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「友達」関係にも新陳代謝を


・「ともだち100人できるかな♪」なんて歌があるけれど、そもそもそんなに友達って必要なんだろうか?
 50歳を過ぎると、仕事も責任ある立場に就き、ますます忙しく乗ってくる時期。限られた時間の中でも「会いたい」、「話したい」、「飲みたい」と思う人って、実はすごく少ない。
 形式上の「友達」という言葉の呪縛によって、しんどくなっていませんか?

話題さえ選ばなくちゃいけないのに「友達」?

 

 「友達」って何だろう?
 
 ここ最近、ものすごく考えさせられることがあった。
 
 昔からの縁だから?
 青春時代をいっしょにすごしたから?
 それとも何となく?

 いや、そんなことを考える時点で、もう違うのかもしれない。

 ましてや、「これを言ったら自慢って思われちゃうのかな?」とか、「返事しないとまずいよな」などと気を使うようになったら終わっているのかもしれない。良く一緒に飲む友達や仕事仲間に対し、こんなことを考えて接したことがないしね。

 でも、どうしてこんな風に話題さえ選んでしまう人と、選ばないでストレートに話せる人がいるんだろう? その差っていったいなんなんだろう?

 とどのつまり、「歩んできた道が違う」のと、年を重ねる中、双方の「価値観の相違」が生まれたからだ。

 親の庇護の元で育つ10代は、育った環境が大幅に違わなければ価値観はそう変わらない。だが、酸いも甘いも経験してきたアラフィフともなれば、イヤでも変わってくる。私の場合、離婚も再婚も経験してるし、仕事もほぼフリーランスという形態なので、かなり特殊かもしれない。といっても、「価値観は違っていてあたりまえ」と考えているので、どんなことにおいても違う意見があって当然と思うのだが、他の人からするとそれは「異質」に思われたりもする。「みんなといっしょ」が良しとされる日本だとなおさらだ。

 人に合わせることももちろん大事だが、ムリが重なると苦痛でしかなくなる。特にLINEなどのSNSはしんどい。文字だけだと誤解を与えてもめることが多々あるし、操作ミスで知らぬ間にグループを抜けてしまったこともある。そんなことが幾度となく重なり、グループLINEはほぼ退出してしまった。そこで関係性が終わってしまうなら、「その程度の友達でしかない」と思ったからだ。

ライフステージによって「友達」は変わる

 

 友達が大切だということはわかるし、実際にそうだと思う。しかしある程度の価値観が確立したこの年齢になると、心許せる友達はそう多くなくてもいいと思うようになった。一緒にいてしんどいと感じるなら、ひとりでいるほうがよっぽどいい。

結婚、出産、転職でライフステージは変わり、その都度、「価値観」は変化していく。変化した価値観を享受し合えない場合、ムリに友達でいる必要はなく、また時期を見て、ともに互いを認め合うことができるまで、つきあいそのものを保留にしておけばいい。大事なことなので、繰り返すが、縁を絶つのではなく、あくまでも「保留」である。縁があれば、つきあいは復活するし、「もうあんなヤツとはつきあいたくない」と思われたのならそれまで。固執しても何もいいことがない。

肌と同じよう、友達関係もまた新陳代謝が大事だと思う。仕事によって人間関係や環境が変われば、昔の友達と話が合わなくなって当然だし、「話が合う」、「いっしょにいて楽しい」と感じる相手も変わっていく。でもそれは決して悪いことではないし、冷たいワケでもない。「成長を続けたい」と思う人にとって、必要不可欠なことなのだから。

◇◇◇◇

今、「友達」と呼べる人を指折り数えてみたら、両手でじゅうぶん足りてしまった。
人から見たら「さみしい人」と思われるのかもしれない。いや、「変わった人」かな?
しかし当の本人は、さみしいとも思っていないし、ましてや変わっているという自覚もない。こんな私とつきあってくれる稀有な友達に、心から感謝を贈ります。

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