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「友達」の賞味期限

・「友達」には賞味期限がある。こんなこと、この歳になるまで考えたことがなかった。
一度、「友達認定」したら、それが永遠に続くと信じていた。でも現実はそんな甘くない。「ずっと友達」でいるって、実はすごく難しい。

「友達」関係は永遠?


友達になったら、その関係は命が尽きるまで続くと思っていた。

「おばあちゃんになっても仲良くしようね」

なんの気なしに、そんなことを言っていたけど、歳を重ねるにつれ、それがいかに難しいかということを痛いほど実感した。

いや、ホントに心底、「おばあちゃんになっても仲良く」したかったよ。
友達って呼んできた人全員と。

でも、歩んできた道が異なり、それぞれが違う価値観を確立してしまうと、それは奇跡に近いくらい難しい。

最初のうち、価値観の違いはボタンのかけ違いみたいなもので、すぐにリカバーできる。
だが回を重ねるごとに違和感が増し、やがてそれは「この人とは相入れない」という絶望感へと変わっていく。

残念ながら、そこまでいくと、友達の賞味期限が切れてしまったと思ったほうがいい。

「相入れない」と思う決定打は
「これをされたらイヤ」ということが違うことに尽きる。


「イヤと思うことが違う」のは致命的


元々、友達としてスタートしてるのだから、好きなこと、趣味が合うのは当たり前。

だが意外と知らないのが、「これをされたらイヤだと思うこと」。
例えば、時間にルーズなのが許せないとか、お金にだらしないとか。

私の場合、どんな時も自分を押し通す、そして謝ることができないことが最も「イヤ」だと感じる。

こちらがイヤと思うことを、相手がイヤと思わないなら、その時点で話をしても噛み合うわけがない。
違う言語でケンカをしているようなものだ。

話し合ったらわかりあえる?
答えは「NO」。

もしかしたら、話し合うことによって、一時はうまくいくかもしれない。
だが根本的に「イヤと思うことが違う」のだがら、必ずまた同じことを繰り返す。

50余年生きてきて思うのは、「どんなに頑張っても、わかりあえない人もいる」ということ。

その事実を受け入れるのは、非常につらいし残酷だ。
それが友達と呼んできた相手ならなおさらキツイ。

だが、「二度と会いたくない」と思うほど、憎しみがわくほどキライになるのはもっと悲しい。

ならば、友達の賞味期限が切れたこと、そして成長の過程で互いの価値観が変わったことを素直に受け入れ、友達から知人へとトーンダウンしたらしい。

そんなの逃げだとか、話し合いもしないでと責める人もいるだろう。
悪いけど、そんなのただのキレイごとだ。

それにもう、少女マンガみたいに互いの言いたいことをアツく言い合って、傷つけあって、そっからやり直す気力も体力もない。
こちとらもうアラフィフのオトメなんだから。

それに一度放った言葉は二度と消えない。
じくじくした傷痕となって、事あるごとに膿を出す。
その膿は相手に対する不信感へと形を変え、ずっと付きまとう。

なんでもかんでも言い合えるのが友達なんて幻想だ。
友達だからこそ、言わないほうがいいこともある。

とどのつまり、友達関係を維持するのに頑張る必要はない。
イヤだったら逃げたっていい。
がんばること自体、もう友達の賞味期限が切れているんだから。

そんな必死に努力しなくても、続くものは勝手に続く。

気づいたら、いつのまにかおばあちゃんになって、一緒に笑っていた。

私はそんな風に時間を共有できる人を友達と呼びたい。

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