。

これは教養とか学びにもいえることだ。
何かを知りたいと思っても、「タイパ」「コスパ」を求めてしまい結局のところ、"本物"にはたどり着けない。

お金も時間もないので、有斐閣アルマとか各社の新書とか、読もうというモチベーションにもならないのだ。

本屋で「簡単にわかる!」といった安っぽい本が溢れているのも、実際にニーズがあるからであろう。

専門家でもなんでもない某お笑い芸人がニュースを解説するYouTubeチャンネルを観て、無料で"教養"を得た気になってしまう若者も多いのも、社会が「タイパ」を求めた結果である。

不便の贅沢さ

時間とお金をかけるのが贅沢な時代である。
レコードブームの本質は、ここではないだろうか。その面倒くささが「贅沢」なのだ。

でも、趣味や娯楽にさえ「効率」を求めるなんて、つまらないじゃないか。

これは別に、技術革新がダメだということではない。本来であればその技術で社会は次の次元にアップデートできるからだ。

しかし、今の社会はどこもかしこも余裕がない。ここは30年も失われている国だ。
本来であれば、技術を使ってさらなる余裕を作り出さねばならないのに、ただ余裕がないところを補うために使われているのである。
仕方がないといえば仕方がない。だが、寂しすぎるな。

みんなが"本物"に触れられるような社会に、遠回りをしてでも「私が好きなもの」と出会える社会に、もう一度できないだろうか。


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