「一番」人間
これはこの前書いた「みかん山のおじさん」のアナザーストーリー。
「あなたが今まで一番頑張ってことは何ですか?」
就活をしたことがある人にとって、これは毎度耳にしてきた言葉なんじゃないだろうか。私も絶賛就活中なので、これを聞かれたときのセリフはもちろん用意している。ボランティア、高校野球、趣味、学業、アルバイト、、、などこれまで意外と色々なことに取り組んできたつもりだ。そこから受ける会社に合わせ、うまく取り繕い、言葉にする。それを真面目な顔して話すようにするだけだ。準備さえしておけば、そんなに難しいことではないと思う。
そんな自分にとっての「一番」を考えようとするたびに、何か胸につっかえるものがある。そもそもの問いに疑問、まではいかないが違和感が残る。いつもの悪い癖がまた出てしまう、そんなこと考える必要も時間もない。なのに余計な事ばかりに意識が膨らみ、気が散ってしまっている自分に、また呆れる。しかし、モヤモヤは晴らしておくことに越したことはない。しばし、そのモヤモヤに遠慮することなくどっぷり浸かってみた。
先程の質問に戻って考えてみる。
「あなたが今まで一番頑張ってことは何ですか?」
正直頑張ってきたことなんて数えてしまえば、無限にある。なんだったら今この瞬間も頑張っている。生きることは疲れることだ、頑張らなければ生きていけない。弱冠20歳過ぎにしてそんな気がしていることはしんどいが、今までの人生の中から「一番」を決めることは、よりもっと面倒で、しんどい。「一番」頑張ったことを決めてしまったら、まるでそれ以外は頑張っていないみたいな気にもなってくるからだ。比べるってきっとそういうことだろう。
そんな時はいつも、みかん山のおじさんの言葉が脳裏によぎる。
酒を呑んで少し勢いのついた私は、おじさんに
「今まで一番影響を受けた出来事はなんですか?」
と聞いてみた。するとおじさんはこう答えた。
「一番なんてないよ。その時々で大事なことなんて変わる。だから一番なんて決めてない。」
またしてもハッとさせられてしまった。この言葉を聞いてからだ、このモヤモヤが始まったのは。何か人に質問するたびに「一番」ってつけて尋ねている自分がいることも、その出来事以降見つけては、なんだか空しくなってくる。
そもそも「一番」ってなんなんだろう。何気なく使ってしまっている言葉ではあるのだが、「一番」ってのは一体何を指しているんだろうか。ある枠組みの中で最も順位が高いものを「一番」というのだとしたら、現時点で私には、数えきれないほどの「一番」を持っている。「一番」は一つなはずなのにだ。
ここまで既に「一番」って言葉を使いすぎてしまい、なんだかゲシュタルト崩壊している気がしてきた。このままでは本当に溺れかねない、なので「一番」の前に、なにか言葉がつけて考えてみた。すると、案外頭が整理されることに気づく。核心のシッポを掴めたかもしれない、ささくれのように少しだけ剥がれたそのキッカケを慎重にめくり、肉の塊のような真理に素手で触れてみることにした。
例えば「時間」をつけてみる。
今「一番」頑張っていることは、もちろん記事を書いていることだ。眠いしだるいし、サボることは楽しいことなのでついついしたくなるが、それでもしていないのは、きっと頑張っているからだ。
でも明日の自分が「一番」頑張っているのは、記事を書くことではないだろう。ラーメンを食べることに「一番」頑張っているかもしれない。
そして同様に過去の自分が「一番」頑張ったのは、また変わってくる。
一番ってのはこんなに頻繁にコロコロ変わるものでもある。「一番」ってのは不動ではない、トレンドなのだ。
例えば、「どのように」頑張ったかをつけてみる。
とにかくガムシャラに、脇目も振らずに頑張っていた「一番」は、恐らく高校野球だろう。
本気で甲子園を目指していた、と言える環境に身を置けたからこそ、真っ直ぐ頑張れていたと言えると今になって思う。たしかに、間違いなく「一番」頑張っていた、帰って練習してことも親に嫌がれたこともあったくらいだ。
余談だが、その三年間では、何も実らなかったことも私の中ではとても大きい。こんなにも自分が凡人であることに気づかせてくれる出来事は、これから先指折る数しかないだろう。挫折するのも才能、と教えてくれたのは高校野球である。
また、自分たちがしてきたことを後輩に伝えるために頑張っていた「一番」は、ボランティアだろう。
自分たちは今まで先輩たちが繋いできた歴史の一部でしかない、ということに気づき未来を意識できるようになった。そのためにとった行動は、概ね空回りしていたとよく周りから言われたことも懐かしい。
「一番」頑張ったからこそ空回りしたことで、人に伝わるって信じられないほど難しいと知れた。頑張らなくてうまくいかないことは当たり前だが、頑張ってうまくいかないことは事件なのだ。そこには根幹的な問題がある。
そして、寝る間も惜しんで作業し続けた「一番」は卒業設計であろう。
もう二度とあんな思いはしたくないが、あれはあれでたしかに「一番」頑張っていた。徹夜した朝にトイレの洗面台で頭を洗っていたことに、なんだか「一番」自分が引いている。髭を剃る間も惜しんで机に座り続けることが、今後ないことをただただ願っている。
最後に無理して時間を詰めて取り返そうとしても、無理だということにも「一番」頑張ったからこそ気づけた。最後の最後で一発逆転できるほど、世の中は甘くない。人間は積み上げてきたものでしか戦えない、凡人なら尚更だ。
そして、その瞬間瞬間では、「一番」頑張っていない自分も同居している。自分の最大限の力で取り組んでいた時間は、恐らくこの中であっても2割にも満たない。それでも「一番」頑張ったと言えてしまっている自分がここにいる。でも嘘だとは思えない。
ますます分からなくなってきた。「一番」を探す度にあれもこれも湧いて出てくる。一つに絞るどころか色々派生しては、さまざまな「一番」をつくっている。そうやって「一番」で自分を飾っているのは、自信のなさか自己満足か。どうだとしても、それはどれも「一番」ではきっとない。「一番」を探せば探すほど、「一番」を見失うなんて、これだから考えることはやめられない。
そして、またおじさんの言葉が遠くから聞こえる。
「一番なんてないよ。」
ここまできて分からないなら、もうお手上げだ。「一番」なんてないのかも知れない。ささくれをめくった結果、めくらなきゃよかった状態、ある種賢者タイムに入っている、誤算だった。
ただ一瞬触っただけでゾワっとする生傷に、少しの間触れても平気なくらいには、モヤモヤは回復したのかもしれない。
ただひとつ言えることは「一番」って一瞬だ。その瞬間、「一番」だったと思うだけで、この先だっていくらでも変わる。
もう一々決める必要ない気がしてきた。きっと「一番=best」ではなく、「一番=better」ということなのだろう。もしかしたら、一番はその時々で覆されなきゃいけないのかもしれない。
現時点では、「一番」は結局何かわからないままだったが、その内見つかるかも知れない。その時まで待とうと思う。人間、放っておくことの大切さを、最近になって気がついた。
カサブタだっていじっていては、いつまでも治らない。キムチだって発酵しなければ、美味しくならない。今回のモヤモヤはまだカサブタだった、それだけの話だ。いつかキムチになっているといいな、なんて思って、今回はここで諦めることにする。
キムチ食べたい。
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